しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

風林火山  (長野県川中島)

2024年07月21日 | 旅と文学

第二次世界大戦中、
皇居や大本営や政府機関を、東京から日本本土の中央部分に移転することが決まった。
その工事は完成をみないうちに終戦となった。
今は一部が「松代大本営跡象山地下壕」として一般公開されている。

信玄と謙信の川中島の戦いの場所は、
その「松代大本営跡」と数キロと離れていない。
つまり、信玄と謙信の両雄は、日本の中央部分で華々しく戦ったともいえ、
戦国時代を代表する合戦として現在まで語り継がれている。

 

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旅の場所・ 長野県長野市小島田町 「川中島古戦場」
旅の日・2014年7月19日
書名・風林火山
著者・井上靖
発行・新潮社 2006年発行

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信玄の本隊一万は予定通り十八日に古府を出発すると、二十日に大門峠を越え、南信の部隊三千を加え、二十一日に腰越に到着、その夜は上田に宿営した。
海津城からの急便は次々に到着した。
謙信は 千曲川を渡り武田陣の背後に廻り、自らが退路を断った形だった。
二十九日、信玄は再び千曲川を渡り、全軍を海津城に収容した。
妻女山の謙信と海津城の信玄は指呼の間に相対峙したまま九月を迎えた。

 

九月九日の重陽の節句の日、海津城の将兵は本丸付近に集まり、そこで祝宴が張られた。
高坂昌信の率いる一万二千の大部隊が、卯の刻(午前六時)に妻女山の謙信の陣営を衝くために、
深夜、城を出て丘陵の急坂を登って行ったのは月の出の少し前であった。
広瀬で千曲川を渡った。
平原には濃霧が立ちこめていた。
武田の旗本軍はその霧の底を這うようにして、次第に幅広く横隊となって展開して行った。
信玄の本営が陣したのは八幡原であった。
風林火山を初めとする何十本の旌旗は霧の中に立てられた。
「まだか」
妻女山の方向を注意させていた。
依然として霧は深く、一間先きの見通しは利かない。
「上様!」
「前面の部隊は越後勢と見受けます。推定一万数千」
言った時、烈しい銃声が西方で起った。

 


いつか霧は上がろうとしていた。。
勘助は見た。
それは彼が生を享けて初めて見る世にも恐ろしいものであった。
勘助は思わず息を呑んだ。
はっとして見惚れていたいような、見事な敵の進撃振りであった。

敗退した武田隊に替って前線に出た山県隊は、左翼から中央へかけての広い戦線に亘って長い間攻勢を持していたが、これまたいつか守勢に立ち、一歩一歩後退の余儀なきに到っていた。
こうした情勢下に、右翼では諸角豊後守が乱戦の中に討死した。
大将を討たれて、右翼方面 は一度に浮足立った。

 


「山本勘助、首級を頂戴する」
ひどく若々しい声が聞えた。
勘助はその方を見ようとした。何も見えなかった。
突き刺された槍の柄を握ったまま、勘助は三尺の刀を大きく横に払った。手応えはなかった。
烈しい痛みがまた肩を走った。
勘助は半間ほど、突き刺されている槍で手繰り寄せられるようによろめき、松の立木にぶつかった。
勘助はそれに寄りかかりながらなおも刀を構えていた。 
勘助の一生の中で、一番静かな時間が来た。 
相変らず叫声と喚声は天地を埋めていたが、それはひどく静かなものに勘助には聞えた。
血しぶきが上がった。
異相の軍師勘助の首は、その短い胴体から離れた。

 

 

 

そして、またその時、越軍の総帥謙信は、金の星兜の上を、白妙の練組をもって行人包みにし、
二尺四寸の太刀を抜き放つや、いままさに月毛の馬に鞭を入れようとしていた。
単身信玄を襲い、いっきに宿敵と雌雄を決せんとするためである。
平原はその頃から全く表情を改め、
陽は翳り、西南にはどす黒い雨雲がもくもくと沸き起りつつあった。

 

 

 

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