しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

かくて天皇は無罪になった

2024年12月28日 | マッカーサーの日本

御前会議で終戦を決意表明した天皇は、自己の戦争責任も覚悟していた。
天皇はその身分を戦勝国に託した。
戦勝国にはさまざまな意見があったが、
占領軍は統治上、天皇制の継続を望んだ。

 

・・・

「文藝春秋にみる昭和史」  文藝春秋編  文藝春秋 1988年発行

昭和23年
かくて天皇は無罪になった

 

田中隆吉陸軍少将

京裁判における当初の最大の焦点は、天皇に戦争責任ありや否やであった。
ソ連、フランス、オーストラリヤ、オランダなどの諸国は天皇有罪を主張していた。
結果は天皇は訴追されることなく無罪とされた。
当時、陸軍少将、兵務局長として戦犯になってもおかしくない身でありながら、
検事側証人として法廷で、つぎつぎに陸軍を誹謗する爆弾発言をなした人が明かすその内幕。
しかし売国奴、卑劣漢としていまなお旧陸軍軍人のなかにはこの人を許していないものが多い。

 

・・・

 

それは昭和21年の2月初旬のことであったと思う。 
それが何日であったかはっきりしないが、私にはそのときの情景をいまでもはっきり想い出すことができる。
「自分の訊問に対して真実を述べないと、巣鴨に送って、 絞首刑にする」
明治ビルにある極東国際軍事裁判の検察団事務所に出頭した私にむかって、アメリカのヘルム検事は開口一番こう言って脅した。

ウェッブ裁判長の母国オーストラリヤをはじめ、ソ連、オランダ等は、天皇の有罪を主張していたのである。
「もし天皇が有罪になられたら、日本は亡国となる。日本は民の国であり、天皇の国である。即ち君民一体の国である」
これが私の日本に対する信念であった。
建国以来、日本人はこの尊厳無比の国体を護持するために、多数の日本人の鮮血を流してきた。

私は死を賭し 天皇を無罪にするため、軍部の行動について、知る限りの真実を証言しようと決心したのである。
マッカーサー元帥と天皇陛下との会見の模様は、私が松平康昌式部長官から直接きいたところによれば、次の如くであった。
その日、天皇は第一相互ビルの総司令部にモーニング姿で訪問されたが、マ元帥は出迎えなかった。 
天皇陛下がマ元帥に会見を申しこまれた時、マ元帥は来訪されてもかまわないが、出迎えも送りもしないとの返事であった。
天皇陛下がマ元帥の室に入ると、元帥は軍服姿で傲慢な態度で相対した。

面会と同時に切々たる御言葉で、前述の如く、
「ポツダム宣言によると、日本人は戦犯として裁判されるとのことであるが、
彼らはことごとく自分の命令で戦争に従事した者であるから、この人達を釈放して自分を処刑してもらいたい」
と仰せられた。
この神の如き態度に、マ元帥は感激した。 
そして、それまで、天皇を「ユー」と呼んでいたが、直ちに「ユアー・ マジェスティ」(陛下)と改めて尊敬をこめて呼んだ。  
さらに、会見の終了した時には、天皇陛下を玄関に御見送りしたとのことである。


かくして、マ元帥はキーナン首席検事に天皇を出廷させるなと指示したのであった。
もしこの指示がなかったなら、ウェッブ裁判長は有罪論者であったのだから、恐らく天皇陛下は裁判に付せられ有罪となられたであろう。
まことに、マ元帥との会見においての神の如き天皇陛下の態度が、天皇陛下の無罪となられた最大の理由であった。 
天皇を無罪にするために私は、私の恩人板垣大将、また知人であり先輩である土肥原大将等に対して不利な証言も行った。
日本側の弁護人は、私の証言の価値を減殺しようと、あらゆる妨害を行ったが無駄であった。
私の極力攻撃した人は、大東亜戦争の前後にわたり、ライバルとして相争った軍務局長、武藤章氏であった。
その理由は、大東亜戦争の開始には、東條首相より武藤の方が 積極的であった事を、私は知っていたからである。

私が弁護側にたって弁護した人は、 東條陸相の次官として、ほとんど権力のなかった木村大将と、
武藤軍務局長のために陸軍大臣の職を無理に去らしめられた、私の上官、畑元帥、
および、東條内閣打倒のために共に行動した東郷外相、
私と親しく、大東亜戦争に反対であった梅津大将であった。

天皇有罪の最大の危機は、昭和22年12月31日、大晦日に起った。
それは東條被告に対する訊問中のことであった。
木戸被告の弁護人ローガン氏が、東條被告にたずねた。
「天皇が平和を御希望しているのに反して、木戸は行動したり進言したことがあるか」
東條被告は答えた。
「そういうことはない。
日本国の臣民が陛下の御意思に反して、あれこれすることはあり得ない。
いわんや日本の文官においておや」

この東條被告の答えは、換言すれば、すべての日本の行動は、天皇の御意思にもとづいて行われたことを示すものである。
来日中の外国新聞記者は即刻打電したのであった。 
「貴方はすぐに東條に面会して、この答弁を取り消してもら いたい」
そこで私は二日に裁判所におもむき、東條被告に面会し その旨を申し入れた。

2月7日、東條被告の訊問を終了すると、キーナン検事はマッカーサー元帥に、裁判の状況を報告した。
すると、元帥は非常に喜んで述べた。
「米国の占領政策は天皇を中心として進めることにする」 そして、この日天皇の無罪を最終的に決定したのである。


昭和22年10月、キーナン首席検事が日本における平和主義者として、
若槻礼次郎、米内光政、岡田啓介、宇垣一成の四氏を小石川のキーナン私邸に招待したことがある。 
その席上、キーナン検事は天皇無罪決定を述べた。
これをきいて若槻氏は、
「自分は今年83歳になるが、天皇陛下が無罪になられたので何時死んでも良い」
といって落涙した。 
岡田、宇垣の両氏も同じく泣いてこの事を喜んだのである。

昭和23年1月15日、田島侍従長より一夕の招待を受けて御馳走になった。 
その席上、田島侍従長は私共にたずねた。
「もし天皇陛下が有罪となられたら、あなたは一体どうするつもりか」
松平式部長官は答えた。
「私は青酸カリを準備していたから、それで死ぬつもりであった」
私は、「軍人であるから切腹して果てたであろう」
と述べた。

松平式部長官の話によると、天皇は裁判に関して、新聞の報道により、私に対して不快の感情を抱かれておられたとのことであった。
松平氏が実情を奏上したところ、「それは結構であった」と仰せられたとのことであった。
私は軍人として、偶然の機会から、天皇陛下の有罪か無罪かの問題に関与して、
いささかではあるが、その無罪判決に貢献しえた事をもって、私の無上の誇りとしている次第である。

しかし、天皇の無罪になられたのは、あくまでも天皇の神の如き性格によるものであることはもちろんである。
この裁判で私の証言により罪の重くなった人があれば、その人に対して心からお詫びを申し上げたい。

(40・8)

 

・・・

「マッカーサーの日本(上)」① 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行


成功のカギ「天皇を利用すること」

 

「間違いのない占領・・・、 その方法は単純だ、日本人にやらせることだ」
日本人にやらせる、という元帥のその時の構想の中に、天皇制の存続とか利用といった意味が含まれているかどうか、
それはフェラーズ氏には分らなかったが、ともかく、
機中のパターン・ボーイズ (注=ホイットニー少将やウィロビー少将など、元帥と長年運命をともにした将軍たち)の中で、
自他ともに随一の”日本通〟と認めていたのが高級副官のフェラーズ准将なのであった。
副官フェラーズは、生粋の軍人である。


天皇とマッカーサーとの最初の会見 (20年9月27日)のことを、フェラーズ副官は淡々とこう回想する。
「最初、外務省の萩原(徹氏)が私のところへ来て、"天皇が元帥に会いたがっている"というので元帥に取り次いだところ、
”よかろう、会おう"という。
元帥の考えで、人目につく第一相互ビルは避けて、赤坂のアメリカ大使館を会見場所にした。
その日、大使館は完全に一般の出入りを禁止にしておき、天皇の到着に際し、私は副官として玄関まで出迎え挙手の礼をした。
車を降りた天皇は手を出して私に握手を求めた。
天皇は落着きがなく、神経質に見えた。

マッカーサーの部屋に案内すれば自分の用は済んだのだが、私は天皇の心中を察した。
そのころ、東条ら戦犯の逮捕(9月11日) が始まっていたし、
元帥を訪れて来た近衛(9月13初訪問)から、天皇が終戦のためにいかに骨を折ったかも聞いていた」
フェラーズ准将の目には、今の天皇は「宮殿に閉じ込められた幽閉者で、孤立無援の男」と映った。
「ドイツで(連合軍が)やったのと同じことを日本でやられたんじゃあ、困る。
天皇はヒトラーとは違うんだ・・」


戦線を転々としていたフェラーズ准将は知らなかったが、
「ワシントンの連中」は、とっくに「天皇には触れない」方針を打ち出していた。 
ジョセフ・グルー元駐日大使を中心に、
「天皇は日本における唯一の安定勢力であり、
米国が日本を降伏させて占領する際に、最も有効で損害の少ない手段は天皇を利用すること」
という主張が、国務省内で昭和18年夏ごろから討議されており、
途中でオーエン・ラチモア(当時、戦時情報局極東作戦部次長) 中国派”の反論
(注 天皇制廃止論や、皇族男子を中国へ連行する意見)もあったが、 
終戦の年の5月には、国務省、陸海軍、大統領(トルーマン)も、
「天皇制を廃止しないで利用する無条件降伏案」いうならば”条件つき降伏〟に賛成していた。
ポツダム宣言にも天皇をどうこうしようと書いた条項がないことは周知のとおりだ。
しかし、本国のお役人と、”野戦〟の軍人の感覚はいつも一致しない。
GHQの軍人の中にも「ヒロヒトを裁判にかけろ」という者が少なからずいた。
その連中は、フェラーズ氏にいわせると、「何しろ日本を知らないから」そういうことをいうのであった。

 

・・・


天皇を政府の役人と同じレベルで見ることは不敬である。
もし彼を戦犯とすれば、
それは日本人にとって神を汚されたことであるのみならず、
精神の自由の否定となる。

開戦の詔勅は確かに天皇の責任において発せられた。
しかし最も信頼すべきソースによれば、戦争は天皇自身が起したのではなく、
東条が天皇を利用したのだ。
もし日本人が機会を与えられて、元首を選ぶとしたら、彼らは再び天皇を選ぶであろう。 
終戦の詔勅で国民に語りかけた時、いままでになく国民は天皇を近いものと感じた。
天皇が一人の人間として語る際、国民は天皇があやつり人形でないことを知った。
国民は天皇制の存続が決してリベラルな政府のジャマになるものとは感じなかった。
われわれの無血上陸の裏には、天皇の力があずかっていた。
彼の命令で7.000万人が武器を捨てた。
武装解除はすみやかに行われた。
この天皇の力によって、何十万人のアメリカ人の命が救われた。
そして、戦争はスケジュールよりもはるかに早く終了した。
このゆえに、かく天皇を利用しながらかつ彼を戦犯とすることは、日本人の信用を裏切ることになる。
日本人はポツダム宣言でいう無条件降伏が、
天皇を含む国家の機構が存続するものだと信じている。


もし天皇が裁判にかけられれば、政治の支配機構は崩れ去る。
国民の蜂起は必至であろう。
国民はふたたび戦い、たとえ武装は解除されていても、混乱と流血は避け得られないところだ。
長い目で見たアメリカの国益という立場からすれば、東洋との関係は相互理解と尊敬にもとづくものでなくてはならない。
(中略)これは、アメリカにとって、至上の必要な事柄である」
学者や外交官の論文ではない、軍人の文章である。
論理的というよりは、有無をいわせない気を持って綴られている。
これが、おそらくマッカーサーの気に入ったのだろう。
「皇室のことで問題があるたびに、元帥はこれを引出しから出して何回も読んでいた」(フェラーズ)


そのころすでに、GHQは天皇に”手をつけない"ハラを決めていた。
進駐前の8月29日にワシントンがマッカーサーに与えた指令(注=「降伏後における米国の初期の対日方針」に
「天皇を含む日本政府機関及諸機関を通してその権力を行使すべし」と
〝天皇を生かし利用する”ことはハッキリしていたし、
また11月3日になって米統合参謀本部が出したさらにくわしい「基本的指令」の中にも、
「貴下はあらかじめ統合参謀本部と協議なく、また当部から発せられた勧告なくしては、
天皇を退位せしめたり、あるいは退位せしめるような措置を講じてはならない」と命じていた。


しかし、むろんこのようなアメリカ側の手の内"を日本人は知るよしもない。
天皇退位説、
戦犯説、
あるいは天皇制そのものを廃止するといった論議は、
国の内外でやかましく繰り返されていた。
現に、"人間宣言〟が掲載された元旦の朝日新聞の解説記事も、
「もはや旧来の天皇制度は倒壊せざるを得ない」と書いている。


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