まんぼ~旅行記 フアヒネ島(8) おまけ

2016年12月09日 | フアヒネ

今回は恒例のおまけです。

振り返ってみると、充実した10日間のタヒチ旅行だったと思います。

復路のエアタヒチヌイでは、タヒチで撮影した写真を振り返りながら
成田に帰ろうと思います。

2018年末頃からエアタヒチヌイはボーイング787を順次導入します。

ボーイング787はエコノミークラスが3-3-3の配列で、新設される
プレミアムエコノミークラスが2-4-2の配列。

ビジネスクラスは2-2-2の配列のままですが、フルフラットシート
が採用される予定です。

エアタヒチヌイの現行モデルの模型にプレミアが付いたりして。



初日にパペーテに到着してからフアヒネ島に向かうまでに時間がありま
したので、パペーテ市内に寄り道をしました。

何気なく釣具屋さんにお邪魔しました。

その土地の釣りのスタイルを知るには、釣具屋さんに行くのが一番だと
思います。

タヒチらしく番手の大きなリールがメインになり、大物狙い丸出しの
ルアーが目立ちました。

いつかタヒチでマグロやロウニンアジを釣ってみたいものです。







釣具屋以外にも市内をブラブラしてマルシェに行ったり、レストラン
で昼食を食べたり。

ヒナノのお店はクリスマスセールで大混雑です。
人混みは苦手なので今回は遠慮しておきました。

観光客だけでなく地元の人も沢山買い物に訪れています。







マイタイラピタビレッジのブティックの写真を数枚。
本や絵ハガキ、民芸品やパレオ等が販売されていました。

陶芸品は、ホテルのオーナーであるピーター・オーウェンさんの作品
も混ざっています。







・篠遠先生
・アーティストのボビーさん
・ピーター・オーウェンさん

皆様はそれぞれ面識があります。

篠遠先生の研究には、本編でご紹介した以外にもご苦労がありました。

ホテルの関係者からは、マラエの復原よりも島のインフラ整備を優先
するべきだとの声も出てきます。

マラエの復原を地元の人に協力して頂きたいのに、「そんな事をすれば
ツパパウ(幽霊)が出る」なんて怖がってしまう人もいたのだとか。

先生の研究を快く思わない人も多かったのでしょう。

篠遠先生の研究がタヒチの人にとって良い事であることを広めるため、
ボビーさんが篠遠先生のために作った歌がタオテシノトです。

なんていい話なんだ。





これからマイタイラピタビレッジにご宿泊される方は、ミュージアム
にも足を運んで頂きたいと思います。

反時計回りに見学すると、歴史の流れに沿うようになっています。

展示品の説明の中で、バイトオティアと書いてるものはマイタイ
ラピタビレッジのあたりで出土したものです。

マイタイラピタビレッジのあたりはバイトオティア遺跡とファヒア
遺跡という同年代の2つの遺跡が地続きで存在していたそうです。

本物のパトゥもありますし、釣り針にも色々な種類があり、ヤシの実
を剝くための道具などもあります。

一番右のフサフサが付いているのは、タコをとるための仕掛けです。









本編でご紹介したラピタ土器は、フィジーのシンガトカやバヌアレブ
島で発見されたものです。

シンガトカには砂丘があるのですが、片っ端から掘り起こせば今でも
何か出てくるのではと思ってしまいます。

複製品が混ざっているとは言え、よくも1軒のホテルがこれだけ沢山
集めることが出来たものだなと驚きます。

博物館行きになってもおかしくないものが混ざっています。









マイタイラピタビレッジの食事をご紹介していませんでした。

写真を見返すと不思議なことが起きています。

朝食の時にメニューの写真を撮り、ジュースの写真を撮り、ジャムの
写真を撮り、なぜか肝心の料理の写真がありません。

間違いなく食事をしましたし、仕事柄写真を撮り忘れることもないは
ずなのですが。

夕食の写真は残っていました。 普通に美味しかったです。

女性ダンサーが1人だけでもタヒチアンダンスを踊ってくれたことが
ゲストとしては嬉しかったです。













夜にふと思い立ったことがありました。

マイタイラピタビレッジに復原されているマラエを昼間に見た時の
記憶を辿ると、マラエの左右にライトアップの装置があったような。

ナイトバージョンのマラエを撮影したら、カッコイイ写真になるかも
しれないな。

ということで、私はカメラを持ってマラエに向かいました。

ハイ、チーズ。 カシャ♪

オオオオ。 オバケかゾンビでも出てきそうな雰囲気です。



遠くの野良犬の鳴き声が生温かい風に乗って聞こえてきますし、周囲の
草や葉は不気味にサワサワと音を立てて揺れています。

少し怖くなってきましたけど、こういうのは気の持ちようです。
目の前にあるのがマラエだと思わないようにすれば大丈夫。

松本君と櫻井君がもう少し近くに見えるように角度を変えて。

大野君が相場君に少し被っているから、大野君を少し左に交わし。

二宮君はそのままでOK。

ハイ、チーズ。 カシャ♪

自分なりに満足の一枚が撮れました。



フアヒネ島のアクティビティで訪れたファウナヌイ湖の写真です。

湖となっていますけど実際には海水ということで。







バエアさんが道路脇の葉っぱでお皿を作ってくれた時の様子です。







マイタイラピタビレッジの周辺を散策している時に見つけた、製作中
のバンガローの骨組みです。

これはマイタイラピタビレッジのすぐ隣にあるペンションのお部屋に
なるそうです。

バンガローを作り始めてから完成するまでを一度早送りで見てみたい
ものです。



フアヒネ空港の売店です。





フアヒネ島の次はモーレア島に行きました。

ポリネシアやタヒチの歴史に詳しい博士と一緒にモーレア島を訪れ、
車で島を案内して頂きました。

これはショッピングモールを訪れた時の写真です。















それから、山奥にあるマラエを見に行く探検に出かけました。

モーレア島で島内観光などのアクティビティにご参加を頂きますと、
道路脇にある大きなマラエを訪問することがあります。

この大きなマラエを出発地点として山奥に足を進めると、他にも
幾つかのマラエが点在しています。

綺麗に残っているマラエもありましたし、森林の一部と化している
ようなマラエもありました。















アーチェリーのプラットホームとして使用されていたマラエもあり、
見応えがありました。

誰でも入ろうと思えば入れますが、ガイドが一緒でなければ危ないと
思いますので、単独での探検はお控え頂いた方が良いと思います。





マラエの探検後はモーレア島のレストランを見学したり、農業学校を
訪問したり、海沿いのレストランでランチを頂いたり。

モーレア島はアクティビティも多く、ホテル以外のレストランもあり、
景観も独得で興味が尽きません。

























モーレア島ではソフィテルモーレアに1泊です。

ちなみに、ヨーロッパ人が到着したあたりに住んでいたポマレ1世は、
ジェームズ・クックのようにラッキーだったと言えます。

偶然そこに住んでいたことがラッキーです。



ブログでは書く事が出来なくてとても残念なのですが、ポマレ1世や
ジェームズ・クックにも負けないくらい篠遠先生もラッキーだったと
思います。

歴史に名を残すような凄い人には幸運も味方するのでしょう。

Kレストランでディナーを頂きました。







モーレア島の後はティケハウ島へ。

ティケハウでは、仲良くなったファラというタヒチアンのスタッフと
行動を共にしていました。

モツピクニックに行ったり、一緒に釣りに出かけたり、ツヘラヘラ村
にも行きました。











ファラとのツール・ド・ツヘラヘラも楽しかったです。
私はシャア専用の赤い自転車を選びました。

全力で立ち漕ぎをしても離されるばかり。
先頭になって振り切ろうとしても、ずっと笑顔で真後ろにいます。

何が悔しいって、彼は終始ヒナノビールを呑みながら走っていました。







ファラはサツキさんファミリーのお友達だと言うから驚きです。

ティケハウパールビーチリゾートの前はマニヒパールビーチリゾート
に在籍していました。

カナの子分にあたるそうで、ツルギ君やミランちゃんの事も小さい時
から知っているそうです。

ファラが新郎で、女性のスタッフが新婦。
このように仮定してタヒチアンウエディングも挙げて頂きました。













ティケハウパールビーチリゾートのディナーの写真です。

私がティケハウパールビーチリゾートに来るのは今回で3回目です。
回を重ねるごとに食事も美味しくなっていると思います。

それは嬉しい事であるのと同時に、初めて宿泊した頃のキツい食事と
再会出来ないことを意味しており、いくばくかの寂しさもあります。

残すべきものは残し、変えるべきものは大胆に変える。
口で言うほど簡単ではないのでしょう。

次回の訪問時にどのようになっているのか楽しみです。





10日間のタヒチ旅行に沢山の思い出があり、それらの中から強いて
どれが一番かと考えてみますと、バエアさんとのフアヒネドライブが
楽しかったなと思います。

あの寄り道がフアヒネの滞在をより思い出深いものにしてくれました。

私の場合はアレで良かったのですが、とりとめもなく寄り道について
考えてみることにしました。

学校の帰りや塾に行く途中、待ち合わせの前後と、誰もが一度は経験
がある寄り道。

寄り道によって効率良く行動することが出来ますし、時には寄り道が
素敵な思い出になることも。

ジェームズ・クックにとっては、雑貨店に奉公に出されたことが人生
の寄り道であり、その後の運命を変えたのかも知れません。

篠遠先生の場合は明らかで、ホノルルでの寄り道をきっかけに太平洋
の考古学研究が始まりました。



理想の寄り道って何だろう。
自宅があるA地点から、目的地となるB地点を目指すとして。

何回でも寄り道をすれば良いというものではなく、寄り道を繰り返す
ことで目的地への執着が薄れてしまう人もいらっしゃるかと思います。

おそらく、5回目あたりからその兆候が顕著に表れ、7回目以降になり
ますと、「家に帰りたい」との帰巣本能もよぎることでしょう。

人がこのような思考に到るには、寄り道先で新しいものに触れたことに
よる刺激と、疲労の蓄積が密接に結びついているのでは。



無理のない寄り道を実行するには、極端に目的地へのルートから外れ
るような場所には行かず、せいぜい1ヶ所に30分が良いところ。

そして、あまり脳や体に刺激を与えるような場所には寄り道をしない
ことが理想的ではないかと思います。

寄り道した先でバンジージャンプやボルダリングを行い、とても感動
する映画を観て号泣し、更に旧友と再会して喫茶店へ。

あまり現実的ではないと思いますが、このような寄り道は好ましく
ないのかも知れません。

バンジージャンプを達成したあたりで、目的地のことはどうでも良く
なっているはずです。

寄り道の回数についても考えてみました。

旅行業界や航空業界で使用する航空機予約端末によれば、この地球と
言えども、飛行機を3回も乗り換えれば大抵の目的地に到着すること
が可能です。

ということで、本屋さんやコンビニなどの緩い寄り道を1回か2回、
多くても3回までという寄り道が妥当なのかも知れません。



「プーン♪ 当機はこれより、トントゥータ国際空港に向けて着陸態勢に
入ります。」

おやまあ。 言ってるそばから早速寄り道です。

パペーテを出発して成田に向かうはずの飛行機は、ニューカレドニアに
向かっていたようです。

パーソナルモニターを見て、なぜか飛行機が左に向かって飛んでいるな
とは思っていました。

体力も余っていることですし、私はこの寄り道を思いっきり楽しむこと
にします。

それでは、皆様の寄り道が有意義なものになりますように。








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まんぼ~旅行記 フアヒネ島(7) バウンティ号の反乱 / 人類の遺産

2016年12月06日 | フアヒネ

フアヒネ島の旅行記も今回が最後です。

ラピタ人やクック船長、篠遠先生やフアヒネ島の観光ポイントの話題に
触れたところで、最後はクック船長が亡くなった後のお話です。

18世紀にヨーロッパ人がタヒチにやってきた頃、タヒチは首長国同士が
争いを繰り返す戦国時代でした。



1789年にイギリス海軍のキャプテン・ブライは、自国の奴隷のために
タヒチにパンノキの苗木をもらう目的でやってきました。

過酷な航海を行っていた乗組員が楽園タヒチでは楽しい時間を過ごし、
そこからまた航海に出るとなれば不満が爆発するのも当然。

この時に起きたのが有名な「バウンティ号の反乱」です。

今の時代にタヒチ旅行を楽しまれている皆様も、旅行後には乗組員の
気持ちが少なからず分かるのかも知れません。 

「また今日から仕事なのか」「明日にでもタヒチに戻りたい」

反乱は起こさないまでも、グチの1つも言いたくなりますよね。



反乱によってブライ艦長は救命ボートに乗せられて追放されました。

反乱後のバウンティ号の乗組員を大きく2つのグループに分けますと、
海軍の追跡を恐れて航海を続けた結果、ピトケアン島に到達したのが
Aグループ。

バウンティ号が一度タヒチに戻った時に船を降り、自分の身をタヒチに
かくまってほしいと願い出たのがBグループ。

Bグループの身をかくまったのが、後のポマレ1世です。



Bグループをかくまった見返りに銃を手に入れたポマレ1世はその後の
戦いを有利に進め、武力でタヒチ島とモーレア島を制覇し、ポマレ2世
がソシエテ諸島を制覇。

ポマレ3世は短命で子供の時に亡くなり、ポマレ4世がフランスと少々
いざこざを起こしたことで、1842年にフランスの保護領となりました。

大まかにこのような流れで、現在の仏領ポリネシアになっています。



マイタイラピタビレッジにお話を移動します。

こちらは敷地内を散歩しているだけでも色々な楽しみがあります。

ゲストが簡単に気付きやすいポイントとして、部屋番号を記載している
板がウヌになっています。

初日にフアヒネ空港に迎えに来てくれていたスタッフが持っていた看板
の柄もウヌになっていました。

プレミアムレイクバンガローのデッキにはカヌーのデザインが施され、
バンガローはカヌーをしまっていたカヌーハウスをイメージしています。

テラスから張り出した赤い出っ張りがカヌーです。







プールサイドのベッドも全てパラヒラアの形で統一されていますし、
庭に植えられたヤシの木の根元や道路脇、何気ないところにもマラエを
意識したような石が置いてあります。









さらに注意深く見ていくと、敷地内に置かれている岩にペトログリフが
描かれています。

ペトログリフはポリネシアの全域で見られ、文字を持たなかった人が
壁や岩に描いたとされます。

当時の文化や何かしらの伝説を語っているのか? 一体何のために?
それにしても先人は難しい宿題を残したものだなと思います。

ここで私から、学術的ではない仮説のお話をひとつ。

ペトログリフにしてもイースター島のロンゴロンゴにしても、現代人は
このようなものを見つけると何かしらの意味があるに違いないと先入観
を持つことが多いです。

そしてその意味を考え、学者さんは古い本を読み返してみたり、議論を
交わしてみたりします。

実はそれほど深い意味はないのでは・・・。



ある日、暇を持て余した1人の先人が妙なイタズラを思いつきました。

「ヨーシ。毎日退屈だから岩に絵でも描いてみようかの」
「未来の人が見つけたらビックリするかも知れんな。 クックックッ」

「タッテタッテ♪ ヨッコヨッコ♪ マールかいてチョン♪」
「なかなか上手く描けたわい。 ケンちゃんも描いてみるかい?」

このようなイタズラが先人の間で流行し、やがてそれは先人から先人へ、
島から島へと受け継がれることになります。

絵心のある者は独自のセンスを磨き、絵心のない者は洞窟でひっそりと
絵描きの練習をしたり。

なんせ時間はありますから、絵の構図には現実も空想も混ざり、無限大
に広がっていったのでしょう。

そんなイタズラが流行ったことは遥か昔のことになり、時を超えて奇怪な
絵が世界のアチコチで見つかることになります。

発見した絵を眺めて我々は頭を悩ませ、そんな我々を先人は天国から
見て笑っているのかも知れません。

「おやおや、アレの事でみんな悩んでおるわい」

「あのイモ虫はワシが描いたし、トカゲ男はケンちゃんの力作じゃ」
「はてさて、あっちのナスカの地上絵とやらもワシの影響であろうか」

「まさかこんな大事になるとは思わなかったの」
「その宿題は永遠に解けはせんよ。 オーホッホッホ~♪」

我々は先人に、一杯食わされているのかも知れない仮説のお話でした。



他にもガーデンにラピタ土器のような物が置いてあったり、レストランの
前にはウメテが置いてあります。

私が一番驚いたのは犬の足跡です。

これはリゾートを建設した時に野良犬が敷地に迷い込んだのではなく、
あえてこのようなデザインにしています。

ラピタ人の航海には鶏や犬も伴ったとされるからです。







「マイタイラピタビレッジを建設するにあたり、希望するイメージを
デザイナーに伝えたところ、全く希望と異なるデッサンが仕上がって
きました。  あの時は本当に困りましたよ」

「最初から全部やり直して下さいとデザイナーにお願いをして、自分が
納得出来るまでとことん希望を実現しました」

建設時の秘話と共にリゾートやミュージアムを案内して下さったのは、
オーナーであるピーター・オーウェンさんです。

オーウェンさんによりますと、クック船長がフアヒネ島にやってきた
時にも、マイタイラピタビレッジに宿泊していったそうです(笑)

クック船長は私と同じ101号室にお泊まりだったとか。
どうりで素敵なお部屋だと思いましたよ。



フアヒネ島での滞在を振り返ると、これまでのタヒチ旅行とは異なる
不思議な時間を過ごしたような気がします。

滞在中は時間が止まっていたような、過去に戻ったような。

宿泊したマイタイラピタビレッジは、豪華さや洗練されたリゾート感
は後回しで、とにかく古代のポリネシアを彷彿とさせるようなホテル
に仕上がっています。



リゾートでは観光客らしい人にはあまりお会いしておらず、リゾートから
飛び出してみても、昔ながらの暮らしを継続しているような地元の人の
姿が見られるばかり。

アクティビティ等で訪問した場所も特別に観光地化された場所はなく、
手つかずの自然が溢れており、ポリネシアの原風景を楽しむ事が出来
ました。

また、そのような原風景に偉大な冒険家の姿を投影することで、彼らが
すぐそこにいるように感じられたと思います。



美しいラグーンや水上バンガローのイメージが先行するタヒチが、
ポリネシアのルーツに影響していることはあまり知られていません。

この地を舞台に繰り広げられた大冒険や歴史に想いを馳せてみれば、
タヒチの深い魅力に触れることが出来ると思いますし、滞在後には
景色の見え方やタヒチの受け止め方も異なってくることでしょう。

マイタイラピタビレッジにご滞在のうえ、悠久のポリネシアを楽しむ
タイムスリップはいかがでしょうか。

遠く過ぎ去ったはずの世界が、この先に甦ります。



《取材協力》

・エアタヒチヌイ
・エアタヒチ(国内線)
・タヒチ観光局
・足立善太(タヒチヌイトラベル)
・瓜生美彦(アンデス日本ツーリスト)
・フアヒネ島のバエアさん
・マイタイラピタビレッジフアヒネ
・インターコンチネンタルフレンチポリネシア

《参考書籍》

・[1]楽園考古学
・篠遠喜彦 / 荒俣宏
・平凡社 (1994/05)

・[2]Revatahiti Inflight Magazine (July/2014)
・Laurance Rudzinoff
・Voyages de Cook

長年の研鑽がもたらした輝かしいご功績は、これから先どれほどの時を
経ても決して色褪せることはなく、人類の遺産として未来に受け継がれ
ることと思います。




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まんぼ~旅行記 フアヒネ島(6) アニニのマラエとマヌヌのマラエ

2016年11月30日 | フアヒネ

「イアオラナ~。 オッケー すぐに迎えに行くわよ」

タヒチらしからぬスピードでマイタイラピタビレッジに到着したバエア
さんは、昨日のお仕事モードとは異なる車と服装で登場しました。

挨拶もそこそこに助手席に乗せてもらい、マラエに向かって出発です。

マイタイラピタビレッジからアニニのマラエとマヌヌのマラエを訪問して
帰ってくると、2時間もあれば十分だと教えて頂きました。

ダッシュボードの上には赤いハイビスカスが置いてあります。



走り出して早速、車を運転しているバエアさんから提案が。

「昨日のツアーに一緒に参加していたフランス人のご夫婦が宿泊して
いるペンションに行って、2人を驚かせてやろう」

なるほど、ミニドッキリですね。

昨日の終わりに「それではまた」と言って別れましたが、一夜明けて
再会するミニドッキリは大成功に終わりました。

ペンショントゥプナを出発です。



ペンションを出発してしばらく走るとまたストップ。

「あそこに咲いている綺麗な花をとってきてちょうだい」

言われるままに私は車から降りてそれらしい花を見つけ、車に戻ると
バエアさんはその花をダッシュボードの上に置きます。

しばらく走るとまたストップして、今度は道路脇の葉っぱをその場で編み、
お皿や冠を作って見せてくれました。





車が走り出すと、しばらくしてまたストップ…。
今度は一緒に車を降りて道端に咲く花や木の実などのお話。

なるほど、バエアさんはフアヒネ島に咲く花なども見学をしながら
アニニのマラエを目指しているようです。

ラジオから流れてくるタヒチアンソングに鼻歌を合わせてみたりして
ご機嫌です。

これは楽しいドライブになりそうです







しばらく走ると、地元の人がヤシの実をひたすら剝いている広場に
車を横付けしました。

リゾートへの送迎ボートやレセプションに到着した時に頂くことがある
ココナッツジュース。

また、お土産に喜ばれるココナッツ石鹸やココナッツオイルなど。

ここが全ての故郷ではないかと思われるほど山盛りです。

手前に見えているのが今からさばくヤシの実で、背後に見えている
貝塚のような丘は全て剝き終えたヤシの皮です。



地面に突き刺さったヤリのようなものに、両手で持ったヤシの実を
叩きつけるようにグサリ。

ヤシの実を持ちかえて、グサリ、グサリ、グサリ。
あっという間に緑色の実が真っ白に変わります。

まじまじとこのような作業を見学した記憶がありませんので見応えが
ありました。 とにかく裁くスピードが速いです。

「ちょっとさ、この人にジュースをあげてよ」

バエアさんのお願いにより、ココナッツジュースを頂きました。

少し強引にジュースを頂いたような感がありますけど、私の気のせい
だと思うことにします。







フアヒネ島にはフアヒネヌイとフアヒネイチがあり、海岸線に沿って
いない道もありますので、所々にアップダウンがあります。

湾を見下ろす山の中腹からは遠くにクルーズ船が見えたり、周囲を緑に
囲まれた景色が急に開けたり。

このような景色を楽しみながらグイグイと目的地を目指します。

フアヒネヌイとフアヒネイチを繋いでいるのがマロエ橋で、マロエ橋を
越えてアニニのマラエに到着しました。





フアヒネイチの地域社会で大きな役割をはたしていたアニニのマラエ。

後ほどご紹介するマヌヌのマラエとアニニのマラエの最大の特徴は、
アフと呼ばれる祭壇が2段階になっている点になり、より高い方が神に
近いという意味になります。

このようなカタチをしたマラエは非常に珍しいのだとか。





アニニのマラエには戦いの神であるオロ神と、泥棒の神であるヒロ神が
祀られていました。

オロ神には少なくとも14名の生贄が捧げらたとされます。

マラエの部位によって異なる機能を持っていたそうで、ロイと呼ばれる
祭壇のプラットホームはオロ神とヒロ神の寝床。

垂直に立っているオファイトゥルイという石は、司祭やリーダーが寄り
かかったり休憩するために使われていたとか、亡くなった酋長の記念碑
であったとも考えられています。

近くにはオロ神の家があったとされる場所があり、各柱の下に生贄が
ともなわれたそうです。





ウーン、見えそうで見えません。

上からマラエの形を見学したいですけど、背伸びをしてもジャンプを
しても2段目がよく見えません。

マラエに登るわけにもいかず、ドローンでもあればなと思いました。

周囲の石はデタラメに立っているのではなく、ある程度ピタっと寄り
添っています。

昔の人がこのような石組みを造ったのですから凄い技術だと思います。





アニニのマラエの見学が終わりましたので次はマヌヌのマラエ。

私はそのように思っていましたが、マロエ橋を渡ってフアヒネヌイに戻り、
やがて車は道路が行き止まりになる場所にやってきました。

誰の目にも明らかな立ち入り禁止。
それでもバエアさんは車から降りて堂々と入って行きます。

「立ち入り禁止だなんて、失礼しちゃうわっ!」

頼もしい後ろ姿に引き寄せられるように、私も続くことにしました。



進入して直ぐに地元の人が登場し、遠くから我々に何か言おうとした
ようですが、バエアさんを見ると何も言わずに帰っていきました。

何も言わなかったのか、何も言えなかったのか…。

きっとこの人は、フアヒネ島ではどこでも顔パス状態なのでしょう。

しばらく歩くと高いヤシの木に囲まれていた視界が開け、目の前には
綺麗な海が広がりました。



ここは何年も前に閉鎖してしまったソフィテルヘイバが存在していた
場所です。

幾らか小ぶりのプールの底には木の枝や葉が積もり、かつては綺麗で
あったはずの水色も、今はだた悲しい雰囲気を漂わせています。

釘がむき出しの朽ち果てた桟橋は残骸と呼ぶのが適当であり、ここに
水上バンガローが存在していた面影がかすかに感じられます。

リゾートが閉鎖されると、それを整理するにも膨大な費用がかかります
ので、このような姿で残ってしまいます。



バエアさんのお父さんはフアヒネ島で漁師をしていたそうで、水揚げした
魚をソフィテルヘイバに卸して生計を立てていたそうです。

また、日曜日になると家族でソフィテルヘイバに遊びにきてプールで
遊んだり、レストランで食事を楽しんでいたのだとか。

ここはバエアさんの幼少時代の思い出が詰まっている特別な場所だと
知ることが出来ました。



適当に周辺を散策していると突然バエアさんが、「クイックシャワーを
浴びる」と言い出しました。

冗談を言っているのだろうと思って振り返ると、既に海に向かって走り
出しており、そのままの勢いで海にドボーン!

私もお付き合いでドボーンしておきました。



バエアさんにはニュージーランド人のご主人との間に生まれた2人の
お子様がいらっしゃり、どちらも女の子。

バエアさんのお父さんがそうしていたように、日曜日になると家族で
ここに遊びに来て泳いだりするそうです。

子供は小学校でお勉強中だそうですが、今から学校に行ってみようと
いうお話になり、寄り道をしながら学校に向かいました。





ちょうど休み時間なのか、大きな木の下で子供が遊んでいます。

さすが小学校。ジャイアンから静香ちゃんまで一通りのキャラクターが
揃っています。

バエアさんの呼びかけに気付いた女の子が駆け寄ってきました。

6歳なので下の子でしょうか。
将来の夢は先生になることだそうです。

生徒になったばかりなのに、もう先生になる未来を想像しています。
なんてしっかりしているんだ。

私が君くらいの頃は、忍者になりたいと思っていたよ。





ふとタハア島で暮らす少年の事を思い出しました。

たしか、大きくなったらハワイキヌイのカヌーレースに出場するんだと
意気込んでいたような。

警視庁のマスコットのピーポ君にソックリなあどけない少年も、今頃は
大きくなっていることでしょう。

小学校を出発してマヌヌのマラエを目指します。

もちろん、何度も寄り道を繰り返しながら。







さっ、目的地であるマヌヌのマラエにやってきました。

地元の人が近くでゴミを燃やしていたので、煙がたちこめて幻想的な
雰囲気を演出してくれています。

ナイス、地元の人。





マヌヌのマラエはマエバ村の東にある海岸線にあります。
目の前に現れたマヌヌのマラエの大きさに言葉を失いました。

祭壇の高さはもちろんのこと、2mほどあるような大きな石で囲まれている
部分もあります。

マヌヌのマラエにはフアヒネ島の神様であるタネが…。

アーーーッ! マラエをペタペタ触ってる!



何も見なかったことにして続きを。

フアヒネヌイの地域社会に大きな役割をはたしたマヌヌのマラエには、
フアヒネ島を支配する神、タネが祀られています。

タネ神は戦いと漁業の神様です。

漁業に関わるということで、カヌーの製造や製造に必要な手斧、釣り
のための紐を編むことに関係しているそうです。

マヌヌのマラエにはオロ神も祀られており、近くにはマエバ村の最後の
神官であったライティの墓もあります。





イースター島のモアイを見てみたいと思われる人は多いと思いますが、
タヒチのマラエを見たいという人は少ないのかも知れません。

タヒチもイースター島もラピタ文化によって繋がりがあるわけですし、
マラエもポリネシアの考古学的に重要な意味を持ちます。

その復原に日本人が関わったのですから、もっと沢山の人がご興味を
持って頂けるようになればなと思います。

モアイのようなキャラクターがあれば、タヒチのマラエももっと人気が
出るのにな。





何はともあれ目的は完了しました。
このドライブが2時間で終わるはずもなく、4時間を超えています。

最後はファレのレストランで一緒にランチを頂くことにしました。

バエアさんはファレに向かう途中も寄り道を繰り返し、道路脇で販売
されていた貝殻のネックレスとバナナをプレゼントして下さりました。

すっかりと完成したダッシュボードの花壇からは、甘酸っぱい南国の
花の香りが広がっています。





当初はマラエに連れて行ってもらうだけのお話だったのに、こんなに
沢山のおもてなしをして頂いて感激です。

18世紀にヨーロッパ人がやって来た時にも、タヒチの人は客人として
もてなしたと言いますし、篠遠先生もタヒチで地元の人にお世話に
なったことを本に記されています。

私がフアヒネ島で地元の人からこのようなおもてなしを受けることが
出来たのは、それ自体が脈々と受け継がれてきたタヒチの伝統であり、
他ならぬ篠遠先生の恩恵であると思います。

マールル~♪






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まんぼ~旅行記 フアヒネ島(5) 篠遠喜彦博士

2016年11月25日 | フアヒネ

フアヒネ島の島内観光の続きです。

大きなウナギの見学が終わり、フィッシュトラップという漁業遺跡が
ある場所にやってきました。

橋の上から湖を覗いてみると、石を積み重ねたものがWのような形に
なっています。

海の潮汐を利用して魚を捕まえたり、捕まえた魚をキープするために
このトラップを作ったそうです。

昔の人は色々な知恵を持っていたのですね。





続いてやってきたのは、島の北部にあるファウナ・ヌイ湖のほとりにある
マエバ村です。

フアヒネ島と言えばマエバ村と言うくらいに有名な観光ポイントですから、
島内観光のツアーにも当然入っています。

フアヒネ島のマラエの多くはマエバ村の周辺に集中しており、湖の反対
にあるマタイレアの丘にも多数存在しています。

かつてフアヒネ島は8つの地区に分かれており、各地区の酋長は家族と
共にマエバ村で一緒に住み、それぞれのマラエで先祖崇拝を行いました。





マエバ村のマラエをはじめ、やはり政府としては何かしらの保護を検討
した方が良いのでは。

重要な遺跡であるにも関わらず、私がモーレア島の山奥で見たマラエも
放置状態です。

このままでは、復原されたマラエもいつどうなることやら。

マラエに触ったり、石組みの上に立って記念撮影をするような観光客が
出てこない事をマラエに祈っておきました。

落書きでもされたら、それこそ後の祭り。





マエバ村の観光はマラエだけに留まりません。

ここにはファレポテと呼ばれる小屋があり、昔は村の集会所や伝統的な
儀式の場として使われていたそうで、現在は博物館としてその姿を残し
ています。

ファレポテの中には、魚の歯で出来たペンダントやタトゥーに用いるクシ、
ヤシの皮を剝く道具など、様々な遺物や出土品が展示されています。



そして、フアヒネ島でマラエやファレポテの復原、ラピタ人のカヌーの
発掘に深く関わり、ポリネシアのルーツに迫ったのが篠遠喜彦博士です。

1924年9月3日生まれ、東京都出身、中学生の時に校庭から出土した
縄文土器に興味を持ち、終戦後に日本考古学研究所で無給で働くように
なります。

その後、旧石器時代の勉強のためにアメリカに向かう道中、ほんの一時
のつもりでホノルルで船を降りたことから人生が大きく変わります。

ハワイでビショップ博物館のケネス・エモリー博士と出会い、ここから
40年にも及ぶ太平洋考古学の研究が始まりました。



先生はハワイで見つかった釣り針の研究に始まり、ビショップ博物館を
基地として太平洋の島という島を訪れることになります。

タヒチではマルケサス諸島やツアモツ諸島、ソシエテ諸島に足を運ばれ、
ポリネシアの文化の結びつきについて研究されました。

出土品の年代や遺跡を調査することで、ポリネシア人の足取りや文化、
当時の生活様式などが見えてくるという研究です。

目の前にあるファレポテの柱は、地元の大工しか知りえない方法で復原
されたそうです。

海水に強いマラの木を使っているのだとか。



研究に伴う先生の大冒険もスケールが大きいものでした。

その当時は現在のように飛行機が空を飛び交う状況ではなく、タヒチ島
からモーレア島に行くにも船で5時間。

マルケサス諸島には、コプラ船に乗ってツアモツ諸島を経由しながら
2週間以上かけて訪れていたそうです。

1週間コンビーフだけで生活したり、ボラボラ島でツマグロザメに噛まれ
たり、小島で遭難しかけたり、色々と現実離れした経験をお持ちです。

荒波で激しく揺れるボートからファツヒバ島に飛び移ったお話なんて、
まるでスーパーマリオ。

我々はキノコを食べても1UPは出来ないのです。



タヒチ観光局の依頼により遺跡の復原を行っているにも関わらず、地元
の人との人間関係がギクシャクすることも。

古い物を掘り出してはホノルルに持ち帰る姿を、「篠遠はホノルルでアレ
を売ってお金持ちになっているのでは…」と地元の人に疑われたり。

「物がなくなったら篠遠にきけ!」 なんて泥棒のような扱いも。

先生が復原したモーレア島のマラエも、「元々なかったものを篠遠が勝手
に作ったんじゃないか…」と陰口を言われたこともあったそうです。

そんな事で先生の心が折れるはずもありませんが。



ヨーロッパ人がタヒチにやってくるようになると、やがてキリスト教の
宣教師がタヒチで布教活動を始めるようになりました。

宣教師たちは、神話の信仰やマラエの建設、タヒチアンダンスといった
文化を戒め、元々のタヒチの文化が衰退することになります。

このような歴史が仕方のないことであったとしても、まさかタヒチの人
までが、「自分達の文化はロクなものではなかった」「今さらそんな物を
掘り出して何になる」なんて言い出したとあっては、これほど悲しい事
はありません。



ポリネシアのルーツや過去を紐解くことで、タヒチの人が失いかけた
アイデンティティを呼び覚まし、それを文化遺産として未来に残すべき
であると先生は考えられました。

復原されたファレポテや沢山のマラエには、そのような先生の願いが
込められているのだと言えます。

タヒチで一番有名な日本人と言えば篠遠先生。

1980年台には、ドクター篠遠を意味するタオテシノトという歌がタヒチの
ヒットソングになったこともあります。

その高い功績により、2000年には仏領ポリネシアの政府よりナイト勲章
を授与されました。

ラピタ人やジェームズ・クックが偉大な冒険家であったと言われるように、
篠遠先生もまた、日本が誇る偉大な冒険家であると思います。



当然と言えばそれまでですが、ここに先生の写真が飾られていることが
誇らしいです。

マエバ村から車で船着場まで移動し、船着場からボートで渡った小島で
ランチを頂き、ツアーに含まれている訪問箇所は全て訪れました。

参加者の数人はホテルに帰らず、この足でフアヒネ島からボラボラ島に
向かうそうなので、皆でフアヒネ空港に見送りに行きました。







フアヒネ空港からマイタイラピタビレッジに帰ってきたわけですが、
どこかスッキリとしません。

私の考えるフアヒネ島のハイライトはマヌヌのマラエとアニニのマラエで
あるにも関わらず、本日の観光ツアーには入っていませんでした。

このまま帰るのは、イースター島に行ってモアイを見ずに帰ってくるような
心残りになりますので、なんとか2つのマラエを見たいものです。

レンタル自転車は単純にキツイと思いますので却下。

フアヒネ島でのヒッチハイクは、おそらく帰ってこれません。
私が炭のように真っ黒になるだけでしょう。 よって却下。

レンタルバイクはイースター島で苦い思い出がありますので却下。

どうしたものでしょうか。

最後にツアーの感想をきかれたので、2つのマラエを見たかったことを
バエアさんに伝えると、明日は仕事が休みなので個人的に連れて行って
下さるというお話になりました。 これは非常に助かります。

明日の午前中に私から電話をする約束をして、本日の観光を終えました。




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まんぼ~旅行記 フアヒネ島(4) ジェームズ・クック

2016年11月17日 | フアヒネ

フアヒネ島の滞在中に何か良いアクティビティはないかな。

ホテルで相談すると、フアヒネ島を散策する1日ツアーを紹介してくれ
ましたので、こちらに参加することにしました。

モツピクニックやシュノーケリングツアーも催行されていますが、今回
は海関係はお休みにします。

ガイドのバエアさんが運転する車に6名程の参加者が乗り、フアヒネ島
の観光ポイントを訪れるというツアー内容です。

最初に訪れたのはファレの町です。





船着場では、地元の人が民芸品やアクセサリー等を販売していました。

アクセサリーはシンプルな飾りで500cfp、複雑で少し凝ったデザインに
なれば2,000cfpといったところです。

貝殻を使ったものが多く、ブラックパールをあしらったものやヒナノの
デザインのアクセサリーもありました。





ファレの語源は、「身籠った女性」という意味だそうです。

ファレの町から遠くに見える山が妊婦のように見えることからファレと
いう名前になりました。

例えられるように景色が見えることが少ない私も、ここは上手く見えた
ように思います。

仰向けに女性が寝ている状態を横から見ているとして、一番右の山が頭、
真ん中のあたりが胸、左の山がお腹のように見えます。



ファレには200m程のメインストリートがあり、道路脇には銀行や病院、
レストランやスーパーなどが点在しています。

シャッターが開いているのに営業していることが疑わしいお店、近くに
寄っても何かよくわからない建物。

いいですね~。 これでこそタヒチ。 犯罪の臭いがゼロ。

念のためにやっておきますか。
カチャ、ピロピロピロ……  ブっ♪

危険な人物を見つけるレーダーも無反応ですから、ここは安全で間違い
ないと思います。



ファレの町には周回道路を通って車で訪れる事も出来ますし、マイタイ
ラピタビレッジのビーチから歩いて訪れる事も出来ます。

建物の日影で暑さをしのぎながらフルーツを売っている地元の人。

きっと、売れても売れなくても良いのだと思います。
売れなかったら自分で食べて、残りはお隣さんにプレゼントでしょう。

せっかく商品を並べたのに店員さんがいないお店もあります。





引き続きファレの町並みをご覧頂きながら、歴史の話題に入ります。

えー、なになに。 私の手元にある本によりますと…。

大航海時代にマゼランが初めてツアモツ諸島の一部を発見。

1767年にイギリス海軍のサミュエル・ウォリスがタヒチを発見し、これが
ヨーロッパ人の初上陸です。

ウォリスがタヒチに到着した翌年の1768年には、フランス人航海者で
あるブーガンビルもタヒチに到着しています。

更に翌年の1769年にはジェームズ・クックもタヒチに到着しました。

ここで言うタヒチは現在のタヒチ全土とは異なり、タヒチ島のことを
意味しています。



ウォリスやブーガンビルが2週間程で帰ったのに対し、タヒチの存在
を知った上で来ていたクックは3か月ほど滞在し、近隣の島にも足を
延ばします。

クック船長がフアヒネ島にやってきた時には、ファレに上陸しました。
ちょうど私が今立っているあたりです。

この電話ボックスでフアヒネ島の発見を報告したのかも…。



ウォリスやブーガンビルの方が早くタヒチに到着していたのに、この
ようなお話になるとクック船長の名前が良く出てきます。

ジェームズ・クックとはどのような人物なのか。

1728年に8人兄弟の2番目として生まれ、イングランド北部の小さな
町でスコットランド移民として育ったクック少年。

日本では、暴れん坊将軍こと徳川吉宗が手腕を振るっていた頃です。

父親と共に農場で働いていたクックは、父親の雇い主により雑貨店に
奉公に出されることになります。

16歳で雑貨店の店員となったクックは、お店のウインドウから見える
海の景色に憧れを抱くようになりました。

「ハァ~。 オレはショップ店員には向いてないんだよな~」
「なにか海に関係する仕事に就きたいな~」

雑貨店のオーナーは、クックがこの仕事に向いていないことを悟って
おり、クック自身もこの仕事に向いていないことに気付いていました。



人生は思い通りにならないことだらけ。

しかしながら、クックは幸運にも雑貨店のオーナーの紹介により、小型
商船団で見習い船員として働くことになります。

「やったぜ。 これが本当の、渡りに船」

「希望の仕事に就けるだけでなく、衣食住、更に洗濯サービスまで提供
して下さるなんて、かたじけない」

「船乗りとして真面目に勉強しますし、賭け事もやらず、1人前になる
まで結婚はしないと約束します」

貿易や船乗りとしての勉強を始めたクックはめきめきと航海士としての
才能を発揮するようになり、やがてパトロンも付くようになりました。

その当時、イギリスではパトロン無しではどこにも行けません。



それから8年の歳月が流れたある日、クックに転機が訪れます。

クックは、ヨーロッパで起きた七年戦争で戦力の強化をはかるイギリス
海軍に入隊することを決意します。

「キラーン♪  今の立場で昇進するのも悪くないけど、海軍に入れば
もっと出世するかも知れないな」

「宝くじを買うような気分で海軍に入ってみるか。 天職に転職!」

安直なきっかけにも思えますが、実際にクックは2年もたたず航海長に
まで昇進します。

サクセスストーリーの波に乗ったクックは、やがて大英帝国の領土を
地球の果てまで押し広げるという偉業を成し遂げ、未知の領域とされ
ていた太平洋地域がヨーロッパに知られるようになりました。



遠い昔より、南半球には未だ見ぬ南方大陸が存在するという仮説があり、
南方大陸を探し出すこともクックの任務でした。

地球が丸いことは理解されていながらも、大陸の反対側には同じ規模の
大陸がなければ球体としてバランスが保たれないとの考えが基になって
おり、未開の地を自国の領土にしたいとの思惑もあります。

南方大陸は存在するのか? 存在しないのか?

長らく論争が続いたこのテーマに対しても、クックは自らの航海により
結論を出します。

「ワタシがこれだけ探しても見つからないのだから、南方大陸なんて
存在するはずがない! これで決まりだ」

「えっ バランスの件? 地球は少しくらいデコボコでも大・丈・夫!」

結果的にクックが出した結論は正しかったのです。



18世紀の著名人となったクックは、ロシア皇帝から英国王まで誰もが
彼について知りたいと思ったほどのスーパースター。

ジェームズ・クックは、古今を通じて稀にみる偉大な冒険家です。

…のようなことが72ページのあたりに書いてあります。

私にはチンプンカンプンな部分もありますけど、ジェームズ・クックが
優れた航海術と幸運を持ち合わせた凄い人だと分かりました。

クック船長もこのスーパーで買い物を…。



ファレの町の様子はこのような感じです。

ガソリンスタンドが町の終点になり、ゆっくり歩いても15分程で散策
は完了します。

夜には少ないながらもルロットが並ぶそうで、ボラボラ島のバイタペを
小さくしたような町だと思います。



ファレの町を出て、車はバニラファームにやってきました。

バニラと言えば近くのタハア島が有名ですが、フアヒネ島でもバニラの
栽培は行われています。

バニラファームや隣接されているお土産屋さんを見学し、バニラアイス
を頂きました。







バニラファームの次は、ファイエ村の川沿いに車が停車です。

ガイドのバエアさんが川に入り、持っていた缶詰を開けて中身を川に
入れると、沢山のウナギが集まってきました。

タヒチではウナギは神聖な生き物とされ、青い目のウナギはフアヒネ島
で神様という扱いだそうです。

それにしても大きなウナギでした。
大きなものは直径15cmくらいだったと思います。





川の近くでポケモンも見つけました。  フアヒネ島(5)に続く




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