前回は「自分探し」に明け暮れて、人生も脳もおかしくなっちゃう人がこの20年ほどふえている、って話をした。「目標をもつべきじゃない平凡な普通の人たち」なんて挑発的な書き方に、「オレのことかよ」と怒り心頭の人もいるだろう。だがまあ、ちょっと落ち着いてほしい。
物書きなんてのは一種の「作話師」なんだから、そんなやつの言説をまに受けて怒るなんてエネルギーのムダだ。
「松岡ってやつはこう書いてるけど、実は別の意味があるんじゃないか?」
「こいつはわざと煽ってるんじゃないか?」
てなぐあいにメディアリテラシーを働かせてほしい。私は手を変え品を変え、思考実験を仕掛けている。「自分が思ってること」をストレートに書いているとは限らない。なのに書いてあることをまに受けるのはとっても危険だ。何回か前に説明した通りね。
で、書きっ放しじゃナンなので、自分探しから抜け出せない人のために処方箋も書いておこう。もちろん「答え」は自分の頭で考えるものだ。だから今から書くことは何かのヒントになればいい、程度の気持ちで読んでほしい。
結論からいえば老子を読みなさい。ちゃんちゃん。
うむ。これでおしまいにするのもまずいな。もうちっと説明しよう。
たとえば家が魚屋さんをやってるA君がいるとする。自営業だからA君が家業を継いで魚屋さんになるのは規定路線だ。親にとっては「想定内」である。だがまだ20才の彼にはどうしても納得できない。他人に自分の人生を決められるのもイヤだし、そもそも家業に魅力を感じない。
「魚屋なんてダセエ商売なんかやる気ないよ。オレはオレのやりたいことをやる。東京に行ってミュージシャンになるんだ」
ミュージシャン目ざして試行錯誤する過程が、彼にとっての自分探しなわけだ。
こうしてA君は上京し、フリーターをしながらバンドに明け暮れる毎日を送る。だが世の中はなかなかにキビシく、彼のバンドは認められない。自分では最高の曲を作ってるとしか思えないのに、まったく反応がない。そこでA君はこう考える。
「世の中はオレの才能を見分ける目をもってない。悪いのは世の中だ」
かくてA君は華やかなアーチストとして酒池肉林の生活を送る「理想」と、4畳半ひと間で毎日ラーメンをすするちっぽけな自分=「現実」のギャップに、いつも悩まされることになる。
自分には輝くような音楽的才能があるのに、周囲に認めてもらえない。なぜだ? なぜなんだ? 現実の世界で自己実現できない自分。ちっぽけでつまらないオレ。満たされない自分に耐えられなくなっていく。いや、これは本当の自分じゃない。オレは絶対に否定するぞ。
そんな自問自答をくり返すうち、5年もたてばA君は脳も人生もすっかりおかしくなっている。
「もしミュージシャンになれなかったら、オレの人生はゼロだ。まったく意味のないものになる」
こんなふうに視野狭窄に陥って絶望し、自殺してしまう人もいる。冗談じゃなく、そういう人が今の世の中にはたくさんいるんだ。
だが彼が30代の半ばにもなれば、だんだん考えが変わってくる。
魚屋っていったい何者なんだ? それはオレを満たしてくれるのか? まったく考えようとしなかった可能性を考えてみる気になる。
毎朝、早起きして朝日を浴びながらうまい空気を吸い、築地の市場で魚を仕入れる。仕入れはこの商売じゃ生きるか死ぬかの真剣勝負だ。彼は魚の目利きのプロフェッショナルとして、ずらりとならぶ商品を見る。で、「これは」と思ったものを買い付ける。
店頭では毎日、近所のおばちゃんが声をかけてくる。
「Aさん、あんたんとこの魚はどれ買ってもおいしいねえ。あんたにまかせときゃ、安心だわ。毎日ありがとうね」
彼はプロとして認められてる。だから自己実現できている。これって強烈な快感だ。しかも家にはホレた美人の女房がおり、5歳のかわいい娘がまとわりついてくる。目に入れても痛くない愛犬の新太郎もいる。
「こいつらのためにがんばろう。彼らのよろこぶ姿を見るのがなによりの楽しみだ」
オレはなんでミュージシャンになろうなんて考えたんだろう? 結婚もせずに、たったひとりでささくれ立ち、心の空腹をずっと抱えてたなあ。本当にバカだったよ……。
もちろんここにあげた2つのストーリーは、どっちの道が「正しい」なんて性質のもんじゃない。一種のサイコドラマにすぎない。
20代のA君みたいにミュージシャン目ざして活動し、あげくに彼が飢え死にしたって世の中から見れば大いにプラスだ。
「就職=企業に頼るんじゃなく、自分の能力を売り歩く生き方もアリなんだ。今まで自分は就職するのが普通だと思ってたけど、そんな方法も許されるのか」
A君の「死」によって、彼の生き方の思想は次世代に受け継がれる。彼と同じような同士たちの「無数の失敗と死」が澱のように降り積もり、やがては既成概念が崩れていく。新しい生き方が常識になる。社会革命とは、「多くの屍と多大なる失敗」の上にしか成し遂げられない。犠牲が必要なわけだ。
フリーターという社会思想は、必ず多くの犠牲を伴う。だが人生を棒に振るフリーターたちが何代にもわたるうち、10年もたてば就職して企業におんぶに抱っこだった世の中の方がだんだん変わってくる。
たとえA君は自分の人生を思うようにまっとうできなくても、長いスパンで国家単位、あるいは地球規模で見れば彼の死は充分に意味がある。
こんなふうに改革の旗手として敵弾に倒れて死ぬのも、また一興である。だがその気になれば、A君は別の生き方もできる。それが稼業を継ぐ道だ。
ひとつ言えるのは、20才だったA君は「家業を継ぐ」という社会システムに反発していたってことだ。そのため父親に意味のないレジスタンスを試み、ものごとを一面的にしか見られなかった。
彼はとにかく「ぶっ壊したかった」んだ。くだんのほりえもんさんみたいに。
20才当時のA君から見れば、魚屋さんって稼業は実に色あせていた。いったいそんなものになんの価値があるんだ? そんなふうに否定的にしか見られなかった。だが30代半ばのA君には、まったく新しい別の価値を伴って見えるようになっている。
要は「ものの見方」の問題なのだ。「魚屋はダサイ」と直感すれば、そうとしか思えなくなる。だが角度を変えて眺めれば、見えなかったものが見えてくる。
「待てよ。魚屋になると、どんないいことがあるんだろう? ひょっとしたらオレを満たしてくれる何かがあるのかもしれない。それを探してみよう」
こんなふうに視点を変えて考えれば、彼の人生はまったく変わる。「認知が歪んだ人」の目には映らないものがキャッチできる。
練炭を買い込んでるそこのあなた。死ぬのは個人の自由だし、私は別に取り立てて止めようとは思わない。私だって小学3年のときに、あることがきっかけでさんざん人生について考えた。
「自分は何のために生まれてきたんだろう?」
毎日思案し、でも答えが見つからなくて、もう自殺するしかないと思ったことがある。子供だからカッターナイフで腹を切ろうと計画してたよ。そんなもんで死ねるわけないのに。風呂に入りながら、「ああ、明日のこの時間には、おれはもう生きてないんだな」って思ったりした。
でも時間がたてば、そんなもんはただの笑い話だ。だからあなたが「死ぬことしか見えない袋小路」にハマってる状況がとてもよくわかる。「それ」しか見えないんだよね? すごくわかるよ。
でも、もし私が書いた20代のA君のエピソードを読んで何か感じることがあったなら、ちょっとだけ立ち止まって深呼吸してみてもいいんじゃないか?
あなたはきっと、何か偉大なことを成し遂げようとしてたんだろう。とてつもなく高い理想を掲げて。私にはあなたの気持ちが痛いほどよくわかる。そして今はつらいだけの人生だ、と感じてるんだよね?
でも人間の幸せは「世界一になる」ことや、「天才だ」と呼ばれることだけじゃない。かわいい奥さんの顔を毎日見られたり、子供をおんぶするのもちっぽけではあるが幸せの仲間だ。
人はそんな小さな喜びを1つづつ束ね合わせて、「大きな幸せ」にすることだってできるんじゃないか?
練炭に当たればあったまるでしょう。せっかく買ったんなら死ぬ道具にする前に、そいつで心をあっためてみたらどうだろう? で、ちょっと気持ちが落ち着いたら、視点を変えて自分の人生をもう一度よく観察してみようよ。
ほら。
「魚屋ってかっこいいなあ」と思えてきませんか?
【関連エントリ】
『人生をスルーした人々』
『自分探しシンドロームを超えろ』
『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』
物書きなんてのは一種の「作話師」なんだから、そんなやつの言説をまに受けて怒るなんてエネルギーのムダだ。
「松岡ってやつはこう書いてるけど、実は別の意味があるんじゃないか?」
「こいつはわざと煽ってるんじゃないか?」
てなぐあいにメディアリテラシーを働かせてほしい。私は手を変え品を変え、思考実験を仕掛けている。「自分が思ってること」をストレートに書いているとは限らない。なのに書いてあることをまに受けるのはとっても危険だ。何回か前に説明した通りね。
で、書きっ放しじゃナンなので、自分探しから抜け出せない人のために処方箋も書いておこう。もちろん「答え」は自分の頭で考えるものだ。だから今から書くことは何かのヒントになればいい、程度の気持ちで読んでほしい。
結論からいえば老子を読みなさい。ちゃんちゃん。
うむ。これでおしまいにするのもまずいな。もうちっと説明しよう。
たとえば家が魚屋さんをやってるA君がいるとする。自営業だからA君が家業を継いで魚屋さんになるのは規定路線だ。親にとっては「想定内」である。だがまだ20才の彼にはどうしても納得できない。他人に自分の人生を決められるのもイヤだし、そもそも家業に魅力を感じない。
「魚屋なんてダセエ商売なんかやる気ないよ。オレはオレのやりたいことをやる。東京に行ってミュージシャンになるんだ」
ミュージシャン目ざして試行錯誤する過程が、彼にとっての自分探しなわけだ。
こうしてA君は上京し、フリーターをしながらバンドに明け暮れる毎日を送る。だが世の中はなかなかにキビシく、彼のバンドは認められない。自分では最高の曲を作ってるとしか思えないのに、まったく反応がない。そこでA君はこう考える。
「世の中はオレの才能を見分ける目をもってない。悪いのは世の中だ」
かくてA君は華やかなアーチストとして酒池肉林の生活を送る「理想」と、4畳半ひと間で毎日ラーメンをすするちっぽけな自分=「現実」のギャップに、いつも悩まされることになる。
自分には輝くような音楽的才能があるのに、周囲に認めてもらえない。なぜだ? なぜなんだ? 現実の世界で自己実現できない自分。ちっぽけでつまらないオレ。満たされない自分に耐えられなくなっていく。いや、これは本当の自分じゃない。オレは絶対に否定するぞ。
そんな自問自答をくり返すうち、5年もたてばA君は脳も人生もすっかりおかしくなっている。
「もしミュージシャンになれなかったら、オレの人生はゼロだ。まったく意味のないものになる」
こんなふうに視野狭窄に陥って絶望し、自殺してしまう人もいる。冗談じゃなく、そういう人が今の世の中にはたくさんいるんだ。
だが彼が30代の半ばにもなれば、だんだん考えが変わってくる。
魚屋っていったい何者なんだ? それはオレを満たしてくれるのか? まったく考えようとしなかった可能性を考えてみる気になる。
毎朝、早起きして朝日を浴びながらうまい空気を吸い、築地の市場で魚を仕入れる。仕入れはこの商売じゃ生きるか死ぬかの真剣勝負だ。彼は魚の目利きのプロフェッショナルとして、ずらりとならぶ商品を見る。で、「これは」と思ったものを買い付ける。
店頭では毎日、近所のおばちゃんが声をかけてくる。
「Aさん、あんたんとこの魚はどれ買ってもおいしいねえ。あんたにまかせときゃ、安心だわ。毎日ありがとうね」
彼はプロとして認められてる。だから自己実現できている。これって強烈な快感だ。しかも家にはホレた美人の女房がおり、5歳のかわいい娘がまとわりついてくる。目に入れても痛くない愛犬の新太郎もいる。
「こいつらのためにがんばろう。彼らのよろこぶ姿を見るのがなによりの楽しみだ」
オレはなんでミュージシャンになろうなんて考えたんだろう? 結婚もせずに、たったひとりでささくれ立ち、心の空腹をずっと抱えてたなあ。本当にバカだったよ……。
もちろんここにあげた2つのストーリーは、どっちの道が「正しい」なんて性質のもんじゃない。一種のサイコドラマにすぎない。
20代のA君みたいにミュージシャン目ざして活動し、あげくに彼が飢え死にしたって世の中から見れば大いにプラスだ。
「就職=企業に頼るんじゃなく、自分の能力を売り歩く生き方もアリなんだ。今まで自分は就職するのが普通だと思ってたけど、そんな方法も許されるのか」
A君の「死」によって、彼の生き方の思想は次世代に受け継がれる。彼と同じような同士たちの「無数の失敗と死」が澱のように降り積もり、やがては既成概念が崩れていく。新しい生き方が常識になる。社会革命とは、「多くの屍と多大なる失敗」の上にしか成し遂げられない。犠牲が必要なわけだ。
フリーターという社会思想は、必ず多くの犠牲を伴う。だが人生を棒に振るフリーターたちが何代にもわたるうち、10年もたてば就職して企業におんぶに抱っこだった世の中の方がだんだん変わってくる。
たとえA君は自分の人生を思うようにまっとうできなくても、長いスパンで国家単位、あるいは地球規模で見れば彼の死は充分に意味がある。
こんなふうに改革の旗手として敵弾に倒れて死ぬのも、また一興である。だがその気になれば、A君は別の生き方もできる。それが稼業を継ぐ道だ。
ひとつ言えるのは、20才だったA君は「家業を継ぐ」という社会システムに反発していたってことだ。そのため父親に意味のないレジスタンスを試み、ものごとを一面的にしか見られなかった。
彼はとにかく「ぶっ壊したかった」んだ。くだんのほりえもんさんみたいに。
20才当時のA君から見れば、魚屋さんって稼業は実に色あせていた。いったいそんなものになんの価値があるんだ? そんなふうに否定的にしか見られなかった。だが30代半ばのA君には、まったく新しい別の価値を伴って見えるようになっている。
要は「ものの見方」の問題なのだ。「魚屋はダサイ」と直感すれば、そうとしか思えなくなる。だが角度を変えて眺めれば、見えなかったものが見えてくる。
「待てよ。魚屋になると、どんないいことがあるんだろう? ひょっとしたらオレを満たしてくれる何かがあるのかもしれない。それを探してみよう」
こんなふうに視点を変えて考えれば、彼の人生はまったく変わる。「認知が歪んだ人」の目には映らないものがキャッチできる。
練炭を買い込んでるそこのあなた。死ぬのは個人の自由だし、私は別に取り立てて止めようとは思わない。私だって小学3年のときに、あることがきっかけでさんざん人生について考えた。
「自分は何のために生まれてきたんだろう?」
毎日思案し、でも答えが見つからなくて、もう自殺するしかないと思ったことがある。子供だからカッターナイフで腹を切ろうと計画してたよ。そんなもんで死ねるわけないのに。風呂に入りながら、「ああ、明日のこの時間には、おれはもう生きてないんだな」って思ったりした。
でも時間がたてば、そんなもんはただの笑い話だ。だからあなたが「死ぬことしか見えない袋小路」にハマってる状況がとてもよくわかる。「それ」しか見えないんだよね? すごくわかるよ。
でも、もし私が書いた20代のA君のエピソードを読んで何か感じることがあったなら、ちょっとだけ立ち止まって深呼吸してみてもいいんじゃないか?
あなたはきっと、何か偉大なことを成し遂げようとしてたんだろう。とてつもなく高い理想を掲げて。私にはあなたの気持ちが痛いほどよくわかる。そして今はつらいだけの人生だ、と感じてるんだよね?
でも人間の幸せは「世界一になる」ことや、「天才だ」と呼ばれることだけじゃない。かわいい奥さんの顔を毎日見られたり、子供をおんぶするのもちっぽけではあるが幸せの仲間だ。
人はそんな小さな喜びを1つづつ束ね合わせて、「大きな幸せ」にすることだってできるんじゃないか?
練炭に当たればあったまるでしょう。せっかく買ったんなら死ぬ道具にする前に、そいつで心をあっためてみたらどうだろう? で、ちょっと気持ちが落ち着いたら、視点を変えて自分の人生をもう一度よく観察してみようよ。
ほら。
「魚屋ってかっこいいなあ」と思えてきませんか?
【関連エントリ】
『人生をスルーした人々』
『自分探しシンドロームを超えろ』
『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』
ブログの方に、コメントとトラックバック頂いて
感謝しております。こちらこそ、今後ともよろしく
お願いいたします。全国区で幅広く活躍されている
お方のようで、尊敬いたします。僕なんか、今後は
どうなっていくか、皆目見当もつきませんので・・・。
で、拝見しましたが、深いですね。
ただ、人生にこうという正解はないし、いつどうなるか分からないものでもあると思うので、自分にも他にも、幅を持って優しく見なければとは思っています。
いろいろ教えて頂きつつ、お話したいですね。
浅利さんのブログを拝見し、
マイノリティや引きこもりの問題に
ご関心がおありだと知り、とても共感しました。
私も似たようなものですから(笑)
同時に浅利さんのお写真や文章に触れて
ああ、この人は、弱い人の気持ちが
わかる方なんだろうな、とも感じました。
私は文章の中では
意図的にキツイ表現で書いていますが、
実物は正反対なんです。
私も経験がありますから
苦しんでいる人の役に立てたらと
精神医学系の掲示板に常駐したりして、
ウツの人にレスしたりしています。
(自分で言うことじゃないですね、これ(^^;
それはともかく
今後ともよろしくお願いしますね。ぜひぜひ。
こちらにもレスいただいていたんですね。
気づきませんでした(^^; すみません。
うちにお見えになってる方から
貴ブログをご紹介いただいたのがきっかけで、
毎日、拝読しております。
いろいろと教えていただけたらうれしいな、
と厚かましくも思っております。
今後ともよろしくお願い致します。
「仕事での自己実現」と「消費での自己実現」 しかないという思い込みをやめよ
将来の夢を見ることの大切さを語る人は多いけど、挫折と断念を乗り越える方法を知る人は少ないですから。
作ってくれたのでとても分かりやすく面白く
読めました。
私の敬愛するみうらじゅん氏も、
これからは「自分無くしがマイブーム」って
言ってました。私も昔はAさんのようなところが
無きにしもあらず・・何処かに何かに反発して
色々していましたが、自分無くしというのか、
色々な括りや拘りや囚われを外したら、すごく
楽チンになりました。人間関係もグングン広がって
ゆきます。そういうのは、でも初めからでは
分からない、あの頃あっての今の自分だな、と
思います。
おかえりさんです。
仕事と消費の自己実現ですか。なるほど。
さっき宮台さんのブログ探してみてきました。
なんか私と似たようなこと書いてるなあw
そうですね。仕事と消費以外にも
自己実現の方法はいろいろありますよね。
私が書いたみたいに、愛犬で自己実現するとか、
家族とのふれあいで自己実現したり。
あるいは奥さんとのセックスで、
「いかにおたがいが逝き合うか?」で自己実現したりw
今日はちょっと角度を変えてみよう、とか
いろいろ策を練る。
で、相手が逝ってくれると強い達成感を得る、とかね。
あー、いいなあこの生活。
自分で書いててうらやましくなってきちゃった(^^;
ではまたの日を。
>ルミルミさん
あっ、ルミルミさんだー。
こんにちわ。
あっちの方からの書き込みはあなたが第1号です!
(ほかの人がハンドル変えてなければ)
特別記念賞として、
JTBで行く「パリ・ローマ7日間/愛の1ウイーク」が
2人1組で当たりました。私と行きましょう(大嘘
ほー、みうらじゅんさん、
「自分無くし」って言ってるんだ?
けっこうみんな同じこと考えてるんだな。
ルミルミさんのおっしゃる通りですね。
人間の理想ってある意味、それに囚われてる状態、
理想=「囚われ」だともいえます。
なので理想を持つのはいいけど
それに過度にこだわりすぎたり、
「理想を実現できなきゃ、今まで生きてきた意味がない」
みたいにオール・オア・ナッシング思考にハマったり
しないように気をつけなきゃ。
「囚われ」と呼べるほどには理想に依存せず、
でも適度に理想はもっておく。
そんな思考の技術って、
自殺せずに生き残るためのコツかもしれません。
ぜひまた遊びに来て、
書き込みしてってくださいね♪
私も「自分なりの幸せ」というのは考えて生活させていただいております。
かのほりえもんさんもそういう風にお話されているようですし。
http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-050403-0015.html
私は趣味で作っている時に友人からこういわれます。「徹夜してでもがんばれ」と。
しかし、その友人は会社の仕事をして倒れて入院しました。
私はこうなるのを避けたいと思ってやっております。
http://pcweb.mycom.co.jp/ad/2004/itengineer/index06.html
そして、ここのグラフをご覧下さい。
正社員比率は急激に減っています。
この文章の中で「即戦力を必要とする」とありますが、長期的に見えればおかしなこともありまして・・・。
たとえば新入社員なんかはどうするのですかね?
それは「正社員でがんばれ」、ですか?
・・・正社員が雇われる比率が減っていて「正社員でがんばれ」?
「「答え」を振りまいた~」にもコメント書かせていただきました。
派遣社員の話になってますが、私が文中で「フリーター」と書いた意味は派遣社員とはニュアンスがちがうんですが、それはさておき。
リンク先、拝見しました。ちょっち疑問があるのですが… 以下、リンク先の引用です。
「正社員の場合は会社を選んで入社するわけだから、職種の選択は基本的にできない。(中略)派遣社員の場合は職種の選択権が基本的に保障されている」
私は派遣業界って知らないんでアレですが…。これって実はタテマエで、派遣社員だって実質的には「いやだ」なんて言えない、ってことはないんですかね?
たとえばフリーランスの仕事は何でもそうですが、たしかに原理としては仕事を選ぶことができます。でもいったん断ると、もうそのクライアントからは2度と発注がこなかったりするから、結局は断れない、みたいなことってありますよね。それとはちがうのかなあ、と思いました。
しかし派遣社員て、こんなに増えてるんだ…
現状、建前が先行していますが、「技術職アルバイト=派遣」です。
正社員のような雇用保険、年金とかを別途払いこんでっくれる、というのは一切ありません。
そういう意味でアルバイトなのです。
・・・正社員との違いは、契約のほかにはそこしかないのに・・・。
一度契約締結してしまったら、
途中で抜け出すというのはありえないです。
「いやだ」とはやはりいえません。
逆に経験が無ければクライアントさんがいい、悪いを選んでくるというのが多く、面談で断られるのがしょっちゅうです。
私も今の仕事が決まるまで、面談1週間ちょっとで4回ほど行いました。
フリーランスのお仕事でしたら、「この人にさせたい」という仕事がくるだけ結果がよく、派遣では普通はそんなことは無いです。契約切れれば「はいそれまでよ」、という。
その証左に、「もう一度きてくれ」なんてきいたことがございません。仕事があるときにだけ・・・ということのようです。
増えてますねぇ。正社員さんが下がる一方ですよw
ではまた~。