まんぼ~旅行記 フアヒネ島(6) アニニのマラエとマヌヌのマラエ

2016年11月30日 | フアヒネ

「イアオラナ~。 オッケー すぐに迎えに行くわよ」

タヒチらしからぬスピードでマイタイラピタビレッジに到着したバエア
さんは、昨日のお仕事モードとは異なる車と服装で登場しました。

挨拶もそこそこに助手席に乗せてもらい、マラエに向かって出発です。

マイタイラピタビレッジからアニニのマラエとマヌヌのマラエを訪問して
帰ってくると、2時間もあれば十分だと教えて頂きました。

ダッシュボードの上には赤いハイビスカスが置いてあります。



走り出して早速、車を運転しているバエアさんから提案が。

「昨日のツアーに一緒に参加していたフランス人のご夫婦が宿泊して
いるペンションに行って、2人を驚かせてやろう」

なるほど、ミニドッキリですね。

昨日の終わりに「それではまた」と言って別れましたが、一夜明けて
再会するミニドッキリは大成功に終わりました。

ペンショントゥプナを出発です。



ペンションを出発してしばらく走るとまたストップ。

「あそこに咲いている綺麗な花をとってきてちょうだい」

言われるままに私は車から降りてそれらしい花を見つけ、車に戻ると
バエアさんはその花をダッシュボードの上に置きます。

しばらく走るとまたストップして、今度は道路脇の葉っぱをその場で編み、
お皿や冠を作って見せてくれました。





車が走り出すと、しばらくしてまたストップ…。
今度は一緒に車を降りて道端に咲く花や木の実などのお話。

なるほど、バエアさんはフアヒネ島に咲く花なども見学をしながら
アニニのマラエを目指しているようです。

ラジオから流れてくるタヒチアンソングに鼻歌を合わせてみたりして
ご機嫌です。

これは楽しいドライブになりそうです







しばらく走ると、地元の人がヤシの実をひたすら剝いている広場に
車を横付けしました。

リゾートへの送迎ボートやレセプションに到着した時に頂くことがある
ココナッツジュース。

また、お土産に喜ばれるココナッツ石鹸やココナッツオイルなど。

ここが全ての故郷ではないかと思われるほど山盛りです。

手前に見えているのが今からさばくヤシの実で、背後に見えている
貝塚のような丘は全て剝き終えたヤシの皮です。



地面に突き刺さったヤリのようなものに、両手で持ったヤシの実を
叩きつけるようにグサリ。

ヤシの実を持ちかえて、グサリ、グサリ、グサリ。
あっという間に緑色の実が真っ白に変わります。

まじまじとこのような作業を見学した記憶がありませんので見応えが
ありました。 とにかく裁くスピードが速いです。

「ちょっとさ、この人にジュースをあげてよ」

バエアさんのお願いにより、ココナッツジュースを頂きました。

少し強引にジュースを頂いたような感がありますけど、私の気のせい
だと思うことにします。







フアヒネ島にはフアヒネヌイとフアヒネイチがあり、海岸線に沿って
いない道もありますので、所々にアップダウンがあります。

湾を見下ろす山の中腹からは遠くにクルーズ船が見えたり、周囲を緑に
囲まれた景色が急に開けたり。

このような景色を楽しみながらグイグイと目的地を目指します。

フアヒネヌイとフアヒネイチを繋いでいるのがマロエ橋で、マロエ橋を
越えてアニニのマラエに到着しました。





フアヒネイチの地域社会で大きな役割をはたしていたアニニのマラエ。

後ほどご紹介するマヌヌのマラエとアニニのマラエの最大の特徴は、
アフと呼ばれる祭壇が2段階になっている点になり、より高い方が神に
近いという意味になります。

このようなカタチをしたマラエは非常に珍しいのだとか。





アニニのマラエには戦いの神であるオロ神と、泥棒の神であるヒロ神が
祀られていました。

オロ神には少なくとも14名の生贄が捧げらたとされます。

マラエの部位によって異なる機能を持っていたそうで、ロイと呼ばれる
祭壇のプラットホームはオロ神とヒロ神の寝床。

垂直に立っているオファイトゥルイという石は、司祭やリーダーが寄り
かかったり休憩するために使われていたとか、亡くなった酋長の記念碑
であったとも考えられています。

近くにはオロ神の家があったとされる場所があり、各柱の下に生贄が
ともなわれたそうです。





ウーン、見えそうで見えません。

上からマラエの形を見学したいですけど、背伸びをしてもジャンプを
しても2段目がよく見えません。

マラエに登るわけにもいかず、ドローンでもあればなと思いました。

周囲の石はデタラメに立っているのではなく、ある程度ピタっと寄り
添っています。

昔の人がこのような石組みを造ったのですから凄い技術だと思います。





アニニのマラエの見学が終わりましたので次はマヌヌのマラエ。

私はそのように思っていましたが、マロエ橋を渡ってフアヒネヌイに戻り、
やがて車は道路が行き止まりになる場所にやってきました。

誰の目にも明らかな立ち入り禁止。
それでもバエアさんは車から降りて堂々と入って行きます。

「立ち入り禁止だなんて、失礼しちゃうわっ!」

頼もしい後ろ姿に引き寄せられるように、私も続くことにしました。



進入して直ぐに地元の人が登場し、遠くから我々に何か言おうとした
ようですが、バエアさんを見ると何も言わずに帰っていきました。

何も言わなかったのか、何も言えなかったのか…。

きっとこの人は、フアヒネ島ではどこでも顔パス状態なのでしょう。

しばらく歩くと高いヤシの木に囲まれていた視界が開け、目の前には
綺麗な海が広がりました。



ここは何年も前に閉鎖してしまったソフィテルヘイバが存在していた
場所です。

幾らか小ぶりのプールの底には木の枝や葉が積もり、かつては綺麗で
あったはずの水色も、今はだた悲しい雰囲気を漂わせています。

釘がむき出しの朽ち果てた桟橋は残骸と呼ぶのが適当であり、ここに
水上バンガローが存在していた面影がかすかに感じられます。

リゾートが閉鎖されると、それを整理するにも膨大な費用がかかります
ので、このような姿で残ってしまいます。



バエアさんのお父さんはフアヒネ島で漁師をしていたそうで、水揚げした
魚をソフィテルヘイバに卸して生計を立てていたそうです。

また、日曜日になると家族でソフィテルヘイバに遊びにきてプールで
遊んだり、レストランで食事を楽しんでいたのだとか。

ここはバエアさんの幼少時代の思い出が詰まっている特別な場所だと
知ることが出来ました。



適当に周辺を散策していると突然バエアさんが、「クイックシャワーを
浴びる」と言い出しました。

冗談を言っているのだろうと思って振り返ると、既に海に向かって走り
出しており、そのままの勢いで海にドボーン!

私もお付き合いでドボーンしておきました。



バエアさんにはニュージーランド人のご主人との間に生まれた2人の
お子様がいらっしゃり、どちらも女の子。

バエアさんのお父さんがそうしていたように、日曜日になると家族で
ここに遊びに来て泳いだりするそうです。

子供は小学校でお勉強中だそうですが、今から学校に行ってみようと
いうお話になり、寄り道をしながら学校に向かいました。





ちょうど休み時間なのか、大きな木の下で子供が遊んでいます。

さすが小学校。ジャイアンから静香ちゃんまで一通りのキャラクターが
揃っています。

バエアさんの呼びかけに気付いた女の子が駆け寄ってきました。

6歳なので下の子でしょうか。
将来の夢は先生になることだそうです。

生徒になったばかりなのに、もう先生になる未来を想像しています。
なんてしっかりしているんだ。

私が君くらいの頃は、忍者になりたいと思っていたよ。





ふとタハア島で暮らす少年の事を思い出しました。

たしか、大きくなったらハワイキヌイのカヌーレースに出場するんだと
意気込んでいたような。

警視庁のマスコットのピーポ君にソックリなあどけない少年も、今頃は
大きくなっていることでしょう。

小学校を出発してマヌヌのマラエを目指します。

もちろん、何度も寄り道を繰り返しながら。







さっ、目的地であるマヌヌのマラエにやってきました。

地元の人が近くでゴミを燃やしていたので、煙がたちこめて幻想的な
雰囲気を演出してくれています。

ナイス、地元の人。





マヌヌのマラエはマエバ村の東にある海岸線にあります。
目の前に現れたマヌヌのマラエの大きさに言葉を失いました。

祭壇の高さはもちろんのこと、2mほどあるような大きな石で囲まれている
部分もあります。

マヌヌのマラエにはフアヒネ島の神様であるタネが…。

アーーーッ! マラエをペタペタ触ってる!



何も見なかったことにして続きを。

フアヒネヌイの地域社会に大きな役割をはたしたマヌヌのマラエには、
フアヒネ島を支配する神、タネが祀られています。

タネ神は戦いと漁業の神様です。

漁業に関わるということで、カヌーの製造や製造に必要な手斧、釣り
のための紐を編むことに関係しているそうです。

マヌヌのマラエにはオロ神も祀られており、近くにはマエバ村の最後の
神官であったライティの墓もあります。





イースター島のモアイを見てみたいと思われる人は多いと思いますが、
タヒチのマラエを見たいという人は少ないのかも知れません。

タヒチもイースター島もラピタ文化によって繋がりがあるわけですし、
マラエもポリネシアの考古学的に重要な意味を持ちます。

その復原に日本人が関わったのですから、もっと沢山の人がご興味を
持って頂けるようになればなと思います。

モアイのようなキャラクターがあれば、タヒチのマラエももっと人気が
出るのにな。





何はともあれ目的は完了しました。
このドライブが2時間で終わるはずもなく、4時間を超えています。

最後はファレのレストランで一緒にランチを頂くことにしました。

バエアさんはファレに向かう途中も寄り道を繰り返し、道路脇で販売
されていた貝殻のネックレスとバナナをプレゼントして下さりました。

すっかりと完成したダッシュボードの花壇からは、甘酸っぱい南国の
花の香りが広がっています。





当初はマラエに連れて行ってもらうだけのお話だったのに、こんなに
沢山のおもてなしをして頂いて感激です。

18世紀にヨーロッパ人がやって来た時にも、タヒチの人は客人として
もてなしたと言いますし、篠遠先生もタヒチで地元の人にお世話に
なったことを本に記されています。

私がフアヒネ島で地元の人からこのようなおもてなしを受けることが
出来たのは、それ自体が脈々と受け継がれてきたタヒチの伝統であり、
他ならぬ篠遠先生の恩恵であると思います。

マールル~♪






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まんぼ~旅行記 フアヒネ島(5) 篠遠喜彦博士

2016年11月25日 | フアヒネ

フアヒネ島の島内観光の続きです。

大きなウナギの見学が終わり、フィッシュトラップという漁業遺跡が
ある場所にやってきました。

橋の上から湖を覗いてみると、石を積み重ねたものがWのような形に
なっています。

海の潮汐を利用して魚を捕まえたり、捕まえた魚をキープするために
このトラップを作ったそうです。

昔の人は色々な知恵を持っていたのですね。





続いてやってきたのは、島の北部にあるファウナ・ヌイ湖のほとりにある
マエバ村です。

フアヒネ島と言えばマエバ村と言うくらいに有名な観光ポイントですから、
島内観光のツアーにも当然入っています。

フアヒネ島のマラエの多くはマエバ村の周辺に集中しており、湖の反対
にあるマタイレアの丘にも多数存在しています。

かつてフアヒネ島は8つの地区に分かれており、各地区の酋長は家族と
共にマエバ村で一緒に住み、それぞれのマラエで先祖崇拝を行いました。





マエバ村のマラエをはじめ、やはり政府としては何かしらの保護を検討
した方が良いのでは。

重要な遺跡であるにも関わらず、私がモーレア島の山奥で見たマラエも
放置状態です。

このままでは、復原されたマラエもいつどうなることやら。

マラエに触ったり、石組みの上に立って記念撮影をするような観光客が
出てこない事をマラエに祈っておきました。

落書きでもされたら、それこそ後の祭り。





マエバ村の観光はマラエだけに留まりません。

ここにはファレポテと呼ばれる小屋があり、昔は村の集会所や伝統的な
儀式の場として使われていたそうで、現在は博物館としてその姿を残し
ています。

ファレポテの中には、魚の歯で出来たペンダントやタトゥーに用いるクシ、
ヤシの皮を剝く道具など、様々な遺物や出土品が展示されています。



そして、フアヒネ島でマラエやファレポテの復原、ラピタ人のカヌーの
発掘に深く関わり、ポリネシアのルーツに迫ったのが篠遠喜彦博士です。

1924年9月3日生まれ、東京都出身、中学生の時に校庭から出土した
縄文土器に興味を持ち、終戦後に日本考古学研究所で無給で働くように
なります。

その後、旧石器時代の勉強のためにアメリカに向かう道中、ほんの一時
のつもりでホノルルで船を降りたことから人生が大きく変わります。

ハワイでビショップ博物館のケネス・エモリー博士と出会い、ここから
40年にも及ぶ太平洋考古学の研究が始まりました。



先生はハワイで見つかった釣り針の研究に始まり、ビショップ博物館を
基地として太平洋の島という島を訪れることになります。

タヒチではマルケサス諸島やツアモツ諸島、ソシエテ諸島に足を運ばれ、
ポリネシアの文化の結びつきについて研究されました。

出土品の年代や遺跡を調査することで、ポリネシア人の足取りや文化、
当時の生活様式などが見えてくるという研究です。

目の前にあるファレポテの柱は、地元の大工しか知りえない方法で復原
されたそうです。

海水に強いマラの木を使っているのだとか。



研究に伴う先生の大冒険もスケールが大きいものでした。

その当時は現在のように飛行機が空を飛び交う状況ではなく、タヒチ島
からモーレア島に行くにも船で5時間。

マルケサス諸島には、コプラ船に乗ってツアモツ諸島を経由しながら
2週間以上かけて訪れていたそうです。

1週間コンビーフだけで生活したり、ボラボラ島でツマグロザメに噛まれ
たり、小島で遭難しかけたり、色々と現実離れした経験をお持ちです。

荒波で激しく揺れるボートからファツヒバ島に飛び移ったお話なんて、
まるでスーパーマリオ。

我々はキノコを食べても1UPは出来ないのです。



タヒチ観光局の依頼により遺跡の復原を行っているにも関わらず、地元
の人との人間関係がギクシャクすることも。

古い物を掘り出してはホノルルに持ち帰る姿を、「篠遠はホノルルでアレ
を売ってお金持ちになっているのでは…」と地元の人に疑われたり。

「物がなくなったら篠遠にきけ!」 なんて泥棒のような扱いも。

先生が復原したモーレア島のマラエも、「元々なかったものを篠遠が勝手
に作ったんじゃないか…」と陰口を言われたこともあったそうです。

そんな事で先生の心が折れるはずもありませんが。



ヨーロッパ人がタヒチにやってくるようになると、やがてキリスト教の
宣教師がタヒチで布教活動を始めるようになりました。

宣教師たちは、神話の信仰やマラエの建設、タヒチアンダンスといった
文化を戒め、元々のタヒチの文化が衰退することになります。

このような歴史が仕方のないことであったとしても、まさかタヒチの人
までが、「自分達の文化はロクなものではなかった」「今さらそんな物を
掘り出して何になる」なんて言い出したとあっては、これほど悲しい事
はありません。



ポリネシアのルーツや過去を紐解くことで、タヒチの人が失いかけた
アイデンティティを呼び覚まし、それを文化遺産として未来に残すべき
であると先生は考えられました。

復原されたファレポテや沢山のマラエには、そのような先生の願いが
込められているのだと言えます。

タヒチで一番有名な日本人と言えば篠遠先生。

1980年台には、ドクター篠遠を意味するタオテシノトという歌がタヒチの
ヒットソングになったこともあります。

その高い功績により、2000年には仏領ポリネシアの政府よりナイト勲章
を授与されました。

ラピタ人やジェームズ・クックが偉大な冒険家であったと言われるように、
篠遠先生もまた、日本が誇る偉大な冒険家であると思います。



当然と言えばそれまでですが、ここに先生の写真が飾られていることが
誇らしいです。

マエバ村から車で船着場まで移動し、船着場からボートで渡った小島で
ランチを頂き、ツアーに含まれている訪問箇所は全て訪れました。

参加者の数人はホテルに帰らず、この足でフアヒネ島からボラボラ島に
向かうそうなので、皆でフアヒネ空港に見送りに行きました。







フアヒネ空港からマイタイラピタビレッジに帰ってきたわけですが、
どこかスッキリとしません。

私の考えるフアヒネ島のハイライトはマヌヌのマラエとアニニのマラエで
あるにも関わらず、本日の観光ツアーには入っていませんでした。

このまま帰るのは、イースター島に行ってモアイを見ずに帰ってくるような
心残りになりますので、なんとか2つのマラエを見たいものです。

レンタル自転車は単純にキツイと思いますので却下。

フアヒネ島でのヒッチハイクは、おそらく帰ってこれません。
私が炭のように真っ黒になるだけでしょう。 よって却下。

レンタルバイクはイースター島で苦い思い出がありますので却下。

どうしたものでしょうか。

最後にツアーの感想をきかれたので、2つのマラエを見たかったことを
バエアさんに伝えると、明日は仕事が休みなので個人的に連れて行って
下さるというお話になりました。 これは非常に助かります。

明日の午前中に私から電話をする約束をして、本日の観光を終えました。




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まんぼ~旅行記 フアヒネ島(4) ジェームズ・クック

2016年11月17日 | フアヒネ

フアヒネ島の滞在中に何か良いアクティビティはないかな。

ホテルで相談すると、フアヒネ島を散策する1日ツアーを紹介してくれ
ましたので、こちらに参加することにしました。

モツピクニックやシュノーケリングツアーも催行されていますが、今回
は海関係はお休みにします。

ガイドのバエアさんが運転する車に6名程の参加者が乗り、フアヒネ島
の観光ポイントを訪れるというツアー内容です。

最初に訪れたのはファレの町です。





船着場では、地元の人が民芸品やアクセサリー等を販売していました。

アクセサリーはシンプルな飾りで500cfp、複雑で少し凝ったデザインに
なれば2,000cfpといったところです。

貝殻を使ったものが多く、ブラックパールをあしらったものやヒナノの
デザインのアクセサリーもありました。





ファレの語源は、「身籠った女性」という意味だそうです。

ファレの町から遠くに見える山が妊婦のように見えることからファレと
いう名前になりました。

例えられるように景色が見えることが少ない私も、ここは上手く見えた
ように思います。

仰向けに女性が寝ている状態を横から見ているとして、一番右の山が頭、
真ん中のあたりが胸、左の山がお腹のように見えます。



ファレには200m程のメインストリートがあり、道路脇には銀行や病院、
レストランやスーパーなどが点在しています。

シャッターが開いているのに営業していることが疑わしいお店、近くに
寄っても何かよくわからない建物。

いいですね~。 これでこそタヒチ。 犯罪の臭いがゼロ。

念のためにやっておきますか。
カチャ、ピロピロピロ……  ブっ♪

危険な人物を見つけるレーダーも無反応ですから、ここは安全で間違い
ないと思います。



ファレの町には周回道路を通って車で訪れる事も出来ますし、マイタイ
ラピタビレッジのビーチから歩いて訪れる事も出来ます。

建物の日影で暑さをしのぎながらフルーツを売っている地元の人。

きっと、売れても売れなくても良いのだと思います。
売れなかったら自分で食べて、残りはお隣さんにプレゼントでしょう。

せっかく商品を並べたのに店員さんがいないお店もあります。





引き続きファレの町並みをご覧頂きながら、歴史の話題に入ります。

えー、なになに。 私の手元にある本によりますと…。

大航海時代にマゼランが初めてツアモツ諸島の一部を発見。

1767年にイギリス海軍のサミュエル・ウォリスがタヒチを発見し、これが
ヨーロッパ人の初上陸です。

ウォリスがタヒチに到着した翌年の1768年には、フランス人航海者で
あるブーガンビルもタヒチに到着しています。

更に翌年の1769年にはジェームズ・クックもタヒチに到着しました。

ここで言うタヒチは現在のタヒチ全土とは異なり、タヒチ島のことを
意味しています。



ウォリスやブーガンビルが2週間程で帰ったのに対し、タヒチの存在
を知った上で来ていたクックは3か月ほど滞在し、近隣の島にも足を
延ばします。

クック船長がフアヒネ島にやってきた時には、ファレに上陸しました。
ちょうど私が今立っているあたりです。

この電話ボックスでフアヒネ島の発見を報告したのかも…。



ウォリスやブーガンビルの方が早くタヒチに到着していたのに、この
ようなお話になるとクック船長の名前が良く出てきます。

ジェームズ・クックとはどのような人物なのか。

1728年に8人兄弟の2番目として生まれ、イングランド北部の小さな
町でスコットランド移民として育ったクック少年。

日本では、暴れん坊将軍こと徳川吉宗が手腕を振るっていた頃です。

父親と共に農場で働いていたクックは、父親の雇い主により雑貨店に
奉公に出されることになります。

16歳で雑貨店の店員となったクックは、お店のウインドウから見える
海の景色に憧れを抱くようになりました。

「ハァ~。 オレはショップ店員には向いてないんだよな~」
「なにか海に関係する仕事に就きたいな~」

雑貨店のオーナーは、クックがこの仕事に向いていないことを悟って
おり、クック自身もこの仕事に向いていないことに気付いていました。



人生は思い通りにならないことだらけ。

しかしながら、クックは幸運にも雑貨店のオーナーの紹介により、小型
商船団で見習い船員として働くことになります。

「やったぜ。 これが本当の、渡りに船」

「希望の仕事に就けるだけでなく、衣食住、更に洗濯サービスまで提供
して下さるなんて、かたじけない」

「船乗りとして真面目に勉強しますし、賭け事もやらず、1人前になる
まで結婚はしないと約束します」

貿易や船乗りとしての勉強を始めたクックはめきめきと航海士としての
才能を発揮するようになり、やがてパトロンも付くようになりました。

その当時、イギリスではパトロン無しではどこにも行けません。



それから8年の歳月が流れたある日、クックに転機が訪れます。

クックは、ヨーロッパで起きた七年戦争で戦力の強化をはかるイギリス
海軍に入隊することを決意します。

「キラーン♪  今の立場で昇進するのも悪くないけど、海軍に入れば
もっと出世するかも知れないな」

「宝くじを買うような気分で海軍に入ってみるか。 天職に転職!」

安直なきっかけにも思えますが、実際にクックは2年もたたず航海長に
まで昇進します。

サクセスストーリーの波に乗ったクックは、やがて大英帝国の領土を
地球の果てまで押し広げるという偉業を成し遂げ、未知の領域とされ
ていた太平洋地域がヨーロッパに知られるようになりました。



遠い昔より、南半球には未だ見ぬ南方大陸が存在するという仮説があり、
南方大陸を探し出すこともクックの任務でした。

地球が丸いことは理解されていながらも、大陸の反対側には同じ規模の
大陸がなければ球体としてバランスが保たれないとの考えが基になって
おり、未開の地を自国の領土にしたいとの思惑もあります。

南方大陸は存在するのか? 存在しないのか?

長らく論争が続いたこのテーマに対しても、クックは自らの航海により
結論を出します。

「ワタシがこれだけ探しても見つからないのだから、南方大陸なんて
存在するはずがない! これで決まりだ」

「えっ バランスの件? 地球は少しくらいデコボコでも大・丈・夫!」

結果的にクックが出した結論は正しかったのです。



18世紀の著名人となったクックは、ロシア皇帝から英国王まで誰もが
彼について知りたいと思ったほどのスーパースター。

ジェームズ・クックは、古今を通じて稀にみる偉大な冒険家です。

…のようなことが72ページのあたりに書いてあります。

私にはチンプンカンプンな部分もありますけど、ジェームズ・クックが
優れた航海術と幸運を持ち合わせた凄い人だと分かりました。

クック船長もこのスーパーで買い物を…。



ファレの町の様子はこのような感じです。

ガソリンスタンドが町の終点になり、ゆっくり歩いても15分程で散策
は完了します。

夜には少ないながらもルロットが並ぶそうで、ボラボラ島のバイタペを
小さくしたような町だと思います。



ファレの町を出て、車はバニラファームにやってきました。

バニラと言えば近くのタハア島が有名ですが、フアヒネ島でもバニラの
栽培は行われています。

バニラファームや隣接されているお土産屋さんを見学し、バニラアイス
を頂きました。







バニラファームの次は、ファイエ村の川沿いに車が停車です。

ガイドのバエアさんが川に入り、持っていた缶詰を開けて中身を川に
入れると、沢山のウナギが集まってきました。

タヒチではウナギは神聖な生き物とされ、青い目のウナギはフアヒネ島
で神様という扱いだそうです。

それにしても大きなウナギでした。
大きなものは直径15cmくらいだったと思います。





川の近くでポケモンも見つけました。  フアヒネ島(5)に続く




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まんぼ~旅行記 フアヒネ島(3) マイタイラピタビレッジ / ポリネシアのポンペイ

2016年11月09日 | フアヒネ

いやいや、詳しすぎるマスターのお陰でラピタ人に関する知識が急激
に増したように思います。

途中からまったく記憶がありませんけど。

さっ、今回はマイタイラピタビレッジの客室のご紹介です。

客室は全部で3タイプあり、それぞれがリゾートの敷地内にある池を
囲むように配置されています。

こちらはガーデンバンガローです。



マイタイラピタビレッジの客室は、どれも天井が高くスッキリとした
インテリアが特徴的です。

室内にはポリネシアの歴史が感じられるように、ラピタ人の航海に
関係する道具のレプリカが飾られています。

レセプションやミュージアムに飾られている絵画は、ハワイ出身の
ボビーさんというアーティストの作品で、各部屋にも作品が飾られて
います。



客室設備は、デスク、セーフティーボックス、コーヒー&紅茶セット、
テレビ、トイレ、エアコン、各種タオルにアメニティグッズです。

モダンなインテリアの中にポリネシアのテイストを散りばめています。



特別に豪華ではありませんが、客室だけを見ても3つ星ホテルという
扱いが妥当なのかはよくわかりません。

何でも星を付ければ良いというものでもないと思います。
特にこのようなホテルには。

テラスの周囲を手入れされた植物が囲み、適度にプライバシーも配慮
され、ガーデンバンガローでも十分だと思いました。



タヒチあるあるの1つ。
資料でWi‐Fiが可能となっていても、実際には繋がりませんでした。

静かにのんびりと雰囲気を楽しむには、むしろ繋がらない方が良いの
かも知れません。

プレミアムガーデンバンガローは、ガーデンバンガローをスイートに
したお部屋です。

続きまして、私が宿泊したプレミアムレイクバンガローのご紹介です。

ガーデンバンガローよりも少し広いです。



プレミアムレイクバンガローの定員は大人3名と子供1名まで。
ファミリーのお客様には嬉しい定員です。

ソファが1台のベッドになり、更にその下からベッドがスライドする
タイプを採用しています。





ソファの脇には何気に釣り針のデザインが。

ここまで細部にまでこだわるとは凄い。
マニアには堪らない演出です。



バスルームは明らかにガーデンバンガローよりも広くなり、ここだけは
ラグジュアリーな印象になります。

先程のガーデンバンガローと同様に、どのお部屋のシンクもカヌーの
ような形をしています。

これはウメテというポリネシア伝統の入れ物がモチーフになっており、
現在のボウルのようなものでした。





アメニティはシャンプー、コンディショナー、シャワージェル、石鹸と
シンプルです。 これでも十分でしょう。

タオル類はハンドタオルやバスタオルなどをご用意しています。



お部屋のご紹介はこれくらいで十分と思いつつ、もう少しだけお付き
合い頂ければと思います。

セーフティボックスやティーセットの写真も撮影しましたので、折角
ですからご紹介しておきます。





空き巣じゃあるまいし、引き出しを物色するような行為は私の趣味に
合わないのですが、これも仕事なので慣れました。

どこに何が入っているかわかりませんからね。
取りあえずは一通り見てみないと。

ガラガラ…。



ふと壁に視線を向ければ、パトゥが飾られています。
パトゥは昔の人が戦の時に使用していた武器です。

木やクジラの骨を削りだしてパトゥを作っていたのだとか。

パトゥで敵対する部族をバシバシやっていたのでしょう。
現在のタヒチからは想像もつかない世界です。



屋根のあたりにはラピタ土器の模様になっている箇所があります。

外からの光が室内に降り注ぐと、天井の近くにある板にはその模様が
綺麗に浮かび上がります。

間違いなくオシャレ。



テレビはリモコン操作により台の中から上昇してくるタイプです。

そうとは知らずに私は台の上に携帯電話や水を置き、リモコンを触り
ながら室内を徘徊していると背後で物音が。 

上昇してきたテレビによって携帯電話と水が床に落ちてしまい、救出
があと少し遅れれば携帯がアウトになるところ。

このような小さなハプニングがありました。
この台の上には何も置かないことをお勧めします。



テラスもガーデンバンガローよりも少し広く、目の前には池の景色が
広がっています。

弓なりのベッドは、タヒチ語で椅子を意味するパラヒラアというものを
イメージしており、マイタイホテルのロゴにもなっています。

室内の椅子やテレビの前の台も同じデザインです。
パラヒラアは昔の人の権力の象徴でもありました。





1回目の記事で、マイタイラピタビレッジの前身がバリハイホテルで
あったというお話に触れました。

このあたりは元々湿地帯で池が多く、バリハイホテルの建設時に池の
中から沢山の遺物が発掘されました。

ホテルの建設に必要な盛り土をブルドーザーで掘っている時にパトゥ
が発掘され、その後もザックザック。



一番凄かったのは、ラピタ人のカヌーの残骸です。

長さが7m、幅が50cmもあるカヌーの側板が2枚。
更に12mのマストや4mにもなる舵取り用の櫂までが発掘されました。

この残骸によりラピタ人の航海は伝説ではなく考古学的に立証される
ことになり、それまではヨーロッパ人の絵画でしか知ることの出来な
かったカヌーの大きさも解明されました。

カヌーの残骸だけでなく住居の柱も発掘されたことで、このあたりは
元々集落であったものが数百年前に津波で埋まった遺跡であると考え
られています。

まさに、ポリネシアのポンペイと呼ぶに相応しい場所です。




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まんぼ~旅行記 フアヒネ島(2) ラピタ人のお話

2016年11月02日 | フアヒネ

ラピタ人の事を知りたいだなんて何年振りかな。 腕がなるわい。

ワタシもこのホテルに勤めるスタッフとして、ラピタ人に関する知識を
多少は持ち合わせております。

オホンっ!

それでは、日本からの旅人のリクエストにお応えして、私セルジュが
ラピタ人のお話を少しだけ。

太平洋の北をハワイ、西をニュージーランド、東をイースター島として
3点を結んだトライアングルがポリネシアになり、この範囲には少なく
とも1000以上の島が存在しています。

これらの島は数千㎞も離れているにも関わらず、使っている言語や文化
等に似ている部分があることから、ポリネシアのルーツは同じであると
考えることが出来ます。



簡単なところで、「家」はハワイではハレ、タヒチではファレ。
ほとんど一緒です。

イースター島のモアイが鎮座するアフと呼ばれる祭壇がタヒチのマラエに
似ていることもそうでしょう。

ニュージーランドの有名なハカは、マルケサス諸島の力強いダンスに
似たところがあります。

メラネシアではありますが、フィジーでは家のことをブレと呼び、こちらも
戦いの前に自らを鼓舞するようなダンスがあります。



元々は誰も住んでいなかったポリネシアに現在は沢山の人が住んでいる
わけですが、ポリネシア人の先祖はいったいどこからやってきたのか。

諸説ある中で、今から3000年以上前に台湾やビスマルク諸島から航海を
経てポリネシアにやってきた説が有力です。

このような人たちの事をラピタ人と呼び、ラピタ人が使っていた土器は
ラピタ土器と呼ばれ、当ホテルの名前にもなっています。



ラピタ人は多くの謎を残しています。

突然現れて人類史上類のない大航海を行ったラピタ人ですが、その昔に
現在のような船や航海術があったはずもありません。

吹けばひっくり返るようなカヌーに乗り、夜空に輝く星々を道しるべに
大冒険を行ったときけば、それだけで気が遠くなります。

そもそも、危険を犯してまでそのような大航海を行う必要があったのか。

各地での部族間の争いにより、必要にかられて次の島を目指したのか。
それとも自らの意思で航海を続けたのか。



ラピタ人が暮らしていた土地には、長い歳月で見れば平穏な時もあれば
部族間で争いが起きたこともあったと考えることができ、航海には周到
な準備を行っていたことが伺えます。

このような事から、その土地を追われるようにして航海を行ったのでは
なく、平穏な時期に自らの意思で航海を行ったと考えることが出来ます。

いったい何のために? という疑問は残りますが。

この広い海を自分達の庭のような感覚に捉えていたのか…。

人が宇宙を目指すように、自らの航海術で大海に挑戦したかったのか…。



ラピタ人の足取りについては、ビスマルク諸島からマルケサス諸島へ。

マルケサス諸島からイースター島へ、更にはソシエテ諸島やハワイ諸島、
最後にニュージーランドへ派生したとされます。

イースター島だけは南米に近いことから、ポリネシアから文化が入った
とされるポリネシア説の他に、南米から文化が入ったとされる南米説を
唱える人もいました。



今のところはイースター島もポリネシア説が有力です。

ただし、南米からの文化がゼロではなく、イースター島にはポリネシアと
南米の両方から文化が入ってきたと考えることが出来ます。

モアイのアフはマラエに似ているように見えるものの、アフ・ビナプの
精巧な石組みはインカ帝国の石組みに似ています。

インカ帝国のような精巧な石組みは、マラエには見られません。

南米からイースター島に入ってきた文化は少数派であったため、やがて
ポリネシアの文化に吸収される形で衰退したのでは。



ラピタ人は、航海の時にはラピタ土器もカヌーに乗せていました。

航海に欠かせなかったと思われるラピタ土器は、なぜかタヒチを最後に
作られなくなってしまいました。

これについても、土器を作る粘土が取れなくなったとされる説があれば、
タヒチで芋がとれたことを理由とする説もあります。

ラピタ土器は米を運ぶために必要であったのでは…。

ラピタ人が到達したタヒチでは米が取れないかわりに芋がとれたため、
土器を作る必要もなくなってしまったのでは…。

2500年程前にはラピタ人の足跡は途絶えており、謎は深まるばかり。



ラピタ人やポリネシアのルーツに関するお話をしましたが、どれが絶対
に正しいということは言い切れず、何れも推測の域を出ないのです。

また、今後世界のどこかで何かが発掘されることにより、現在は有力と
されている説も全て見直しになることもありえます。

さっ、肩慣らしはこれくらいにして、今から本格的に激熱なラピタ人の
お話に進みたいと思います。

本気を出しちゃうぞ。 どこまでワタシについてこれるかな。

昔の人はアメリカやアラスカからやってくる渡り鳥を見て……。
……東ポリネシアには紀元前850年までに既に人が到着していた。

黒蝶貝の釣り針…。  …ヘイエルダール…。 

zzzzz…。 zzzzzzzz…。




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