しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陽明丸とシベリア出兵③「シベリア全権大使」

2019年06月06日 | 大正

アメリカの赤十字社が「ロシアの子ども」たちを救出計画をたてた頃、シベリアには米英日仏伊など12ヶ国の援助を受けた「シベリア国」(コルチャック政権)があった。

「加藤拓川」成沢栄寿著・高文研 2012年発行より転記

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シベリア出兵は、ロシア革命の一環である「シベリア革命」に対する干渉戦争、ないしはソビエト政府に対する侵略戦争である、「シベリア戦争」と呼ぶべきだろう。

チェコスロバキア軍の救出を名目に12ヶ国の連合軍による武力干渉が18年8月から始まった。
米軍9000、英軍6000、中国2000、伊軍1400、仏軍1200に対して、日本軍は最高時72.000を数えた。
以前から、日本は独自の計画があった。
東シベリア東部3州(沿海・アムール・ザバイカル)に反革命のコサック兵・セミョーロフらを支援して傀儡的な親日政権を成立を画策していた。

反革命軍と侵略軍に対するパルチザン闘争は19年になって本格化してくる。
18年10月兵力が7万人を超え、米国から抗議を受ける。

11月西シベリアの中心都市オムスクに旧ロシア帝国海軍中将・コルチャックの「オムスク政府(シベリア政府)が成立した。
原内閣は米英仏との協調の立場でコルチャック政権に同調した。
その間、米国の度重なる勧告を受けて派遣軍を34.000に減兵を決めた。
1919年6月、加藤拓川がシベリア大使に内定した。
拓川は9月21日敦賀を出航、ウラジオから列車で10月13日オムスクに着いた。
10月17日コルチックと会見、しかしアムスクは革命軍の攻撃で陥落寸前であった。

加藤拓川がアムスクに到着する半年前、連合軍の支援を受けたコルチャック軍はソビエトの首都・モスクワへ進撃する勢いを示していた。
コルチャック軍は軍規の乱れや脱走、農民の反感で後退をつづけた。
拓川が到着して一か月後、コルチャック軍は橋を壊して退却した。
大使一行は18日間かけてイルクーツクに到着した。

原内閣は連合軍の増兵を各国に提案したが、逆に各国は撤兵の潮時をみていた。

イルクーツク滞在の拓川は、イルクーツク派兵を外相に要望した。
1920年1月1日、支援の日本軍がイルクーツクに着いた。バイカル湖以西に初めて派兵した。
しかし戦闘に入るか否かで拓川と陸軍が対立し、許可を与えなかった。
1月10日、コルチャック政権崩壊で「お役御免」となりチタに着いた。
満州・半島を経由して31日帰京した。直ちに首相・外相と会談している。

米国は1920年4月に、英仏伊も夏頃撤兵を完了した。
撤兵を終えた米英仏伊は「赤軍」と停戦協定を結んだ。

原内閣は「シベリア出兵」の目的を、過激派からの朝鮮・満州の防衛に変更してシベリアに駐屯した。
外国軍であるウラジオ派遣軍の一方的なシベリア駐兵は武力衝突を引き起こす。その最たるものが尼港事件である。



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