しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

塘沽停戦協定②

2017年11月23日 | 昭和元年~10年
中公新書「新版日中戦争」臼井克己署(2000年発行)より転記

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翌1933年2月リットン報告の決議を賛成42票、反対1票(日本)で採択した。
松岡洋右代表は会議場を退場、連盟脱会を通告した。
同じ頃、現地満州では関東軍が熱河省で新たな軍事行動を開始した。
万里の長城が日本・中国の境界線となった。
天皇は長城を越えて南下することをかたく禁じた。
現地軍は無視し、北京への進攻は時間の問題とみられた。
5月30日塘沽で日中停戦会議が開かれ、停戦協定が調印された。

長城以南は中立地帯に設定された。つまり中国は長城までを満州国と事実上認めた事になる。

蒋介石は6月6日、日記に次のように書いた。
「このたびの停戦によって恥辱を蒙った。われわれは臥薪嘗胆、10年以内にこの恥辱をそそがねばならない。」


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塘沽停戦協定①

2017年11月23日 | 昭和元年~10年
中公新書「新版日中戦争」臼井克己署(2000年発行)より転記

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関東軍は満鉄の護衛を任務としていた。
1931年9月18日、奉天郊外で爆破されたと称し、一斉に軍事行動を起こし、南満州要地を占領した。満州事変の勃発である。
日本軍は中国の抗議、国際的な非難を無視してまで軍事行動を拡大し、人口3.000万人を擁する広大な地域に翌1932年3月新国家「満州国を」を樹立し、強引に中国から分離した。
中国は不法な侵略行為として国際連盟に提訴し、連盟は翌1932年3月イギリス人リットンを長とする調査団を中国に派遣した。
その調査報告が発表される直前の9月、日本は「満州国」を承認、国交を樹立した。
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