気がつけば、11月も中旬。めっきり秋らしくなってきました。過日、恒例の『正倉院展』に行ってきました。今年は家人の息子と3人で平日に代休もらっていきました。娘も少し前にいっており、わが家4人が全員が見に行った、という変?な家族です。休日にいくよりは平日はまし、といっても、11時に着いたら60分待ちとなっていました。でも、3時ぐらいに前を通ったら、すぐには入れるようでしたので、平日の3時頃がオススメの時間帯ですね。今年は、『但馬国正税帳』『出雲国計会帳』『下総国戸籍』などが出ていました。そのあと、東大寺の東大寺ミュージアムで三月堂の不空羂索観音、初めて、冠や光背のない姿を見て帰りました。間近でみるこの観音さん、たしかに立派、天平文化の華ですねえ。
そんなことで、今回はモーツァルトのピアノ協奏曲であります。3.モーツァルトの音楽、それほど毎日聴いているわけでもなく、思いだしたように聴くくらいが最近の傾向なんですが、そんな風にして聴いたら、いつもやっぱりモーツァルトはいいなあと、どんな曲を聴いても思ってしまいます。今回も、何の拍子にか、モーツァルトのピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595を聴きました。秋の風が身にしみてくる昨今、この曲の寂寥感で心が一杯になったわけであります。ああ、なんて人生は無情なんだろう。なんともわけのない物悲しさとは…。というようなことをしばし頭の中でめぐらしてしまったのであります。秋ですねえ。とほほ。
この曲、数多くの名盤があります。バレンボイム、カサドシュ、内田光子、バックハウス、ハスキル…、などなど。その中で1番好んで聴くのは、サー・クリフォード・カーゾンによる演奏です。カーゾンはこの曲、ジョージ・セルとベンジャミン・ブリテンとのふたつの演奏があります。セルと演奏は、いまだ聴いたことがないのです…。それでブリテンとの録音。イギリス室内管弦楽団。1970年9月の録音。カーゾンの録音嫌いは有名ですが、この演奏もカーゾンの許可が得られず、1982年にカーゾンの逝去のときに追悼盤として発売されたものです。
しかし、カーゾンのピアノはいいですねえ。この演奏のどこが気に入らなかったのか、と思ってしまうピアノです。まず、ピアノの音が驚くほどきれいで純度が高いです。澄み切った秋の空のような、とでもいうのでしょうか。それほどの主張や作為を感じるピアノではないですが、聴き入るうちにこれぞこの曲の理想的な表現であり表情だ、と自然に思ってしまうのです。加えて、それと同じぐらいいいのが、ブリテンの指揮です。これも大がかりの仕掛けや強い思いがあるわけでもないし、オケは自然に演奏しているのですが、これまた純度がたかく、ぐうの音もでないほどの美しい演奏になっています。よくよく考えてみると、ピアノとオケの競い合いと言えるでしょうか。第1楽章、まず弦が織りなす音楽の彩に聴き惚れる。そんな中カーゾンのピアノが登場する。混じりっ気のない音と、その余韻が美しい。この音がこの曲の特徴を際立たせています。イギリス室内管は、優れたオケですよねえ。特に木管などは優しい響で、これがまたこの曲の美しさを引き立てています。第2楽章、この演奏の中で最高の聴かせどころ。ピアノの繊細さはこれ以上ないほど。少し触れると崩れ落ちそう。これにカーゾンのオケが優しく包むよう。そして、ピアノは曲が進むにつれてその純度の高さには驚かされますねえ。そして第3楽章、ここまで聴いて、やっぱりこの演奏はいいねえと思って、この第3楽章を聴くと、もう満足以外の何物でもなく、この演奏が残されたことを大袈裟でなく神に感謝したいと思うのです。この曲を締めるに相応しく、オケは限りなく美しく、ピアノも理想的な表情。いいですねえ、ほんと。この曲については、諦観とかいろんな形容がなされてきました。しかし、この演奏はそんな形容を超越し、ある種、絶対的な音楽としての美しさが溢れているように思います。少々褒めすきでしょうか…。
このCDを買ったのは、もう25年ほど前にもなるでしょうか。3500円しました。当時はオビが着いているのではなく、ケースの上にシールが貼ってありました。それを剥がすのは惜しいと、今でも付けています。このCDは、ほんといいですねえ。
(LONDON F35L-50268 1986年)
そんなことで、今回はモーツァルトのピアノ協奏曲であります。3.モーツァルトの音楽、それほど毎日聴いているわけでもなく、思いだしたように聴くくらいが最近の傾向なんですが、そんな風にして聴いたら、いつもやっぱりモーツァルトはいいなあと、どんな曲を聴いても思ってしまいます。今回も、何の拍子にか、モーツァルトのピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595を聴きました。秋の風が身にしみてくる昨今、この曲の寂寥感で心が一杯になったわけであります。ああ、なんて人生は無情なんだろう。なんともわけのない物悲しさとは…。というようなことをしばし頭の中でめぐらしてしまったのであります。秋ですねえ。とほほ。
この曲、数多くの名盤があります。バレンボイム、カサドシュ、内田光子、バックハウス、ハスキル…、などなど。その中で1番好んで聴くのは、サー・クリフォード・カーゾンによる演奏です。カーゾンはこの曲、ジョージ・セルとベンジャミン・ブリテンとのふたつの演奏があります。セルと演奏は、いまだ聴いたことがないのです…。それでブリテンとの録音。イギリス室内管弦楽団。1970年9月の録音。カーゾンの録音嫌いは有名ですが、この演奏もカーゾンの許可が得られず、1982年にカーゾンの逝去のときに追悼盤として発売されたものです。
しかし、カーゾンのピアノはいいですねえ。この演奏のどこが気に入らなかったのか、と思ってしまうピアノです。まず、ピアノの音が驚くほどきれいで純度が高いです。澄み切った秋の空のような、とでもいうのでしょうか。それほどの主張や作為を感じるピアノではないですが、聴き入るうちにこれぞこの曲の理想的な表現であり表情だ、と自然に思ってしまうのです。加えて、それと同じぐらいいいのが、ブリテンの指揮です。これも大がかりの仕掛けや強い思いがあるわけでもないし、オケは自然に演奏しているのですが、これまた純度がたかく、ぐうの音もでないほどの美しい演奏になっています。よくよく考えてみると、ピアノとオケの競い合いと言えるでしょうか。第1楽章、まず弦が織りなす音楽の彩に聴き惚れる。そんな中カーゾンのピアノが登場する。混じりっ気のない音と、その余韻が美しい。この音がこの曲の特徴を際立たせています。イギリス室内管は、優れたオケですよねえ。特に木管などは優しい響で、これがまたこの曲の美しさを引き立てています。第2楽章、この演奏の中で最高の聴かせどころ。ピアノの繊細さはこれ以上ないほど。少し触れると崩れ落ちそう。これにカーゾンのオケが優しく包むよう。そして、ピアノは曲が進むにつれてその純度の高さには驚かされますねえ。そして第3楽章、ここまで聴いて、やっぱりこの演奏はいいねえと思って、この第3楽章を聴くと、もう満足以外の何物でもなく、この演奏が残されたことを大袈裟でなく神に感謝したいと思うのです。この曲を締めるに相応しく、オケは限りなく美しく、ピアノも理想的な表情。いいですねえ、ほんと。この曲については、諦観とかいろんな形容がなされてきました。しかし、この演奏はそんな形容を超越し、ある種、絶対的な音楽としての美しさが溢れているように思います。少々褒めすきでしょうか…。
このCDを買ったのは、もう25年ほど前にもなるでしょうか。3500円しました。当時はオビが着いているのではなく、ケースの上にシールが貼ってありました。それを剥がすのは惜しいと、今でも付けています。このCDは、ほんといいですねえ。
(LONDON F35L-50268 1986年)
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