国は「関東大震災の日」を「防災の日」と定め、災害対策をことこまかく国民に啓蒙している。
そんなことより、
東京一点集中の是正の方が大問題。
東京で35.000.000人の人が被災したら
全国民で助け合う限度を完全に超えている。
40~50年前から言われているが、ずーーーっと逆行し続けている。
・・・
汚点
「大正デモクラシー」成田龍一著 岩波新書 2007年発行
報道と記憶
東京では新聞社が壊滅して新聞発行が不可能になる。
9月5日ころから、被害の範囲がおおよそつかめた。
虐殺事件
震災直後、流言が飛び交った。
「朝鮮人」に関するデマである。
早くも9月1日午後3時、「社会主義者及び鮮人の放火多し」という流言があり、
「不逞鮮人来襲すべし」「井水を飲み、菓子を食するは危険なり」とデマがひろまったという。
東京の住民たちはデマを疑わず、地域ごとに自衛団を結成し、朝鮮人とみなすや、持っていた竹槍や鳶口により虐殺した。
虐殺された朝鮮人は6.000人を越えると推定されている。
近年では軍隊による朝鮮人の虐殺があったこともあきらかにされている。
その他、
甘粕正彦らの憲兵隊による、大杉栄・伊藤野枝他の虐殺があったが、下手人追及の手は鈍かった。
雑業層と旦那衆
朝鮮人は日雇いや人足として単純労働に携わっていたが、彼らに職場を奪われるのではないかという、雑業層の不安が噴出した。
自衛団は、地域の旦那衆で、そこに出入りする職人・雇人だった。
・・・
「いのちと帝国日本14」小松裕著 小学館 2009年発行
震災の発生
マグニチュード7.9の直下型大地震が襲った。
お昼時であったので火を使っていた家庭が多く、あちらこちらから火の手が上がり、
若狭湾を進行中の台風にあおられ、またたくまに火災が広がっていった。
政府は、翌2日正午に戒厳令を施行した。
戒厳令は適用は「戦時」に限定されていた。
誰を「敵」と見なしてのことだったのだろうか。
つまり、政府関係者にとって主要な敵は朝鮮人であった。同時に「主義者」も敵と目された。
こうして関東一円に3689もの自衛団を組織した。
朝鮮人・中国人の虐殺
相次ぐ余震におびえていた民衆の中に、
朝鮮人が暴動をおこした、放火した、爆発物をもっている、井戸に毒薬を混ぜたなどの流言が発生した。
翌9月2日、うわさは爆発的に広まった。
官憲が大規模な伝播工作を行ったことは否定できない事実である。
軍隊による朝鮮人の大量殺害は、東京の下町、特に荒川以西に集中している。
この地域は第一次世界大戦後急速に工業化された地域で、労働者の多くは農家の次男・三男であった。
そこに朝鮮人が採用されるようになった。
各地の自衛団は、在郷軍人に指揮されながら通行人を厳しくチェックした。
判別は教育勅語や歴代天皇名、君が代、「15円50銭」、
15円50銭は濁音を調べた。
隠蔽工作
関東大震災下の朝鮮人・中国人虐殺は日本史の一大汚点である。
政府は真相究明を妨害したばかりか、朝鮮人による大逆事件を仕掛けた。
朝鮮人の被害を少なく、日本人の被害を多く宣伝する、関係者に口止めと隠蔽工作が始まった。
内務省は朝鮮人犠牲者数を231名。
朝鮮から来た金承学代表の同胞慰問団は、調査を進め6.661人が犠牲になったと発表した。
政府は自衛団に責任転嫁しようと大量検挙した。
翌年の皇太子結婚の恩赦で釈放された。
・・・
(関東大震災の瓦礫の埋立で出来た「山下公園」 2011.9.9)
・・・
復興
「大正デモクラシー」成田龍一著 岩波新書 2007年発行
大地震と火災
1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方を突如、大きな地震が襲った。
建物も崩壊したが、とくにその後の火災が大きな被害をもたらした。
1府6県、死者91.344人。そのうち火災によるものが75.953人。大半が火災であった。
後藤新平と帝都復興
山本権兵衛内閣(二次)の復興計画は、東京市長と満州都市開発の経験者である後藤新平内相により遂行された。
後藤が総裁となった「帝都復興院」には、有能な技術者が集められ、道路と公園、橋梁を中核に復興計画を推進した。
「昭和通り」「大正通り(現在の靖国通り)」を中心に52の幹線道路が東京駅を中心にした環状線や放射線の道路体系を伴い設置された。
道路は道幅を広くし舗装され、街路樹が植えられた。
丸ビルは1923年竣工した。
1930年帝都復興祭が開催された。
・・・
昔、祖父母から聞きました。
中学校まで毎日片道約1時間通いました。
その途中に、東大グランドがあり、その一角から2千年前の大賀ハスの種が発掘されました。
又、東大グランドのある部分には朝鮮人部落と言われた家が立ち並び(戦後?)
多くの人たちが住んでいましたので、同級生、上級生など沢山の生徒と一緒でした。
今考えますと不思議なことに女性徒はいませんでした。
男子生徒は喧嘩が強かった思い出だけです。
この部落が何時無くなったかは忘れましたが、その面影は全くなく、
広いグランドの一角に「大賀ハス発掘記念碑」があるのみです。
最後に一言、今あります大賀ハスはわが母校の先輩が見つけた1粒の種から咲いたものです。
3粒発見と言う人も居りますが、2粒は枯れて開花せず、我先輩が見つけた
1粒がわが故郷の醤油さんの大豆を煮ていた鉄釜のなかで咲いたものでわが故郷の誇りです。
大賀ハスが咲きます頃は毎年ブログに紹介させて頂いております。
大賀一郎先生が岡山市庭瀬の出身の縁で、
後楽園の大賀ハスが咲くと、毎年、新聞テレビで報道されます。
てっきり、岡山県の”県花”だと思っていました。
(すみません)
伊原家(伊原醤油屋)の広い庭の中央、醤油の豆をむすのに使った古い鉄釜を据え、博士からの指示どおり、田の泥を入れ、泥に植えて、育てられた。
このかいあって昭和27年7月18日見事な淡紅の花を開いた。
ほかでは開花しないで、ここだけ開花したのは、ひとえに伊原さんの一年間の丹精のたまものです。
尚、千葉市中央区の千葉公園に咲く「大賀ハス」は平成5年4月に「千葉市の花」に選ばれました。