何でもない日々

優しさの素は幸せ
幸せの素は楽しい
楽しく生きる人は優しい

平和のイマージュ

2021-07-09 15:07:45 | 詩はあいまいな哲学
形成された社会は、彼らが恣意的に生き続けるならば
自分の気に入らないものだけを悪と呼び続けるならば
それぞれ自分に善いと思われる方法によって準備され構成される。

Mr.Children「himawari」Music Video

デヴィッド・ヒュームにまで遡ろう。
彼はカントの「独断の夢を覚ました」という栄誉を得ている。

ある球が他の球と衝突すると、他の球が動くだろうと期待するが、
それはただ、そういう結果を見てきたからに過ぎない。
純粋力学は、経験する前に完全に知られた時間形式を想定している。
我々の信頼は、この経験という迷信から出てきている。

しかし、この経験の総和はその球には何のかかわりもない。
迷信は球の中にはなく、転がり繰り返される力も受けることなく、
我々の信頼はそれがどんなに強くても
可能性や不可能性についてまだ何も告げてはいなく、
未来を保証しないということだ。

左目の見ている映像を重ねる形式は概念として同一だが、
関係性に関わる必然の方法は決して見つからない。
ロゴスでは定義できない二点の空間の関係がなんであるか。

右目の空間は関係の中にしかないと理解するならば、空間は存在せず、
内容は空間と区別されるとしたら、継起或いは継続の展開に於いて
正義や平和にどう役立つのであろうか。

何より先頭を行くのは自然である。
内容の目的より前に、理性の統合、意味の調和が存在していて、
生身の誕生と成長の計画を持たないというのではない。

主題としているのは自分の知らない生身の観念の出現、
それは美であり実行行為そのものであって、
ダンスせずにダンスを考案することは出来ないし、
歌わずに歌を追求することも出来ないし、
話す前に話すことも出来ない。

体の形に寄り添いつつ、
常に証明なしに正しいという意味を持つこと。
それが理性以上の理性であると期待される自然の事実である。

この探索に於いて観念を掴み
克服不可能な困難が後に残されても
本当の話し方も身ぶりも、もはや思考に協力しなくなって、
平和や正義の目的を知る事は目的を実現してからのことだ。

2020-08-30 19:42:25に加筆
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