avexの「のまネコ」騒動をめぐる、2ちゃんねるの「一部の人」論争を考えてみた。結論から先に言えば、これって2ちゃんねるに限った話なのか? 実は何にでもいえることなんじゃないの? てなお話である。
今回、問題になっているのは以下の案件だ。
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【検討すべき案件】
2ちゃんねらーは、2ちゃんねる上で良いこと(千羽鶴、電車男など)が起こると2ちゃんねるのみんながやったことだと言う。
だけど一方、2ちゃんねる上で悪いこと(犯罪予告など)が発生すると、それは2ちゃんねるの一部の人がやったことだと主張する。
これはまるで手前勝手な論理じゃないか?
※上記の「案件」の内容は、以下の参考資料をもとに要約した。
【参考資料】
■はてなキーワード『一部の人』
■備忘録ことのはインフォーマル
『都合のよすぎる2ちゃんねるの「部分と全体」』
■むだづかいにっき♂
『のま猫を糾弾する人は「権利」について都合が良すぎるのではないか』
■天才コメンテーター日記『一部の人ですからのガイドライン』
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さて、ここで思考実験である。
【案件】中の「2ちゃんねる」をあなたの出身高校である「猫又高校」に、また「2ちゃんねらー」を、猫又高校に通う「現役高校生」、あるいは「OB」に読み替えてみてほしい。で、次のモデルケースについて考えてみよう。
【良いこと】
あなたが卒業した猫又高校の野球部が、夏の甲子園にみごと出場した。あなたはまるでわがことのように誇らしい。
あなたは高校時代に野球部とは何の関係もなかった。また母校の甲子園出場に何か貢献したわけでもナンでもない。だけど「自分が猫又高校出身である」という一点において、母校の甲子園出場をよろこんでいる。
ここでは甲子園出場という良いことが、猫又高校の関係者全体にかかわるものとして共有され、祝福される。
【悪いこと】
ところが一方、猫又高校の出身者が電車で痴漢を働き、新聞で報道されたとしよう。そのとき世論はこう糾弾してきた。
【中間まとめ】
甲子園出場という良いことは、みんなのものとして共有される。だけど痴漢という悪いことは、あくまで一部の人間がやったこととして認識される。
こんな例はあげればいくらでもある。
次は【案件】中の「2ちゃんねる」を日本という国に、また「2ちゃんねらー」を日本人に読み替えてみよう。
サッカーのワールドカップで、日本代表チームが優勝した。まるで信じられない快挙である。あなたはサッカーをやってるわけじゃないし、もちろん日本代表チームのメンバーでもない。単なる日本人のひとりである。
だけどあなたは日本代表の優勝が、まるで自分のことのように感じられる。日本人のみんながそれを成し遂げたかのように思える。世界に対して誇りたい気持ちでいっぱいだ。
かくてワールドカップでの優勝という良いことは、日本人全体のものとして人々の胸に記録される。
では悪いことのほうはどうか?
たとえば日本人であるあなたが、外国人からこんなふうに言われたらどう感じるだろう?
「はたしてオレは日本人の一員として、未来永劫、ずっと懺悔し続けなきゃいけないのか?」
あなたはそんな大いなる疑問を感じる──。
人間は希望がなければ生きられない。だからネガティブな要素はなるべく隅に追いやり、ポジティブなことがらを生きるためのエネルギーに変えようとする。これは人間の自己保存本能である。
ゆえに良いことは自分もふくめた「みんながやったこと」になる。かたや悪いことは、自分を除く「一部の人」の責任だと認知する。
もともと人間とは、そういうものなのである。
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(追記)冒頭部分に、『※上記の「案件」中の内容は、以下の参考資料をもとに要約した』を付記した(2005,10/16)
今回、問題になっているのは以下の案件だ。
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【検討すべき案件】
2ちゃんねらーは、2ちゃんねる上で良いこと(千羽鶴、電車男など)が起こると2ちゃんねるのみんながやったことだと言う。
だけど一方、2ちゃんねる上で悪いこと(犯罪予告など)が発生すると、それは2ちゃんねるの一部の人がやったことだと主張する。
これはまるで手前勝手な論理じゃないか?
※上記の「案件」の内容は、以下の参考資料をもとに要約した。
【参考資料】
■はてなキーワード『一部の人』
■備忘録ことのはインフォーマル
『都合のよすぎる2ちゃんねるの「部分と全体」』
■むだづかいにっき♂
『のま猫を糾弾する人は「権利」について都合が良すぎるのではないか』
■天才コメンテーター日記『一部の人ですからのガイドライン』
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さて、ここで思考実験である。
【案件】中の「2ちゃんねる」をあなたの出身高校である「猫又高校」に、また「2ちゃんねらー」を、猫又高校に通う「現役高校生」、あるいは「OB」に読み替えてみてほしい。で、次のモデルケースについて考えてみよう。
【良いこと】
あなたが卒業した猫又高校の野球部が、夏の甲子園にみごと出場した。あなたはまるでわがことのように誇らしい。
あなたは高校時代に野球部とは何の関係もなかった。また母校の甲子園出場に何か貢献したわけでもナンでもない。だけど「自分が猫又高校出身である」という一点において、母校の甲子園出場をよろこんでいる。
ここでは甲子園出場という良いことが、猫又高校の関係者全体にかかわるものとして共有され、祝福される。
【悪いこと】
ところが一方、猫又高校の出身者が電車で痴漢を働き、新聞で報道されたとしよう。そのとき世論はこう糾弾してきた。
猫又高校は痴漢予備軍の巣窟だ。過去に何人も痴漢をやったヤツがいるじゃないか。そもそもあそこの出身者にはロクなやつがいない。猫又高校のOBは、今回の痴漢事件を自分のこととして反省しろ。あなたはこう反論するだろう。
チカンを犯したヤツは、あくまで猫又高校OBの「一部」にすぎない。現にオレは痴漢なんて一度もやったことがないぞ。なのに猫又高校OBが、全員、痴漢みたいに言うのはお門ちがいだ。オレを犯罪者といっしょにするなよ。痴漢という悪いことは、猫又高校の関係者全体にかかわるものとして共有されることはない。OBの1人が痴漢を働いたからといって、猫又高校の現役高校生、およびすべてのOBが社会に対して喪にふくし、現役生・OB全員が世の中に謝罪するなんてことはありえない。
【中間まとめ】
甲子園出場という良いことは、みんなのものとして共有される。だけど痴漢という悪いことは、あくまで一部の人間がやったこととして認識される。
こんな例はあげればいくらでもある。
次は【案件】中の「2ちゃんねる」を日本という国に、また「2ちゃんねらー」を日本人に読み替えてみよう。
サッカーのワールドカップで、日本代表チームが優勝した。まるで信じられない快挙である。あなたはサッカーをやってるわけじゃないし、もちろん日本代表チームのメンバーでもない。単なる日本人のひとりである。
だけどあなたは日本代表の優勝が、まるで自分のことのように感じられる。日本人のみんながそれを成し遂げたかのように思える。世界に対して誇りたい気持ちでいっぱいだ。
かくてワールドカップでの優勝という良いことは、日本人全体のものとして人々の胸に記録される。
では悪いことのほうはどうか?
たとえば日本人であるあなたが、外国人からこんなふうに言われたらどう感じるだろう?
日本人はもともと残虐な民族である。彼らは隙あらば軍事力をたくわえ、他国を侵略し、殺戮を行おうとする。それは過去の歴史が証明している。日本は先の戦争で犯したあやまちを反省し、未来永劫、世界に対して懺悔し続けるべきである。まだ20才であるあなたは、「あの戦争」のときには生まれてなかった。だからその戦争は日本人の一部がやったことだとしか思えない。ましてや日本人全体がもともと残虐な民族だなんて認めることはできない。
「はたしてオレは日本人の一員として、未来永劫、ずっと懺悔し続けなきゃいけないのか?」
あなたはそんな大いなる疑問を感じる──。
人間は希望がなければ生きられない。だからネガティブな要素はなるべく隅に追いやり、ポジティブなことがらを生きるためのエネルギーに変えようとする。これは人間の自己保存本能である。
ゆえに良いことは自分もふくめた「みんながやったこと」になる。かたや悪いことは、自分を除く「一部の人」の責任だと認知する。
もともと人間とは、そういうものなのである。
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(追記)冒頭部分に、『※上記の「案件」中の内容は、以下の参考資料をもとに要約した』を付記した(2005,10/16)