すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

あなたは「他人の目」でブログを読んでいないか?

2007-12-23 06:12:01 | メディア論
■記事を選ぶ目が「二次発掘の目」になってないか?

 私はこのところ、読む記事を探すのにソーシャルブックマーク(SBM)とニュースサイトに頼りきりになっている。で、ふと気づいた。記事を選別するためのが、だんだん「他人の目」になっちゃってるなあ、と。

 どういうことか?

 記事を選別する目というのは、何段階かに分かれている。

 たとえばAさんがブログに記事を書いたとしよう。そしてあなたはRSSリーダでAさんのその記事を直接読み、おもしろいと感じた。このときのあなたの目は「一次発掘の目」だ。

 ところが今や、そうじゃないパターンも多い。

 たとえばニュースサイトやSBMですでにリストアップされていたある記事を読み、「いい」と感じた。このときあなたが使ったのは、「二次発掘の目」になる。

 以下、親ニュースサイトが見つけた記事を子ニュースサイト、孫ニュースサイトが取り上げ、あなたがそれを読むのは三次・四次発掘ってことになる。

■記事探しは「ブログ単位」から「記事単位」へ

 さて冒頭の話にもどろう。

 私が使っているRSSリーダは、「Headline-Reader」だ。この私のリーダには膨大な数のブログが登録されている。

 だけど今や自分でリーダをいじり、自覚的にブログ単位で読む比率は落ちてきた。一方、SBMやニュースサイトを毎日チェックし、「今日の新聞」を読むような感覚で、偶発的に記事単位で読むパターンが多くなっている。

 とすると記事を見つけるのに一次発掘の目を使わず、無意識のうちにもっぱら二次発掘の目に頼る状態になる。

 ネット上の情報量は膨大で消えるのも短サイクルだから、こうならざるをえないのかもしれない。だけど複雑な気分である。

 なぜならこの選び方だと、結局、ある程度メジャーなもの(SBMやニュースサイトですでに選ばれているもの)しか読まなくなるのでは? という危惧がひとつ。

 もうひとつは、これだと「自分にとって本当に読む価値のある記事」を見逃すんじゃないか? というのもある。

■SBMでは未発掘、だけどおもしろい記事は多い

 私のRSSリーダには、私が自分の目で選んだ「自分にとって価値がある」ブログがたくさん登録されている。ためしにそのうちのひとつから、任意の記事を読んでみると……やっぱりおもしろいのである。

 けど、その記事はSBMやニュースサイトではまだ取り上げられていないのだ。

 やっぱりこういう記事を探し出す「一次発掘の目」を持ち続けなきゃなあ……。

 そんなことを感じる今日このごろである。

【関連エントリ】

『過去記事にスポットライトを当てる個性派ニュースサイトの威力』

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』

『自分に気づくためにブログを書く』

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』

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書くときに役立つインスパイア源としてのSBM

2007-12-21 07:12:15 | メディア論
 前回エントリ『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』では、個人ニュースサイトとソーシャルブックマーク(SBM)を比較した。で、ニュースサイトを中心に分析した。そこで今回は一方のSBMをテーマにしよう。

■自分と異なる価値観に出会えるSBM

 私にとってニュースサイトとは、「読むことを楽しむ」ためにある。それに対しSBMは、「自分が書くときに役立つ」メディアだ。

 たとえばニュースサイトの場合、まず自分好みの「お店」を選ぶのが第一段階だ。で、そのサイトばかり閲覧するようになる。だから自然に趣味のため、好きなものを読むためのメディアとして機能する。

 一方、いろんなネットユーザの「異なる好き」が集まるSBMには、自分のストライクゾーンからはずれた文体や発想、ジャンルが詰まっている。「えっ、そんな考え方があったのか?」と驚かされることも多い。

 つまり私にとってSBMは、自分とは異質な価値観にふれる場だ。そのことでインスパイアされるためのメディアなのだ。またそれだけでなく、自分にはない知識を仕入れるのにも役立つ。

 これらの特性は、もちろんインプット(読むこと)自体を楽しむときに生きることもある。だがむしろ私にとっては、アウトプット(書く)するとき役に立つ。

「ひとりで情報収集してるぶんには、たぶんこんな情報には一生、接することはなかっただろう」と感じるケースも、SBMではよくあるものだ。

 私はそんなSBMから知的刺激を受け、書くために不可欠なモチベーションをもらう。また自分が書くときの資料・データ集としてSBMを使っている。

■ニュースサイトとSBMは「どっちがいい悪い」の問題じゃない

 さて前回と今回の話をまとめよう。

 数回前のエントリ『「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション』では、SNS的なファンクラブ志向のコミュニケーションと、SBMのそれとを比較した上で、どっちがいい悪いの問題じゃないと断り書きをつけた。

 ニュースサイトとSBMの場合も、それと同じだ。あなたがどちらを選ぶかは、ネットメディアや他人とのコミュニケーションに、自分が何を求めるか? のちがいにすぎない。私がよく文中で、「少なくとも私の場合は」と但し書きを入れるのはそのためだ。

 人によって求めるものがちがうのは当然だ。どっちがいい悪いって話じゃない。結論としてニュースサイトとSBMは特性が異なり、それぞれ別のシーンで役に立つ。どちらのメディアを選ぶかは、ニーズによってちがう。ではその場面やニーズとは何だろう?

【本日の結論】

1. ニュースサイトは、読むことを楽しむためにある。

2. SBMは自分が書くとき役に立つ。


 ただしこれはあくまで「私の場合」である。

 
【関連エントリ】(前回)

『あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ』

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あなたの「好き」を見つけてくれる個人ニュースサイトを探せ

2007-12-20 08:56:40 | メディア論
 あなたは自分が読みたくなる記事をどうやって探しているだろうか? 私はけっこうソーシャルブックマーク(SBM)頼りだった。だけど最近では、個人のニュースサイトを見返し始めた。『ゴリラブーツ』を知ってからだ。

『ゴリラブーツ』に出ている記事は、どれを読んでもおもしろい。たぶん管理人さんの物の見方やユーモアのセンスが、私の感性に近いのだろう。

 同じことは、『駄文にゅうす』『まなめはうす』を読んでるときにも感じる。

 この自分にジャストフィット感というか、どれを読んでもおもしろいぞ。不思議だなあって感覚は、自分の嗜好に合うニュースサイトが見つかったときに独特のものだ。一方、SBMにはそんな感覚はない。

■ニュースサイトの管理人さんは「私小説作家」だ

 この両者のちがいは、どこから生まれてくるのか?

 ニュースサイトの場合、管理人さん1人が記事を選ぶからだ。ゆえに管理人さんの趣味が私に近ければ、そのサイトには私の好きなものばかりが並ぶ。

 だが一方、SBMは嗜好のちがういろんな人が、それぞれの「好き」を持ち寄る場だ。だからニュースサイトとくらべ、自分だけのどれを読んでもおもしろい感がない。(そのかわり多様性に富んでいる)

 もうひとつ特徴をあげよう。ニュースサイトは製作者がいい意味で、一方的に価値判断して情報を送り出す。その意味ではネット媒体というより、むしろテレビや新聞、雑誌などの既存メディアに近い。

 もっと言えばニュースサイトの管理人さんは、ユニークな主観が売り物の「私小説作家」みたいなものだと思う。

 かたやSBMは、情報の受け手が同時に送り手でもある。Web2.0的なユーザ参加型メディアだ。だからニュースサイトとちがい、出てくる答えにある程度の客観性がある。人々の最大公約数をチョイスするのにいい。

 しかし自分だけの「好き」に出会うには、その最大公約数の答えの中から、さらにまた自分の目で選び出す必要がある。

ニュースサイトにくるユーザーは管理人の趣向を求めてきている。

それに対し、SBMは(中略)集合知という観点から利用されることが多い。大多数のユーザーは多くの人が読んでいるニュースを読みたがってきている。

●tomityの日記『ニュースサイトとSBMの差は管理人主導か集合知重視かの違い』


 両者のちがいを端的に表現した言葉である。

■記事の選び手はセンスが偏ってる方がおもしろい

 以前、エントリ『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』(2005年・4月18日付)の中で、ブログのセレクター(選ぶ人)についてこう書いたことがある。

思えば昔読んでいた作家の傾向は、10代から20代にかけてハマった筒井康隆の影響をモロに受けていた。筒井氏がエッセイなんかで「この作家の○○って本はおもしろい」と書けば、かたっぱしから買い漁ったものだ。するってえとあなた、ものの見事にそれは「おもしろい」のである。

 つまり私が感じるツボと、筒井氏のツボはとても近いわけだ。だから筒井氏の選球眼に身をゆだね、巷にあふれる本をある程度、効率よく絞り込むことができた。

 ブログにもこの理屈は当てはまるはずだ。

「客観的・中立的見地から選びました」じゃなく、「オレがおもしろいと思うものを独断と偏見で選んだ。なんか文句あっか?」的な、いい意味でのゴーマン・セレクター。もしそのセレクターと私のツボが似ていれば、きっとブログ選びがかなり効率的になるだろう。


 つまりポジティブな意味で偏ったセレクターに相当するのが、ニュースサイトの管理人さんなのである。

「私」にとっては素晴らしいのに、「あなた」が読んでもおもしろくない。そんな落差のあるニュースサイトほど、存在価値があると私は思う。

■はてブの「お気に入りユーザー」も理屈は同じだが……

 ところで前述した私と筒井氏の関係性から、何かを連想しないだろうか? そう、はてなブックマーク(はてブ)のお気に入り機能である。

 自分と同じ記事をよくブックマークしている人を、「お気に入りユーザー」に入れておく。そうすれば「はてブ」でも、ニュースサイトと同じことが実現するはずだ。

 あとはその人のブクマ一覧を見れば、どれを読んでもおもしろいぞになると思いきや……案外、そうでもない。

 あくまで好みの問題なのだが、なぜか記事に当たりはずれがあるのだ。いったいどうしてだろう? 理由をつきとめようと前から首はひねっているが謎のままである。

 まあそんなわけで、はてブ「注目のエントリー」や『はてブニュース』『Alpha Clipper Clips』あたりをよく見ていたが、最近はまたニュースサイトにも目を通すようになった。『ゴリラブーツ』が私を変えてくれました、ってお話である。


【関連エントリ】 (今回の記事の後編的な記事です)

『書くときに役立つインスパイア源としてのSBM』

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言及文化は「ブログでTB」の時代からSBMへ

2007-12-19 10:21:53 | メディア論
 アメリカではネットユーザの約半数が、自分の名前を検索エンジンで調べたことがあるらしい。

Pew InternetおよびAmerican Life Projectによる最新の調査の結果、米国の成人インターネット利用者の47%が、Google等の検索エンジンを使用して「うぬぼれ検索」をした経験があることがわかった。

●TechCrunch Japanese アーカイブ『Googleで「うぬぼれ検索」しているのは、あなただけではない』


「うぬぼれ検索」というのは、自分の名前やハンドルをネットで検索する「エゴサーチ」のことだ。たぶんアメリカでは実名を検索する例が多く、日本ではやっぱりハンドルを調べるのが一般的なんだろう。

 で、ちょっと「エゴサーチ」を検索してみたのだが、面白かったのは「R25.jp」の記事だ。

“自分の名前を検索すること”は「エゴサーチ」と呼ばれていて、定期的にやった方がいい行為なのだ。ネットでは自分の知らないところで過去の写真や経歴、ヒドい場合は本名だけでなく住所や所属までもが表示される可能性がある。知らないうちに誹謗・中傷されてた、なんてことも…。(中略)これからは自分だけじゃなく、彼女や友人の名前もエゴサーチする習慣を!

『実は「エゴサーチ」って、定期的にやるべきなんです』


 ネットで晒されてるかどうかを調べるために、定期的にエゴサーチするのをすすめてるのだ。はぁ? そんなの考えたこともなかったぞ。

 ああ、私は実名でブログを書いてるんだから、晒されてるのは当たり前か。

 しかし文末の「これからは自分だけじゃなく、彼女や友人の名前もエゴサーチする習慣を!」ってのはどうなんだろうか。

 まあリスク回避のためって言えばそうだけど、しょっちゅう知人の名前をネットでシコシコ検索してる人って……なんかあんまり友だちになりたくないな。

 と思ったら、なんとWikipediaでもエゴサーチをすすめてた!

エゴサーチ (中略)自分の知らないところで個人情報が書かれていたり、誹謗中傷されている場合があり、それを発見するためにも定期的にしておいたほうがいい行為とされる。

●ウィキペディア(Wikipedia)『エゴサーチ』


 うーん。てことは今まで私は常識がなかったってことなのか……。

 と思い知り、ちょっと私もやってみた。

 ただし趣向を変え、Googleとかじゃなくkizasi.jpで「松岡美樹」をエゴサーチしてみたのだ。

 するとなんとまあ。ずいぶんいろんな人が拙ブログに言及してくれているではないか。でもトラックバックがきてないから、わかんないんだよねえ。ブログで言及されてても。

 自分のブログで誰かの記事を取り上げても、「相手にトラバは送らない」ってのが今や常識になったのか?

 まあトラックバック・スパムやスプログの影響もあるんだろう。けどトラバを使い、エネルギッシュに意見交換するかつてのトラックバック文化は、もはや死滅しつつあるんだろうか?

 そういや誰かのブログでこんな話を見かけたことがある。

「面白いエントリを読んでも、もう自分のブログでわざわざ記事にする気がしない。ブクマするほうが楽だ」

 さっき言ったトラックバック文化というのは、言い換えれば言及文化のことだ。考えてみればその言及文化は、今やトラバに代わり、ソーシャルブックマーク(SBM)が担うようになったのかもしれない。


(追記)複数の方から役に立つコメントをいただいた。「ブログ検索」サービスでエゴサーチした検索結果を、RSSリーダーに登録しておくのだ。そうすれば、いちいち自分の名前を入力して検索しなくて済む。なるほどこれは便利だ。追記しておく(2007年・12/19)
コメント (2)
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「SBMでは異論・反論しない」なんて私は言ってないよ

2007-12-16 10:57:32 | メディア論
「SBMではいっさい異論・反論しない」なんて私は言ってないよ。

 ブクマ・コメントで異論を唱えるときは、私は相手を無用に挑発するような表現はしない──。たとえば過去の数エントリで書いた論旨のひとつはこうだ。

 なんか「松岡さんがネガコメしない宣言をしたぞ」とか言ってる人もいて(※1)、一部誤解があるようだから論点を整理しておきたい。

 ※1:参考「私の記事(12/12付)に対する、はてブ・ページ」

 で、確認エントリを書くことにした。それが今回の記事である。

■「ネガティブ・コメント」の定義とは?

 まず何度も例にあげるが、ここでいう「ネガティブ・コメント」とは便宜上、ekkenさんのカテゴライズに準じる。定義は以下の通りだ。

-------------------------------------------------
【ネガティブ・コメントの4分類】

1. 事実確認
2. 異論・反論・批判
3. 誹謗・中傷・侮辱
4. コピペ(荒らし)

-------------------------------------------------

 つまりネガティブ・コメントとは、「モラルに反するコメント」って意味じゃない。相手から見て、「自分に否定的なコメント」のことだ。

 そして私がネガコメをしないと表明したのは、SBM上での話だ。ブログやその他のメディアは含んでない。また私は上記4分類のうち、1の事実確認や2の異論・反論を「いっさいしない」とは言ってない。私がやらないと表明したのは、3:誹謗・中傷と4:荒しだ。

■「私はあまりネガコメしない」と書いた意味はこうだ

「えっ、だって松岡さんはネガコメしないって言ったじゃん」と、まだ疑問をお持ちの方がいるかもしれない。そこでもう少し説明しておく。

 文章というのは、簡潔に読みやすくするべきだ。ゆえに、「私(松岡)はSBM上において、あんまりネガコメする気にならない。理由はこうだ」てな論旨を文中で言おうとするたびに、「私(松岡)はSBM上で、ネガコメ4分類のうち事実確認や異論・反論はするけど誹謗・中傷や荒しはしない。その理由は~」などと長ったらしく書くわけにゃいかない。

 そんな書き方をしていると、ものすごく回りくどい文章になってしまう。

 で、文中のポイントになる数箇所では、文字数をたくさん使い上記の主旨を説明した。そして、その他の箇所では簡潔に「ネガコメしない」と記述した。こういうのは文章技法のひとつとして、ごく普通のことである。

 また私が「あまりネガコメしない」などと、注意深く「あまり」をつけて何度も書いたのはそういう意味だ。いうまでもなく「あまり」とは、上記の定義1、2に当たるネガコメはするが、3と4はしないって意味である。

 定義1~4のうち、すべてのネガコメをいっさいしないわけじゃないから、「ネガコメはあまりしない」と書いたのだ。

 では念のため、証拠物件として「私(松岡)はSBM上で、ネガコメ4分類のうち異論・反論はするが誹謗・中傷や荒しはしない」てな意味のことを書いた箇所をあげておこう。

【証拠物件】

●「(誹謗中傷じゃなく)相手に対する異論・反論は、正当なネガティブコメントであると私は考えている」
 (『私がソーシャルブックマークにネガコメを書かない4つの理由』)

●「正当な異論・反論をやり取りする議論は、大いに結構である」(同上)

●「ネガティブ・コメントの定義は、前回に引き続きekkenさんのカテゴライズに準じる。(中略)で、これらのうち、異論・反論は正当で有意義なコメントだと私は考えている」
 (『SBMのネガコメは「言わせてもらうが反論するな」メソッドだ』)

●「また(私は)「この部分は自分の意見とちがうな」と思えば、表現を考えて異論を書く。(ただし)記事の筆者を意味もなく挑発するような書き方は避ける。相手が抱く感情的な反発は、(無益な)議論に引火しがちだからだ」(同上)

●(上記に関連して)「同じ異論を述べるのでも、書き方の問題は実に大きいのである」(同上)

 いったん要点をまとめよう。

【ポイント】

1. 私は文中の要所では、「SBM上で、ネガコメ4分類のうち異論・反論はするが誹謗・中傷や荒しはしない」と説明した。

2. 一方、その他の箇所では文章を簡潔にするため、単に「ネガコメはしない」と記述しておいた。

 つまり2の「ネガコメしない」は、1と同じ意味である。前述の通り、文章表現上の都合でそうした。どうも「ネガコメはしない」の部分だけを読み、誤読されている方がいそうなのであらためて付記しておく。

 自分で自分の文章をくどくど解説するのは本意じゃない。けど、こういう基本的な前提に対する認識が食い違ったままでは、それこそディベートにならない。で、あえて自分で自分の文章を解説した次第である。おしまい。

【本日の結論】

1. 私はSBM上で、ネガコメ4分類のうち事実確認や異論・反論はするが、誹謗・中傷、荒しはしない。

2. ただし相手に異論を唱える場合でも、書き方に注意する。記事の筆者を無用に挑発するような、愉快犯的な表現はしない。それは無益な誹謗中傷合戦の呼び水になるだけだからだ。

3. また異論の書き方に注意する理由は、もうひとつある。SBM上では、私が考えるスタイルの議論がしにくいからだ。

(だからといって私は、議論が可能になる機能をSBMに実装すべきだとは必ずしも思っていない。理由はこの記事に書いた通りだ)

4. では「私が考える議論のスタイル」とは何か?

 第一に、字数制限やその他モロモロの制約がないことだ。そのことにより自由に相手が私に反論でき、かつ私も自由に相手に問題提起できる

(ただしこれは平等主義で言ってるんじゃない。理由はこの記事を参照のこと)

5. では「私が考える議論スタイル」の第二点は何か?

 自分や相手、およびネット上の第三者がディベートを見やすいよう、できるだけ議論のやり取りが同一のメディア上で行われることだ。当然だが、そのほうが閲覧性や公開性、機能性が高い。

 上記5の理由は、少し説明しておく必要があるだろう。まずネット上における議論は、自分と相手の「2者だけ」がやり取りできればコト足れり、とは私は考えてない。

「当事者だけがやればいい」ってのは単なるケンカだ。それは議論ではなく、勝ち負けにこだわるただのプライド争いではないか? なるほどそのテの議論モドキなら、2者だけがやればすむ話だろう。

 けど私はネット上における議論とは、広く公開原則にもとづいて行われるのが理想だと考えている。

 たとえば第三者がその議論を傍聴したとき、「なるほど。こんなものの見方があったのか」と新しい発見をする。

 あるいは「自分ならこう考えるぞ」と、当事者以外の人も自由に議論に加われる。また実際に参加しないまでも、頭の中で擬似的に討論(議題について思考)する。で、そのことによりインターネットにつながった人々が総体として、その議論から何がしかの利益を得られる。

 これがインターネットの本質だと私は考えているからだ。

 インターネットは基本的に、万人に公開・共有された場所である。ゆえにそこで行われるディベートや専門知識の披瀝は、本人たちだけでなく不特定多数の第三者にとってもメリットになる。

 だからこそネット上では集合知が成立するのであり、だからこそネットは私にとって魅力的でエキサイティングなのだ。


(追記1)冒頭に「※1:参考」として、当ブログの過去記事に対する「はてなブックマーク」ページへのリンクを追加した(2007年-12/16 21:00)

(追記2)今回はタイトルを深く考えず、「言ってないぞ」などという言葉づかいにしてしまったため、私には悪意(他意)はないのにキツイ印象になってしまったかもしれない。ただ、このタイトルはすでにブクマされてしまっているし、今後の反省材料として、あえてこのまま修正せずに残しておきます(2007年-12/17 2:22)

(追記3)タイトルは元のまま残そうと思ったが、あのタイトルは当ブログが続く限り残るので、やはり無用な誤解は避けることにした。よって悪い印象を招きかねないタイトルを、以下の通り修正した(2007年-12/17 2:55)

旧タイトル『「SBMでは異論・反論しない」なんて私は言ってないぞ』

修正後の新タイトル『「SBMでは異論・反論しない」なんて私は言ってないよ』

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「仲のよさ」じゃなく「記事の内容」で繋がるSBMのコミュニケーション

2007-12-14 09:04:07 | メディア論
 以前、mixiに代表されるSNSは「好き」、「同じ」で繋がるファンクラブ志向だと書いた。

 ●『ファンクラブ志向と議論志向──SNSとブログにみるコミュニケーション・ギャップの原理』(2005年-9/21)

 また同じ上記のエントリで、

 (1)自分とAさんの意見がちがうこと(事実の提示)

 (2)そのちがいはどこからくるのか?(理由の分析)

 (3)Aさんとのちがいは自分にどんな意味があるか?(自己分析)

 これらを記事にし、意見が異なるAさんにトラックバックするブログというメディアは、議論志向であると書いた。

 で、この両者のちがいを「人か?」「記事か?」の切り口で、うまく説明しているエントリを見つけた。ブログ「パソコンはおもちゃ箱」の『はてなブックマークコメントについて』という記事である。

■「記事で繋がる」に初めて気づく人たち

 そのエントリで筆者のMarumamekoさんは、はてなユーザ以外のネット仲間にはてなブックマークのエントリページを見せ、誤解を受けながらも理解されていく過程を書いている。

 その結果、「気が合う」ことで繋がるタイプの人でも、「『人ではなく、その書いたものに反応し共鳴する』という発想に自ら気がついてくれた人もいました」とする。

ソーシャルブックマークを使ったことがない、もしくは関心が無いネットユーザーは得てして“ネットの交流”すなわちネットで気が合う(意見が合う・趣味志向が合う)人との交流という発想なのですが、日頃から人と繋がるだけではなく記事で繋がることがネットがオープンになっていくのに大事だと考えている私にとっては、これは今後ある程度の期待を繋ぐことができそうなうれしい出来事でした。

●パソコンはおもちゃ箱『はてなブックマークコメントについて』


 またエントリ後半の分析と比喩もおもしろい。少し長くなるが引用しよう。

はてブのコメント欄は同じ記事をブックマークした同士でのその場限りのSNSみたいな感じが面白いと感じています。そう、たとえるなら劇場やコンサート会場での一体感みたいな感じ。制作者に対してだったり作品に対してだったりの感想・批評を、観客が劇場を出ながらブツブツ言っているのを聞く感じ。一緒に感動(じゃない場合もあるけど)を共有して盛り上がっても、劇場を出れば別に観客同士が繋がっているわけでもなくて会場を出たらハイさよなら…という感じ。


 はてブ空間を劇場に見立てたレトリックが効いている。なるほどブックマーカーは、一夜限りの舞踏会に集う人々なのかもしれない。

■価値観やキャラで連帯するブックマーカーもいる

 ただ1点だけ異論を述べるとすれば、劇場を出た観客たちは必ずしも「ハイさようなら」じゃないことだ。

 記事を通してだけでなく、「あのブックマーカーの見方は面白いな」と人間の価値観やキャラクターに共鳴する。で、劇場を出たあとも常連同士が継続し、精神的に繋がっている場合もあるだろう。

(もしかしたらこの点をMarumamekoさんは、「その場限りのSNS」と表現したのかもしれないが)

 だからソーシャルブックマーク(SBM)のユーザといえども、ドライに記事の中身だけで判断してるとは限らない。

 たとえば「人気・注目エントリの常連(コミュニティ内の有名人)の記事だから」ブックマークしよう。あるいは自分の好きな人、仲のいい人の記事だからブクマする──。そんなケースも考えられる。

 またネットユーザは空気を読み合うものだ。だから「みんながブクマしてるから自分もする」(衆愚化)って例もあるだろう。

 あるいはこんな場合もありそうだ。

1. 仲のいいAさんが記事Bを取り上げ、ブクマ・コメントで否定してる

2. 自分は記事Bを面白いと思う。けど仲良しのAさんが否定してるから、記事に賛同しにくい

 とすればSBMのユーザといえども、おつきあいコミュニケーションがゼロだとはいえない。

個が確立した超人ブックマーカーたち

 もっとも人間は往々にして、客観的な思考より感情に左右されやすいものだ。だから仲間同士のおつきあいがあるのは自然である。逆にそのへんがスッパリ割り切れている人は、個がかなり確立してる人だといえる。

 たとえば自分は日頃から、Aさんに親近感をもっているとしよう。でもあるときAさんが書いた記事に、自分は正反対の感想を抱いた。そこで記事のブクマ・コメントで、「私はあなたの意見とちがいます」と表明するようなケースだ。

 つまり「仲のよさ」に引きずられず、あくまで「記事の内容」で判断している。これってSBMのユーザ間ではよく見かける。

 その意味では確かにMarumamekoさんがおっしゃる通りだ。こうした価値観は、SBMを使っている人に(100%ではないが)顕著であるといえるだろう。

■結局、いい悪いの問題じゃない

 仲のよさや同じ趣味で繋がるのがいいか? 記事の内容に惹かれて繋がるのがいいか? 結局のところ、これは人により判断が分かれるものだ。

 また実はこれっていい悪いの問題じゃなく、それこそ趣味の違いのような気もしないではない。

 ただ私の個人的な価値観でいえば、やはり記事の中身で繋がり、人とちがうことで面白い議論が発生する世界のほうが住みやすいことは確かである。

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マスメディアからマイクロメディアへ -専門店化する情報発信はニッチが主役

2007-12-13 00:36:26 | メディア論
 もともとブログは「不特定少数」向けに使われるメディアだと思う。たとえば70年代のロックにテーマを絞り、人に知られてないニッチなネタでお客を楽しませる。

 あるいは格差社会だけをお題にし、ネットカフェ難民とかニートなんかの話題と最新ニュースを更新し続けてるブログがあったり。また非モテ専門のブログだってある世の中だ。

私は、ブログを「不特定少数」に向けて書いていることが多い。記事によるけれど、例えば無線通信業界の人とか、子供の学習障害に関心のある人とか、どこにいるかわからず、おそらく全体の中では埋もれてしまうぐらい数は少ないけれど、私の言いたいことを聞きたい人が世界のどこかにいるだろう、と思って書いている。

●Tech Mom from Silicon Valley『「ブログ限界論」とマイクロメディア』


 かつての情報発信は、マスメディアに代表されるデパート型しかなかった。オールジャンルで何でも揃えているけれど、任意の特定分野を見ると専門性が低かった。広く浅く、情報発信のデパートである。

 それに対して趣味で書かれることが多いブログは、収益性を考える必要がない。だからどんなにマイナーな分野に絞ろうがOKだ。

 100人のうち3人しかわからないネタでも、すごくコアな情報であればその3人にはすごくウケる。3人しか知らないネタを扱ってることが、逆に強力なブランドになる。つまり情報発信の形態が、デパート型から専門店化したわけである。

「限界論」では、ブログでどうやって儲けるかという話や、アルファブロガーの位置づけの変遷とかが話に出るが、「不特定多数」を相手にした「マスメディア」的な枠組みでとらえているように聞こえる。●同


 上記の分析とはちょっとちがうんだけど、専門店化した情報発信がちょっと曲がり角にきているのは、ブログユーザが次々にアクセスアップを考えるようになって行くからだと思う。マスメディア同様、「読者数」を気にするようになるのだ。

 開店した当初は、3人から反応があるのがすごくうれしかった。なぜなら今まで「彼」は自分で情報発信したことがなかったからだ。

 だけど発信することの醍醐味に慣れてくると、だんだん3人じゃ物足りなくなる。「もっとたくさんの人にウケたい」と考えるようになる。

 すると題材の選び方や文章の書き方がメジャー狙いになり、似たようなブログが増えていく。「クリックされるサイト作り」をみんなが目指すようになる。

 いったん専門店化した情報発信がまたもやデパート化し始めて、「ブログは限界じゃないか?」といわれるような先祖帰りが進んで行く。

 ただしそれほど悲観的になる必要はないだろう。100あるブログのうちたとえば70がデパート化しても、残りの30は確実に専門店のままだからだ。100店ぜんぶがメジャーを目指す、なんてありえない。「うちはニッチだからいいんだ」って人は必ず残る。

 そしてこれら30がやってる情報発信は、マスメディアしかなかった時代には存在しなかったものである。つまりゼロから30に増えたのと同じだ。ブログのデパート化という淘汰が進んだとしても、筆者の海部さんが言われるようなマイクロメディアは残っていくだろう。

 いつの時代も変わり者は必ずいる。そしてニッチであることの愉しみが浸透した今の世をになうのは、その変わり者なのである。

【関連エントリ】

『みんなが書くことについてマジメに考える時代』

『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』

『「韓流」がいつも1面トップの新聞なんていらない』

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SBMのネガコメは「言わせてもらうが反論するな」メソッドだ

2007-12-12 10:14:30 | メディア論
 前回のエントリが「モラル」とか「平等」の話と混同されそうなんで、補足記事を書くことにした。まず前回エントリを要約しておく。

 ソーシャルブックマーク(以下、SBM)には、字数制限やレスをしにくい特性がある。自由で制約のない双方向の議論がしにくい。だったら私はその仕様に合う使い方をする。ゆえにSBM上では、私はネガティブ・コメントを書かない。

『私がソーシャルブックマークにネガコメを書かない4つの理由』


 ここで言う「ネガティブ・コメント」の定義は、前回に引き続きekkenさんのカテゴライズに準じる。誹謗中傷だけじゃなく、相手に対する異論・反論も含んでいる。つまり相手から見て「自分に否定的なコメント」って意味だ。

 で、これらのうち、異論・反論は正当で有意義なコメントだと私は考えている。ああ、「正当」って言葉を使うと、またモラルの話とカン違いする人がいそうだ。表現を変えよう。

 相手に異論を言うことで、そこから議論に発展するならおもしろい。だけどネガコメを一方的に放言するんじゃ、ちっともワクワクしない。私にとってまるで意味がないことである。

■「言わせてもらう。だが反論するな」のご神託スタイル

 ではなぜ私は「議論になるかどうか」にこだわるのか? 相手に反論の機会を与えるための平等主義で言ってるわけじゃない。単純な話だ。繰り返しになるが、私は議論が好きだからである。

 ゆえにそう思わない人とは、今エントリの論理展開は共有できないだろう。スタート地点がちがうんだから当然だ。

 またSBM上でネガコメを発することが、議論の呼び水になる行為だと考えない人とも価値観を分かち合えない。つまり、「オレはSBMを自分のためだけの個人的なメモ代わりに使ってるんだ。任意の記事を読んで同意できなかったとき、感情の赴くままに感想を書いて何が悪い」って人だ。

 いや確かに私も似たような使い方をしている。だけど認識の上で決定的にちがう点がある。

 SBM上に書いたコメントは、「世間」に漂い出る。チラシの裏の独り言じゃ終わらない。自分が批評した記事の筆者を含む、多数のユーザと同じデータを共有している。相手がある話である。ブクマ・コメントは単なる自己完結のつぶやきではない。他者と何らかのコミュニケーションを発生させることになるのだ。

 この場合のコミュニケーションとは、ポジティブなもの、ネガティブなもの、そのどちらでもないものすべてを含んでいる。

 とすればネガコメを書いた場合には、特に強いリアクションを誘引するってことを認識しておく必要がある。リアクションとは、記事の筆者が反論したいと感じることだ。さて、そこで以下のように考える人とは、私は価値観を共有できない。

【価値観A】 オレは言いたいことを言う。だけどお前はオレに反論するな。

「自分はちがう」って人もいるだろう。だけどSBMは前述の通り、異論・反論を唱えて双方向の議論がしにくいシステムである。

 だからあなたの認識とはまったく関係なく、あなたがそこへネガコメを書いた瞬間に、実質的には「オレは言いたいことを言う。だがお前は反論するな」というコミュニケーションのご神託化現象が起こるのである。

 で、私は【価値観A】を持ち合わせてない。それどころか正反対の考えだ。だから私はブクマでネガコメをあんまり書かない。ただしこれは私の個人的なスタンスであり、他人に押し付けるつもりはない

 いったんまとめよう。私がネガコメを書かない背景には、次の2つの心理がある。

1. 自分の意見を言う場合、一方的な放言じゃなく議論がしたい

2. 私は【価値観A】に共感できない。ご神託ではなく議論がいい

■相手から異なる意見をぶつけられる知的刺激

 では、なぜ私は議論にこだわるのか? の話にもどろう。

 私にとって議論の醍醐味とは、相手から反論がくることにある。反論の形で私が想像もしなかった異なる視点や、ユニークな価値観を示される。「そんなものの見方があったのか!」と知的刺激を受ける。新しい発見をする。これがおもしろい。だから私は議論が好きなのだ。

 ゆえにSBMで異論を書いても、議論にならないんじゃ意味がない。なら私はそんな議論モドキ(ネガコメ書き)じゃなく、別の使い方をしますよって話である。

 ここでまた誤読してる人がいるかもしれないが、私はSBMそのものをダメだと言ってるわけじゃない。SBMにおけるネガコメを否定してるだけだ。私にとってSBMは必要不可欠なものである。

 さて、では別の使い方とはなにか? ありふれた話だ。気になる記事があったとき、粛々とブクマしコメントすることである。おもしろいと思ったら、どこがどうおもしろいのか書く。あるいは記事への賛同でも批判でもない、客観的な分析を書くこともある。

 また「この部分は自分の意見とちがうな」と思えば、表現を考えて異論を書く。記事の筆者を意味もなく挑発するような書き方は避ける。相手が抱く感情的な反発は、(無益な)議論に引火しがちだからだ。

 だけど何度も書いてる通り、SBMでは議論しにくい。なら誘い水は百害あって一利なしだ。同じ異論を述べるのでも、書き方の問題は実に大きいのである。

 そして本格的に異論を唱えたければ、議論ができる方法を私は選ぶ。ブログに反対意見を書き、相手にトラックバックを送る。これまたありふれた話である。

 まとめよう。

【本日の結論】

 私の行動原理は「それがエキサイティングかどうか」である。モラルや平等がうんぬんの話ではない。一方的な放言は、議論にならないからエキサイティングじゃない。だから私はやらない。ただそれだけの話である。

【関連エントリ】

『「SBMでは異論・反論しない」なんて私は言ってないぞ』

『自分に気づくためにブログを書く』

『ソーシャルブックマークで忘れがちな3つのこと』

『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』

『なぜ日本では議論が生まれにくいのか? ──議論とケンカのメンタリティ』

『ファンクラブ志向と議論志向──SNSとブログにみるコミュニケーション・ギャップの原理』

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私がソーシャルブックマークにネガコメを書かない4つの理由

2007-12-11 11:46:21 | メディア論
 私は議論が大好きな人間だ。だけど個人的信条として、相手の反論権が担保されない場では相手に対して否定的なことはあまり書かない。いや別にモラルがどうたらの話じゃない。反論がこない状況では、議論にならないから気が乗らないのである。

ソーシャルブックマークのコメント欄は文字数制限があることと、レスを返せないという2点がブログ本体のコメント欄より劣っており、それがブロガー自身に悪印象を与えるようなコメントに結びつくことも多いのではないだろうか。

●北の大地から送る物欲日記『ブックマークコメントを見る視点での違い』


 文中で筆者のhejihoguさんは、ネガティブ・コメントを4つに分類した上でこう分析している。おおむね同意できるご意見だ。ソーシャルブックマーク(以下、SBM)は機能上、自由に相手と往復書簡を送り合い議論する仕様になってない。

 だからブクマ・コメントで異論・反論を述べられると、批判された側には言われっぱなし感が残る。このへんは以前、アスキー連載『ほめる“はてブ”、けなす“はてブ”』(ASCII.jp)でも書いた通りだ。

 で、自分の考えを整理するのにちょうどいい機会なので、今回はネガコメに関して私の個人的な意見を書いてみる。

■私は仕様に合わせたコメントを書く

 前述の通り、SBMは議論するのに向いてない。ただし私はだからとって、SBMのコメント欄が議論できる仕様になったほうがいいとは必ずしも思わない。

 なぜならSBMはあくまでブクマするためのものであり、議論が目的のサービスではないからだ。実際、議論するためにブクマを使ってるユーザはいないんじゃないだろうか? 

 で、議論ができない仕様であるならそれはそれで、その仕様に合わせた内容のコメントを書くのがベストだと私は考える。

 相手の反論権が担保されない状態(議論に向かない仕様)であるにもかかわらず、相手に対し否定的なコメントを書くのは私は好きじゃない。だから私はネガティブなブクマ・コメントはほとんど書かない。

 ただし誤解を避けるために言っておくが、私は別に「相手を批判するな」と主張してるんじゃない。冒頭に書いた通り、私は議論が好きな人間である。

 だから記事に異論を述べて議論しようと思ったときには、自分のブログを使う。ブクマ・コメントじゃなくブログでエントリを立て、相手に反論トラックバックを送る。これなら双方向の議論が成り立つ。うちの過去ログを読んでもらえばわかるが、こんなふうに議論したケースは何度もある。

 さて、もうひとつ但し書きをつけたい。

 以上のことは、あくまで私の個人的な信条である。私は自分の私的ポリシーを他人に押し付けるつもりはない。「少なくとも私は」ネガティブなブクマ・コメントは書きません、というだけの話だ。

 また私がここで言ってる「ネガティブ・コメント」とは、ekkenさんの定義にかなり近い。(誹謗中傷じゃなく)相手に対する異論・反論は、正当なネガティブコメントであると私は考えている。

■私ならこういうブクマ・コメントは書かない

 さて抽象論が続いた。話をわかりやすくするためには、具体例をあげるのがいい。そこで私なら書かないだろうブクマ・コメントの実例を、2件だけ紹介する。

【モデルケース1】

 以下は、私のアスキー連載『信頼できる「場の空気」はいかにして生まれたか? 「発言小町」に見る読売新聞社のCGM観(後編)』にいただいたsuVeneさんのブクマ・コメントである。

「んで、いかにして生まれたんだ」

 これは私の原稿中で、「信頼できる場の空気がいかに生まれたか?」の理由が明示されてない(とsuVeneさんが感じた)ことに対するツッコミである。その意味では正当なコメントだ。

 だけど私がその理由をあらためて説明するのは、字数制限がある上にブログより双方向性の落ちるブクマ・コメントでは無理だ。たとえば可能な限り短く、suVeneさんのご意見に反応してみよう。

-----------------【短く反応してみた例文】---------------------

「A=Bである」のような形では明示してないが、傍証は文中に複数箇所書いてある。傍証を並べ、直接的にはあえて言わないという書き方は、文章技法のひとつとしてありえる。そこを読み取ってほしいのだが残念だ。

----------------------------------------------------------

 文字数にして99字である。これ、なんのことだか意味わかります? おまけに説明すべきポイントは例文に書いただけでなく、ほかにもあるのだ。だけどもちろんブコメ欄には書ききれない。

 もちろん「自分は書きたいブクマ・コメントを書く。反論があるなら、相手は自分のブログで異議申し立てすればいいじゃないか」てな議論はあるだろう。だがツッコミが書かれたその同じ場(SBM上)で、かつ双方向のやり取りができるのでなければ、エキサイティングな議論にはならないと私は考える。

 したがってsuVeneさんが書いたブクマ・コメントは、私ならば書かない。(ただし私以外のほかの人が書くかどうかは、私のあずかり知らぬところである)

■SBMは自分の文章を解説する場ではない

 次は、私のブログ記事『ソーシャルブックマークで忘れがちな3つのこと』にいただいたululunさんのコメントだ。

【モデルケース2】

『エントリにするときに忘れがちな事「それ、本当にそのシステムだけに言える事?」意図的かもしれないけれど、松岡さんのソーシャルブックマーク「だけ」を取り上げるやり方は謎ですらある』

 私は上記の記事の冒頭で、「ソーシャルブックマークを使っている時にそれが顕著だ」とは書いた。だが「ソーシャルブックーマだけに言える現象である」てなことはどこにも書いてない。

 さらに文末では、「個室感覚と広場感覚がグレーゾーンなケースはソーシャルブックマーク以外にもいろいろありそうだ」とまとめている。

 また上記の記事はSBMに言及するのが主題なのだから、SBM「だけ」を取り上げるのは当然である。

 SBMが本題であることは、文中の冒頭に書いた「その意味でブクマ・コメントを書くときに、うっかりしがちな3つのケースをあげてみよう」の一文を読めば明らかだろう。

 で、こういう反論(自分の文章の解説)を同じSBM上にエンエンと書き、また相手から再反論をもらい、てな仕様には、SBMはなっていない。したがってululunさんがお書きになったようなコメントも、私ならば書かない。

 誤読されそうだから念押ししておくが、両コメントに反論するのが今回の主旨ではない。本エントリの主題はSBMにおけるコメントのあり方論議と、それに関する私の個人的スタンスである。

 たまたま記事の主旨にマッチしたので、話をわかりやすくするために2つの実例をあげた。誤解なきように。

■議論が成立しなきゃおもしろくない

 さて、まとめよう。

【ネガコメに対する私のスタンス】

 私がSBM上に異論をあまり書かない理由は以下の通りだ。

1. 字数制限その他の制約により、SBM上では自分の意図を完全に説明しにくい
  (相手に異論を述べる場合には、特に十分な説明が必要だと私は考える)

2. 機能上の特性から、SBM上では双方向の議論がしにくい

3. 議論とは、相手の反論権が担保された状態でやるものだと私は考えている
  (でなきゃおもしろくない)

4. 上記1~3の理由により、SBM上では私の考えるスタイルの議論が成立しない


【本日の結論】

 正当な異論・反論をやり取りする議論は、大いに結構である。だけど内容がいくら真っ当なネガコメであっても、双方向の議論が成立しない状況、または何らかの理由で相手の反論権が担保されない状態であれば、私は相手に対して異論を述べるコメントを書かない。

 ただしこれは私の個人的信条であり、他人に押し付けるつもりはない。

【関連エントリ】 (今回の後編的な記事です)

『SBMのネガコメは「言わせてもらうが反論するな」メソッドだ』

『「SBMでは異論・反論しない」なんて私は言ってないぞ』

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自分に気づくためにブログを書く

2007-12-10 07:56:08 | メディア論
 人はなぜブログを書くのか? 私の場合、「自分の中の自分に気づけるから」というのが大きい。もちろん理由はそれだけじゃないが、今回はブログによる気づきに絞って話を進めよう。

ブログを書くってことは、自分の考えを文章としてウェブ上に残すってことだけど、それによってより深く考えることになったり、ブログを読んだ人からの反応でより幅広く考えられるようになったりする。コメントやトラックバック、ソーシャルブックマークの反応からは、自分になかった視点の意見がもらえるし、自分が書いたものに反応して、いろんな方向に議論が広がっていくことだってある。

●北の大地から送る物欲日記『ブログを書くということ』


 ブログを書くことで気づかなかった自分を発見するパターンは、とすれば内発的な要因と外発的な要因に大別できそうだ。ではまず内発バージョンから見て行こう。

■書くことは自分のインナースペースを旅するのと同じだ

 人間がモノを書くときには、まず自分の考えをまとめなきゃならない。そのためには自分の脳内に深く分け入り、ふだん無意識に働いている自分特有の思考パターンや、ものごとに対する認識を顕在化させる必要がある。

 つまり書くことは自分について考え、意識下にある隠れた自分を発掘することでもある。

 たとえば心理療法のひとつに、認知療法という手法がある。認知療法の治療者は、クライアント(患者)が日常生活で「何をどう感じたか?」を文章に書かせることが多い。まあ日記みたいなものだ。

 つまり前述の通り文章を書くときには、自分について深く思考し、自分自身を観察する必要があるからである。

 そして治療者はこの「どう感じたか?」を本人に考えさせることで、クライアントの思考や認識の偏り(認知のゆがみ)に本人が気づく手助けをする。

 仮にクライアントは認知がゆがんでいるせいで、発想が必要以上にネガティブになりがちだったとしよう。そのため気分が落ち込んだり、ものごとに対する正しい判断ができない。人間が思考するための土台(材料)になる認知がゆがんでるんだから、出てくる結論もゆがんで当然だ。

 それならゆがみのパターンに気づかせて、否定的な思考スタイルを自覚的に修正(意識を自分でコントロール)する習慣をつけさせればいいのである。

 つまり文章を書くこと=ブログには、いわば認知療法を代行する機能があるということだ。

 おっと話がそれた。余談はこれくらいにして、本題の1つめをいったんまとめよう。

 【内発型の結論】

 ブログを書くことは、自分に対する内側からの気づきを促す

 さて、お次は外発的な気づきのパターンである。

■人とのコミュニケーションで自分を見つける

 何度かこのブログでも書いているが、たとえば「私・松岡はこう思う」という記事に対してブクマ・コメントをもらう、あるいはトラックバックを受け取るってことは、他人の思考に触れることである。結果、何が起こるか?

「えっ? そんなものの見方があったのか?」

「ああ、自分は考えをうまく言語化できてなかった。オレの言いたいことはまさにそれなんだよ」

 他人の思考に触発され、そのことにより自分ではうまく整理できてなかった自分に自覚的になれる。これが外発型の自己発見システムである。

 【外発型の結論】 

 自分に宛てた他人のブログやコメントを読むことは、自分に対する気づきを促す

 【本日のまとめ】

 ブログを書くことは自分を見つけることであり、また他人に気づきを促すための問いかけにもなる。ブログはいわば知的精神の相互扶助ツールなのである。

【関連エントリ】

『なぜ日本では議論が生まれにくいのか? ──議論とケンカのメンタリティ』

『ファンクラブ志向と議論志向──SNSとブログにみるコミュニケーション・ギャップの原理』

『SBMのブクマ・コメントはまさに集合知だった』

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ソーシャルブックマークで忘れがちな3つのこと

2007-12-10 00:16:19 | メディア論
 インターネット上では時と場合によって、個室にいる感覚と広場にいる感覚の区別がつきにくい。特にソーシャルブックマークを使っている時にそれが顕著だ。その意味でブクマ・コメントを書くときに、うっかりしがちな3つのケースをあげてみよう。

ケース1. そのコメントは、「ブクマした記事の筆者本人も読む」ってことを忘れてる

「あっ、これ本人が読むんだな。やべっ」と思って書き直したりするのがこのパターンだ。不特定多数の第3者にコメントが公開されることは意識してるのに、なぜかブックマークした記事の筆者本人が目にするんだってことが頭から抜けている。

 ブクマ・コメントで記事に批判的なことを書いた人が筆者に直接からまれた時、「ええっ? ブクマくらいでなに怒ってんの? 怒らないでくださいよっ」などと意味不明なことを言ってごまかそうとするのがこのケースだ。

 筆者本人が読んでることをすっかり忘れているために、いざその筆者からいきなり突っ込まれた時に意表を突かれてしどろもどろになるわけである。

ケース2. そのコメントは、「第3者と共有される」ってことを忘れてる

 自分独自の(またはおちゃらけた)ヘンなタグを使い、他人からすごく嫌がられたりするのがこのケースだ。

ケース3. そのコメントは、「世間に公開される」ってことを忘れてる

 これはまんま読んで字の通り。そうと意識せずソーシャルブックマークを自分だけのメモ代わりに使い、「あっ、これ他人も読んでたのか!」と気づいて書き直したりする。もちろんハナから「自分だけのメモ代わりに使うんだ」と意識してる場合は、この限りにあらず。

 こんな感じであげていけば、個室感覚と広場感覚がグレーゾーンなケースはソーシャルブックマーク以外にもいろいろありそうだ。

【関連エントリ】

『インターネットをホントに「個室」だと思い込んだ人騒がせな実例』

『個室文化圏はネット上で成立するか?』

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インターネットをホントに「個室」だと思い込んだ人騒がせな実例

2007-12-09 00:26:12 | メディア論
 玄倉川さんの最近エントリ『ケンタッキーと「ゴキブリの言葉」』でさっき知ったんだけど、インターネットを「自分の領域」だと思ってたんであろう人の事件がすごいタイミングで報道されている。

「日本ケンタッキー・フライド・チキン」(東京都渋谷区)の千葉県内の店舗でアルバイトしていた高校3年の男子生徒(17)が、インターネット上の自分の日記で「店内でゴキブリを揚げた」と虚偽の書き込みを行い、同社に謝罪していたことが6日、分かった。(中略)

 同社によると、男子生徒は5日未明、会員制コミュニティーサイト「mixi」の自身の日記に「(吉野家の豚丼の騒動が)おもしろすぎでしょ。バイトしてればそんなことやっちゃうよねー。ケン○ッキーでゴキブリ揚げてたムービー撮ればよかった」などと書き込んだ。

●Yahoo!ニュース(12/6付)『「ケンタでゴキブリ揚げた」mixiに虚偽書き込み男子が謝罪』(産経新聞)


 この人は2ちゃんねるを騒がせたあげくに、謝罪の言葉がまた絵に描いたように「こんなに騒ぎになると思わなかった」

 私が昨日のエントリ『ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?』で、インターネットは「自分の領域としてふるまったほうが世の中的にはおもしろい」と書いたのは、いうまでもなく実際には人に見られる公的空間だと意識した上でという前提つきだ。

 インターネットの一般化とその個室化は、メリットがある反面、弊害としてこんなノイズも撒き散らす。けど、だからといって「インターネットは害悪だ。廃止しろ」ってことにはならない。

 あえて言おう。

 まさにその同じ昨日、ロングテールを語ったまなめさんのエントリ『それをゴミにしか見えない人、宝の山に見える人』につけた私の要約ブクマ・コメントは次の通りである。

ゴミが増えたと感じたら、それは全体から見れば「宝がそこにある」確率が高まったってことだ、てな話。ふむ。これインターネットの本質だなぁ

『松岡美樹のブックマーク / 2007年12月07日』


【関連エントリ】

『ソーシャルブックマークで忘れがちな3つのこと』

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ソーシャルブックマークは「自分の領域」なのか?

2007-12-08 06:55:02 | メディア論
 ソーシャルブックマーク(SBM)はプライベートな空間か? それともオフィシャルな場なのか? あなたはどう思いますか?

人によってはソーシャルブックマークのコメント欄をオープンな場と考えて、人の目に映ることを考慮したコメントをする人もいるけど(私はこっち)、素直に自分の思いをぶちまける人も多い。

●北の大地から送る物欲日記『ブログとSBMに見るコメント欄の違い』
 (以下、次の引用も同エントリから)


 筆者のhejihoguさんは、ソーシャルブックマークのコメント欄をオープンな場と考える人のようだ。私もそうである。ただ、そうなんだけど、「そうじゃないような感じ」に囚われる瞬間がよくあるのも事実だ。

 ブクマ・コメントを書いてる最中にふと、あたかもそれが自分のプライベートなスペースであるかのような錯覚に陥るのである。

 すると、どうなるか?

よくソーシャルブックマークのコメント欄は酷いという指摘があって、確かに見るに耐えないコメントがついてることが多いんだけど、あれはブックマーカーが思ってることをストレートに書いてるだけなんだと思う。影に隠れて野次を飛ばしてるってんじゃなくて、自分の領域にコメントを書いているから思ってることがストレートに出てるってだけ。


 こうなるのである。

 ソーシャルブックマークは「自分の領域」=マイスペースじゃなく、実は情報共有サービスであること、つまりネット上に公開されているオープンな場であることを忘れがちになる。するとオレ流がより強まるって話だ。

 そしてソーシャルブックマークの場合、かなりネット慣れしているユーザでも上記の点をうっかり忘れる。これはおもしろい現象である。

■「自分の領域」気分になるのはインターネットの個室化が原因だ

 で、この論点を少し拡大して考えてみよう。

 ソーシャルブックマークに限らず、ネット上に文章を公開した時点で「万人がそれを読む可能性がある」ってことなのに、「それに気づいてない」、または「それがイヤだ」(特定の人にしか読んでほしくない=みんなに読まれたくない/リンクされたくない)という人がけっこういる、ってのもおもしろい。

 まあ正確には、たぶん昔はそういうネットユーザはいなかったんだろうけど、そんな人が増えたね、って話だ。たとえば見知らぬ人の足あとを見て気味悪がるmixiユーザとかは、その典型だろう。

 いや別に私はそれがダメだって言ってるんじゃない。インターネットの個室化が進んでるんだから、ごく自然な成り行きなのである。

■オープンな場だけど、個室気分でいたほうが世の中的にはおもしろい

 まとめよう。

 じゃあいったいソーシャルブックマークは自分の領域なのか? それとも公的空間なのか? 

 答えはこうだ。

 ソーシャルブックマークは情報共有サービスである。ゆえに機能としてはオープンな場であるはずだ。だけど実は「自分の領域」だと考えてふるまったほうが、ネット界全体としては公共の利益にかなう。

 どういうことか? 

「ここは公的空間だ」と意識すると、人間の言動はよそ行きになる。周囲に配慮し、自分を出すことを控えたりする。よく言えばマナー意識が高い、悪く言えば没個性な状態だ。

 ところが反対に「自分の領域」と認識してモノを書いたり発言すると、当然その人独自のパーソナリティが出る。「オレはこう思う」と自分ならではの思考を開陳するなど、発言の独自性や個性が強くなる。

 で、こういうパーソナルな情報発信がふえればふえるほど、ネット界全体として見た場合にはメリットが大きい。世界全体が活性化するし、集合知としての有益性も高まる。

 似たようなものがたくさんあるより、ひとつひとつがすごくニッチで光り輝いていたほうが世の中はおもしろい。

 ひとつひとつが他者に影響されず、独立性を保っていたほうが、多様でエキサイティングな世の中になる。

【本日の結論】

 ソーシャルブックマークは機能としてはオープンな場なんだけど、「自分の領域」としてふるまったほうが世の中的にはおもしろい。


【関連エントリ】

『インターネットをホントに「個室」だと思い込んだ人騒がせな実例』

『個室文化圏はネット上で成立するか?』

『みんなの意見(集合知)が正しい場合と、そうでない場合』

『SBMはブログのコメント欄を滅ぼす』

『SBMのブクマ・コメントはまさに集合知だった(前回エントリのまとめ)』

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SBMのブクマ・コメントはまさに集合知だった(前回エントリのまとめ)

2007-12-07 01:03:05 | メディア論
 前回のエントリ『SBMはブログのコメント欄を滅ぼす』では、後半の結論部分をネタにしてしまった。今は反省している。

 で、今回いただいたブクマ・コメントを読むと、私の言いたかったことをまさにそのブクマ・コメントでうまく言語化されている方がたくさんおられた。とても興味深い体験である。こりゃもったいなくて、とうていスルーなんてできるものか。

 なのでそれらのコメントをピックアップし、ここに再掲させていただく(12/6現在)。いずれも私の本意をモロに代弁されているものばかりだ。

【いただいたコメント集】

■「より敷居の低い方へ、人は流れていく。 / 敢えてコメント欄に書いて、空気読めとか挨拶しるとか言われたくないもん」(kana-kana_ceoさん)

■「ブログのコメント欄が元々使いづら過ぎて、SBMが取って代わってるのかも(以下略)」(julajpさん)

■「ネット上でのコミュニケーションは希薄になっても良いんじゃないかなー」(pc_nagomuさん)

■「コメント欄は『自宅訪問』ブックマークは『メール』くらいの感覚」(kurokuragawaさん) 
★このご意見が私の体感にいちばん近く、最も共感できる。

■「コメント欄は直接話しかける感じ。ブクマコメントは本人に聞こえてもかまわない噂話」(takanofumioさん)
★上に同じ。

【本日の結論】 (今度はネタではありません)

 今回のエントリはまるでアンケート調査を取ったみたいで、非常に有意義だった。まさに集合知を見る思いである。

 今回コメントをくださったみなさん。まだ1度もご挨拶してない方がたくさんおられますね。

 次回はそちらのブログのコメント欄に書かせていただくかもしれませんが、そのときはよろしくお願い致します。

 それではまた。

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SBMはブログのコメント欄を滅ぼす

2007-12-06 12:07:03 | メディア論
 ソーシャルブックマーク(SBM)を使っていると、「おもしろいな」と思うエントリを見つけても、そのブログのコメント欄に何か書こうって気にならない。たいていはブックマークしたときに、ブクマコメントを書いて終わりだ。

 わざわざコメント欄に書くのはよほど親しい相手くらい。あるいは荒らし(笑)とか。

 で、いちいち相手ブログのコメント欄へ書きに行かない分、その時間と手間をより大量のブログを読むことに費やすようになる。するとだんだんコミュニケーションはブログを通じてじゃなく、ブクマコメントを使ってのみ行われるようになる。

 だからSBM上ではよくコメントしたりされたりしてる関係なのに、その相手と直接コミュニケーションしたことが全くない、という奇妙なシチュエーションが生まれる。コミュニケーションのよそ行き化である。

 さて、この話の結論はどこへ持って行くのか?

パターン1. インターネットの闇(笑)

 SBMのせいで、人間のコミュニケーション密度がすっかり希薄化している。昔は地域共同体があってうんぬんかんぬん。だから今の犯罪はすべてインターネットのせいだ。

 こういう大マスコミ系のフォーマットは最も避けたいところである。ネットユーザに必ず叩かれる上、手垢がついており新鮮味もない。だから人気を得たいと考える新規ブロガーの方は、空気を読んでやらないのがコツだ。

パターン2. だから世の中は短サイクル化している

 相手のコメント欄に書かない分、より多くのブログを読むことになる。てことは人間が任意の情報に接するサイクルはどんどん短くなり、情報摂取量のトータルは確実に多くなっている。

 ただしこのことから、「だからネットを使ったコミュニケーションがますます刹那的・瞬間的な脊髄反射ばかりになるんだ。リレーションシップの深化がないじゃないか」てな結論へ持って行くと(以下略)。

 そうではなく「SBMのおかげで、人間が情報に接する時間は1日・24時間以上になったね」みたいな話にするのがコツである。これならブログを仕事のヒントにするために読んでるIT系企業の人にもウケるかもしれない。

パターン3. パターン考えんのめんどくさいからもうやめた


 以上、第4回【へっぽこ文章講座】のお時間でした。

 ご清聴ありがとうございます。

【関連エントリ】

『SBMのブクマ・コメントはまさに集合知だった(前回エントリのまとめ) 』
★今回のエントリのまとめ(ネタじゃないホントの結論)です

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