感覚による認識の中にある予想
風景は眼前に姿を現し、それは僕らの手ではどう変えようもない。
風景の印象が心に押され、無いものが見えるような人は基地外だけだ。
けれども芸術家は物に勝手な想像を知覚に織り込む。
錯覚には理性が働いていることもあれば、
血肉としていることもある。
あの水平線を僕は遠いとは思わない。
あの水平線が遠いと判断している証拠だが、
この距離という額縁がなかったら、
薄明りのようなものが目に映るだけだろう。
水平線の遠さというのは物ではなく、僕との判断された関係だ。
子宮の中で胎動する小さな命の息吹を感じた時、
出産ではまず、子供の鼓動(心音)が早まって、
後に私の心音が高まっていった。
若い命は栄養を沢山摂ることと同じくらい
よく噛んで消化することが大事。そして読書も同じ。
命を削ってでも、感覚が優位であるうちに人間味を持てるように。
人間味は結局若い頃の読書や経験や出会いで血肉にしてきたもの。
向上心は萎え、人への興味も失い、分別がつく大人になってから
本を読んでも映画を観ても
体重が増減しても期待値の血肉になることは決してない。
言葉や知識が増すだけ。
期待とは他の困難な運動を麻痺させ、
意外なものと同様魂の根源まで震わせる。
三浦大知 (Daichi Miura) / Cry & Fight -Dance Edit Video-
万人に共通する内省によって見世物の中に入り込まぬようにと
観客然としての恐怖心と哀れみの調節が舞台から遠ざける。
彼にとって彼自身が観客の観客であって、理知の動きは
やがて一種のうねりとなって彼を意識の浜辺へと連れ戻す。
対立関係と相関関係には近しい規則がある。
外へ向かう喜びは、やがで親しい内面の喜びへと押し寄せる。
2021-02-22 11:33:09の再編