すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

オーマイニュースは燃えているか? ~「誰でも参加」のドグマから抜け出せ

2006-09-05 21:28:17 | メディア論
 ひさしぶりにブログ界をのぞいてみると、オーマイニュース日本版をめぐって騒ぎが起きている。9月2日(土)には鳥越俊太郎編集長以下、編集部サイドとブロガーらが討論するシンポジウムも開かれた。そこでの編集部側の発言を拾ってみると、「誰もが参加できる媒体を」という呪縛に囚われているように見える。いわゆる「参加型ジャーナリズム」の限界が、まさにこれだ。

 たとえばシンポジウムの内容をレポートした「ブロガーXオーマイニュース『市民メディアの可能性』」レポート(1)(BigBang)によれば、鳥越さんはこんな発言をしている。

「今の日本の政治は劇場型であり、参加型メディアを作ることは意義があると考えた。参加するというプロセスが大事」
 またオーマイニュース編集次長の平野日出木さんは、「普通の人にはまだブログもハードルが高い」とし、「ブログは基本的にエリートのもの。オーマイはもっと裾野を広げた人たちのもの」という。

 私は1年前にエントリー『質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの?』を書いた。その中で分析した時事通信の湯川鶴章さんと、発想が同じだ。「みんなが参加することに意義がある」という思い込みは、参加型ジャーナリズムを強調する人たち共通のものなんだろうか?

 でもそれってえらく時代遅れだ。私は鳥越さんを尊敬してるのでアレだが、鳥越さんや湯川さんの主張はインターネットがなかった時代の議論なのである。

 既存のマスメディアには庶民が参加できない。だから誰もが執筆・編集できる媒体を立ち上げよう──。

 インターネットがなかった時代に、こう考えるなら理解できる。だけどネットが生まれた時点で、誰もが参加して情報発信する器はすでに用意されているのだ。そもそもインターネットそのものが参加型なんだから。

 あるいは百歩譲って、「スキルのいらないブログが登場した時点で」と言い換えてもいい。言いたいことがある人は、もうブログやSNSに書いているのだ(もしくはこれから書くだろう)。なのにこの上、わざわざ媒体を立ち上げ、市民記者みたいなものを集めてやる意味があるのだろうか?

 これが第一の疑問である。

 ああ、いきなり話が終わっちゃった。これだけじゃナンだから、もうちょっとポジティブなことも書いておこう。

 じゃあネットが普及している今日ただいま、どんな媒体ならあらためて作る意義があるのか? 

 まず徹底的に記事をふるいにかけることだ。誰でも参加できるんじゃなく、「読んでみようか」という気にさせる記事だけが載ってる媒体でなきゃだめなのである。

 この点で私の意見に近いエントリーを2つあげておく。

『オーマイニュースの可能性ほぼ消滅か』(ブログ時評)

『「ブロガー×オーマイニュース~市民メディアの可能性」にいってきた。』(未熟者隊長の四駆連絡帳)

 なにしろブログやSNSは数が膨大だ。だから当たり外れがある。RSSやソーシャルブックマークを頼りに当たりをつけ、でも読んでみたらばつまんなかった。そんな空振りをすることは多い。

 そもそも人間は自分の自由になる時間が限られている。なのにネット上に存在する情報量はふえる一方だ。単位時間当たりに読める記事数は、実質的にどんどん目減りしている。ゆえに読んだらハズレだったなんていうムダは、現代人にとってはつらい。

 ところが、である。オーマイニュースを読んでみると、必ず「なるほど」と納得させられるとすればどうだろう? いつも決まって、「えっ、そんなものの見方があったのか」と唸ってしまうとしたら?

 これなら競合するブログやSNSがどんなに多かろうが、読んでみる気になる。誰でも参加できるんじゃなく、精選するからこそ存在価値が出るのだ。99本のどうでもいい記事を捨て、1本の記事を選ぶことが必要なのである。

 もっと話を具体的にしよう。そもそも人間は、いったいどんな記事なら読んでみる気になるのだろうか?

「ブログ時評」の団藤さんは、エントリー『市民記者サイトは高い敷居を持つべし』の中でこう指摘する。

 市民記者が強みを発揮できるのは「特定のことについて非常に詳しい」からであり、私の言う「知のピーク」をなしている場合に限られる。それ以外の事柄を書いてメディアと競えるはずもないし、ましてや日本語能力が疑わしいライブドアPJなど検証するまでもない(中略)。

「特定のことについて非常に詳しい」ブロガーが、そのツボにはまって書いてくれれば読むに耐える市民記者サイトが出来よう。それには現在の茶飲み話級の話題は捨て、ハードルをぐんと上げねばならない。
 団藤さんは、書き手の知識の質と量を尺度にしている。半分は賛成だ。だけどあえて蛇足を付け加えれば、私は知識よりむしろものの見方を推したい。

 文章力や知識はそんなになくても、視点の鋭さや新しさ、ユニークさがあればそれだけで武器になる。あちこちブログを読んでいて、いちばん感じるのはこれだ。事実に対するものの見方がおもしろかったり、それに基づく分析力があったりすれば、思わず読んでみる気になる。

 もとから知っていなくても、文章を書くにあたって調べればいい。知識に関してはまあ間に合う。だけどセンスのほうは、そんな付け焼刃じゃどうにもならない。

 私は2005年8月7日付のエントリー「ライブドアのPJってマトモな人はいないの?」で、ライブドアPJに批判的な見方をしながらも、その可能性について次のように書いた。これはライブドアPJニュースであろうが、JANJANツカサネット新聞、オーマイニュースであろうが同じことだ。

 せっかく新しいことをやるんだから、大新聞と同じ土俵で、同じフレームワークに乗って活動するんじゃ意味がない。

 たとえばPJが力を発揮するとしたら、それは日常生活に潜む「ちょっとした違和感」や「ちょっとした不安」、「ちょっとした不服」、「ちょっとした輝き」を切り取ってくるときだろう。

 身近な町の話題でもいいし、自分の生活感を通して見える日本の姿でもいい。PJからたくさんの「ちょっとした」が発信されれば、人を動かす点火装置になりそうな気配がする。

「ちょっとした」の意味は、大所高所から俯瞰するマスメディアにはないその人なりの視点、マクロではなく日々の生活に密着したミクロの感覚、読者が「これ、わかるよなあ」と思わず膝を打ってしまうような等身大のセンス、みたいなことだ。

「ニュースの現場で考えること」の高田さんも、エントリー『オーマイニュース、始まる。』で大手メディアとの差別化についてこう書いている。

もう一つは、トップページの左上にある「オーマイ速報」だ。各記事を読んでいると、ソースはほとんど「NHK」「朝日新聞」「読売新聞」である(中略)。おそらく、推測ではあるが、これらの速報記事は、オーマイニュースの在東京本社の編集部員が、本物の新聞やテレビを見ながら、重要だと思った記事を要約して掲載しているのだと思う。

しかし、日本のメディアの構造的欠陥の一つは、ニュースの過半が「東京一極集中型発信」にあることは疑いない(中略)。「東京発」「中央発」のニュースに頼っていては、既存の大手メディアの目線と、なかなか違いは打ち出せないように感じる。
 大手メディアと同じ土俵、同じ切り口、同じ視点じゃダメだってことだ。新しいメディアとしてスタートしたはずなのに、朝日や読売の記事を要約・掲載してどうするのか? 私には意味がよくわからない。「いちおう抑えておかなきゃ」的な感覚はスッパリ切り、もっと独自路線にシフトするべきだろう。

 朝、読、毎に出ているニュースが載ってなくたって関係ない。オーマイニュースの100人の記者が、日々の暮らしの中で見つけた100通りのユニークな視点があればいいのだ。

 もっともこのへんは鳥越さんも近い見方をしている。オーマイニュースがシンポジウムの内容を報じた『鳥越、引退の危機!? ブロガー × オーマイニュース』によれば、鳥越さんはこんなことをいっている。

「たとえば市民記者が病院で点滴がうまく入らず、えらいことになったと。それを記事にして、さらに『私もこういうことがあった』と続けば、点滴問題、日本の医療がいまどうなっているんだということを検証できる。そういう経験を書いてもらい、常勤記者もカバーし、経験から始まったことで社会がちょっとでもいい方向に変わればと思っている」
 掲載する記事を徹底して選ぶ方針に切り替えれば、こういう鳥越さんのものを見る目も生きると思うのだが。

 それにしても参加型ジャーナリズムを唱える人を見ていると、実は内容なんかどうでもよくて、「誰もが参加できることそのもの」に意味を見出してるんじゃないか? と感じることが多い。

 みんなが参加して(手段)、世の中がいいほうに変わる(目的)。あるいは社会の風通しがよくなる(目的)。これが青写真じゃないかと思うのだが、手段が目的化しているような気がするのだ。

 まとめよう。特にオーマイニュースのような市民記者サイトが存在意義をもつためには、逆に記事を精選するべきだ。誰もが参加できる的なユートピアに酔うんじゃなく、質をこそ問うべきである。

 とすれば彼らは自動的に、自己矛盾にぶつかるだろう。質を高め、読者が読もうと思える誌面にすればするほど、みんなが参加できるわけじゃないメディアになるからだ。

 市民記者サイトは「誰もが参加」というドグマから抜け出し、まず矛盾を乗り越える必要がある。でなければ自己満足チックな同人誌で終わってしまうだろう。

【ご参考】

■拙著『ニッポンの挑戦 インターネットの夜明け』(RBB PRESS/オーム社)

※インターネットの歴史を振り返りながら、ブログのようなCGM(Consumer Generated Media)の可能性についても分析している

■過去の関連エントリー

『質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの?』

『参加型ジャーナリズムと「衆愚」のあやうい関係』

【オーマイ騒動を知らない人のためのリンク集】

■コトの経緯に関しては、『オーマイニュースジャパンの「炎上」と「現状」』(ガ島通信)がわかりやすい

■シンポジウムの開催要項

『ブロガー×オーマイのシンポジウムを行います』(ガ島通信)

■騒ぎを加速させたのは、以下のエントリだ。フリーランスのジャーナリストでオーマイニュース編集委員でもある佐々木俊尚さんが、オーマイニュース編集部のスタンスに問題提起をしている

『佐々木俊尚のオーマイニュースへの疑問 (上)』(オーマイニュースブログ~編集局から~)
『佐々木俊尚のオーマイニュースへの疑問 (下)』(同上)
『私がオーマイニュースに批判を書いた理由』(CNET Japan ブログ)

■シンポジウムの内容を知るには、BigBangさんの2本のエントリーがある

「ブロガーXオーマイニュース『市民メディアの可能性』」レポート(1)

「ブロガーXオーマイニュース『市民メディアの可能性』」レポート(2)

 一方、オーマイニュースがレポートした「正式版」はこちら。

『鳥越、引退の危機!? ブロガー × オーマイニュース 』

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