生きるとは考え続けるに同じではないか。
イデアは我々の直ぐの眼前にあると語られた。
この無期限な流れの中に
物事の姿を露わ占める限定者のイデアがなかったならば
世が理解されないというだけではなく
世界はその姿を現すこともなく、存在さえしないだろう。
世が理解されないというだけではなく
世界はその姿を現すこともなく、存在さえしないだろう。
我々は「動」を「同」「尺度」を持って考えられた一つの全体として
受け取り、物の側から得られ教われないでいる原型ではなく
「精神の側から考えられた原型」として受け取っている。
運動は変化そのもので
プラトンの中で変身した運動否定論のゼノン同様
ヘラクレイトスもプラトンに於いて変化の状況そのものの中で
「二重の否定」により不動なものが充分明らかになる。
イデアを捉えソクラテス的な勇気を持って誠実に考えられ
プラトンに反対する敵手が出来る限り善美な仕方で舵をとり
不変の法則に従って運を試し、委ねながら善を探すならば
ヘラクレイトスとゼノンの二人が精神を救うのに必要だった。
賢者とは、自身の影に至るまで様々な影を救う人であり、
プラトンの目的には我々に「知識を与える事は入っていない」
権力より遥かに尊い別な救いをめがけて注意するだけで充分だった。
正しい人間の何処か外側に、もっと完全な人間
の中に正義を求めたりしている限りは理解され難い。
イデアが経験の横糸そのものを形作っているとするなら
野心家は勢力を振るうことを選び、博打者は賭けをすることを選び
欺瞞な人は他を軽蔑することを選びながら避けられるつもりでもいる。
運動は物事の中には存在せずその選択が良くも悪くも
選択した運命を肩に荷いながら
傲慢な人が愚かであったり、嫉妬深い人が裏切られたり
自惚れた人が屈辱を味わったりしてを不運であったとか
冷遇された魂も再び「新しくあろう」自身に望むべきで
いつしか忘却の河により思慮の光の内在説を乗り越えてゆく。
好き勝手に本の内容を編集して、自分でも解ったような判らないような。
哲学書は小難しい表現ばかりで、最初から最後まで根気よく
ちゃんと読破したことはあまりない。
パラパラ~と近い内容を前後して飛ばし気味に読んで
自分で合点を見つけてみるのも面白いです。
個人的な合点させ動画も、同地とそんなに関係なくとも(笑)
何らかの受動的視覚から能動的思慮の光になれますやも。
[Highlight Concert] POTATO l ที่เดิมม, ไม่ให้เธอไป, รักเธอไปทุกวัน
2023-09-04 21:50:35の訂正と再編
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