瀬戸内海地方の代表産業だった製塩は、昭和30年代初めに突然のように消えた。
山陽本線の広島県松永駅~岡山県岡山駅の線路沿い見わたす限りにひろがっていた藺草は、昭和50年頃に消滅した。
北海道から九州まで盛んだった石炭産業は貿易の自由化によって、昭和30年代に大半が閉山となった。
今ではボタ山を目で見ることができなくなった。
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福岡県の筑豊炭田はもっとも有名な炭坑だった。
伊吹信介は炭鉱の町田川で生まれた。
祖父は、石炭を運ぶ遠賀川の川船船頭だった。
父は、「さがり蜘蛛」の入れ墨者だったが、落盤事故の鉱夫を救助するため自ら犠牲になった。
信介は、未亡人であり、継母であるタエの一人息子として成長していった。
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旅の場所・福岡県田川市
旅の日・2017年2月14日
書名・「青春の門 」筑豊扁
著者・五木寛之
発行・講談社文庫 1972年発行
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大きな戦争がつづいていた。
その当時は、それは大東亜戦争とよばれ、聖戦ともいわれていた。
日本は中国やアメリカなど自国の何十倍もの大きな国々と戦争を行なっていたのである。
それは後に太平洋戦争とよばれ、十五年戦争ともいわれることとなった。
筑豊の空気も、すでに信介の父親がくのぼり蜘蛛の重〉とか、<伊吹の頭領>とよばれていた時代とは、すっかりかわり果てている。
作業の現場には朝鮮から連れてこられた労働者や、徴用でやってきた独身坑夫たちが目立ってきた。
<産業戦士>などという言葉がつかわれた時代である。
これまで一度も坑内にはいったことのないような都会の一般の市民や青年たちも、送りこまれてきた。
彼らは〈報国隊〉とよばれ、はじめての苛酷な作業のなかで、事故をおこしたり、逃亡を企ててリンチにあったりした。
信介たちも小国民とよばれて、授業よりも作業のほうがおおい学校生活を送っていた。
その日、信介は学校の仲間たち数人と集団下校の列を組みながら、中川ぞいの道を歩いていた。
二学期がはじまって、まもなくのころで、信介はおそらく九歳くらいだったにちがいない。
澄んだ空にアメリカ軍のB29が一機、まっ白い飛行機雲をひいて浮かんでいる。
偵察のた 飛んできたのだろう。
その一週間まえには、B29の編隊が小倉方面を爆撃して、かなりの被害をあたえていたのだ。
「わが軍の戦闘機は、なんばしよっとじゃろかね」
と、仲間の一人が空を見あげて、くやしそうにつぶやいた。
「一機ぐらい落したって、仕方がなかろうもん」
と、信介はその子に言い、ふと昨夜、母親の所へ訪ねてきて夜おそくまで話しこんでいった徴用坑夫たちの会話をおもいだした。
<満州に関東軍という精鋭を誇る日本軍がいる。
いまわが軍は、すべての兵力と軍備をそこに集結して温存してるのさ。
いざ決戦という日まで、軍はじっと満を持して待つ気らしい〉
東京からやってきたという若い男が、信介たちには奇異にきこえる東京弁でまくしたてるのを信介は花ゴザの敷物の上でうつらうつらしながらきいていたのだ。
信介はそのことをおもいだして、みんなに言った。
「関東軍がいまにでてくる。そしたらアメちゃんにあげななめた真似はさするもんか」
「そりばってん、日本軍の高射砲じゃあすこまでとどかんけん、射たんとげなばい。兵隊さんがそげん言いよったもん」
「そげなことば言うもんな非国民ぞ」
信介は強い口調で言い、その少年の肩を突きとばした。
B29の影は南の空に、すでに見えなくなっている。
白いきれいな飛行機雲だけが青空をななめに断ち切って残っていた。
「腹が減った--」
下級生の一人がつぶやき、やけくそのような黄色い声でうたいだした。
きのう生まれた
ブタの子が
ハチにさされて
名誉の戦死
ブタの遺骨はいつかえる
そのとき、彼らの正面から一人の男の子が急ぎ足に歩いてきた。
痩せて、手脚がやけに長く、 鋭い目つきをした男の子だった。
その男の子の表情には、どこかけわしい感じがあった。
あちこちにつぎのあたった汚れたシャツと、すり切れたラミーの半ズボンをはいている。
手に大きな紙袋をさげて、こちらに歩いてくるのだ。
「チョウセンぱい」
信介の仲間の一人が道の端に寄りながら小声でささやいた。
信介はたちどまり、やってくる男の子の通路をふさぐように腕組みした。
痩せた男の子は、紙袋を抱くようにして信介に近づいてきた。そしてすりぬけるように信介の横を通りすぎた。
信介はそれが朝鮮人の子だということをしっていた。
「おい、朝鮮!」
「どやされてもよかとか」
「ソッチガ悪イ。朝鮮人ノ悪口ヲイッタ」
その日、信介はタエにありのままにしゃべった。
タエは黙って信介の話を聞いていたが、しばらくして、
いきなり平手で信介のはれあがった頬を打った。
つづいて反対側から平手が飛んだ。
「情けなか!」
それ以上タエは何も言わなかった。
信介には、なぜ、自分が殴られたのか、
ぼんやりとわかる気がした。
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