10年、どんな日々でしたか、島岡美延です。
テレビで様々な「10年間」を知り、その過酷さにあらためて言葉を失います。
東日本大震災が起きた2011年3月11日、全国的に寒さが戻った金曜日、午後のバレエの真っ最中で、みんな床に座りこみました。
街の信号が消えていて、自宅の停電も覚悟しましたが、その夜遅くに電気がつき、お風呂に入ることも出来ました。
テレビに映し出された津波の映像…。
翌日には福島第一原発の異常を告げる映像…。
直ちに避難と命じられたのが、「百数十万人の川崎市民全員」なら、どんな10年だったのか。
故郷から遠ざけられた人々は、10年後に“戻れていない”と、想像したでしょうか。
定点観測のごとく、取材に答え続けている人たちには、本当に頭が下がります。
戦争体験を70年以上たって、ようやく語り始めた人も。
津波は一瞬にして日常を奪い、原発は10年、日常を奪い続けている現実。
被災地でサッカー教室に参加した子どもがJリーガーになった年月。
私は何をしてきたのか、考えたいです。
テレビで様々な「10年間」を知り、その過酷さにあらためて言葉を失います。
東日本大震災が起きた2011年3月11日、全国的に寒さが戻った金曜日、午後のバレエの真っ最中で、みんな床に座りこみました。
街の信号が消えていて、自宅の停電も覚悟しましたが、その夜遅くに電気がつき、お風呂に入ることも出来ました。
テレビに映し出された津波の映像…。
翌日には福島第一原発の異常を告げる映像…。
直ちに避難と命じられたのが、「百数十万人の川崎市民全員」なら、どんな10年だったのか。
故郷から遠ざけられた人々は、10年後に“戻れていない”と、想像したでしょうか。
定点観測のごとく、取材に答え続けている人たちには、本当に頭が下がります。
戦争体験を70年以上たって、ようやく語り始めた人も。
津波は一瞬にして日常を奪い、原発は10年、日常を奪い続けている現実。
被災地でサッカー教室に参加した子どもがJリーガーになった年月。
私は何をしてきたのか、考えたいです。
とにかく職場の皆さんのことが心配で川崎に帰ろうとしましたが、どうにもならず、ようやくつながった電話で同僚に後を託しました。
その日から動悸が続き、新職場でも体調がおかしくなるという日々が・・・そこから5年で早期退職をするキッカケにもなりました。
あの日からもう10年か、まだ10年か、人によって感じ方も違うでしょうが、あの日は自分の人生にとっても大きな転換点になった一日として、忘れられません。
「あの日」が個人的な意味を持つことになったのですね。
私はテレビCMが消えた日々に、もう「原発事故前」に戻ることはないんだ、と思っていたのに、あっという間に再稼働へ、って何なのだろうと考える10年です。