古来より日本人は五穀を食べてきたが、
明治維新後洋風化が進み、
肉や野菜や果物も食べるようになった。
ところが日中戦争の勃発後より食糧が不足してきた。国家総動員法等により、農家に作物制限が行われた。
農家は”食糧生産物”のみ耕作して、
それ以外は作付けしてはいけないことになった。
作っていいものは、稲、麦、甘藷、馬齢薯、大豆。
果物も、養蚕も、野菜も、家の自給以外は作れないようになった。
不思議に思うことがある。
果物農家が、国から「果物」作りを禁止されると死活問題となるが
父母も、祖父母も、隣近所のおじさん・おばさんも、
その事についての話すのを耳にしたことがない。
何故だろう?
昭和14年~20年頃、管理人の家で耕作していたと予想されるうち、
主要なものは、(太字は作付け統制や禁止)
米・麦・黍
除虫菊・薄荷
梨・桃・枇杷・イチジク・葡萄・西瓜
このうち
米・麦・黍はほぼ自給用、多少売り。
除虫菊・薄荷は100%商品。
梨・桃・枇杷・イチジク・葡萄・西瓜も、ほぼ100%商品。
下記の対応と思える。
除虫菊と薄荷は食糧ではないが、軍の需要があった。
梨・桃・枇杷・イチジクは老木の植え替えをしない。
西瓜は作付け中止。
つまり事実上、西瓜やメロン程度が制限・禁止されただけ。
野菜・芋・豆・茶等は自給用で、元から、買わないし売るほど作らない。
国家の統制に対して、甘藷の作付面瀬を少し増やした程度と思われる。
家では作ってなかったが、タバコ栽培も軍の需要で影響はなかった。
「岡山県史」では養蚕が打撃と記されているが、昭和恐慌で生産は減り、
戦時中は人手不足で農家に魅力的な商品ではなかっただろう。
・・・
「新修倉敷市史6 近代・下」 倉敷市史研究会 2004年発行
農業も厳しい統制下に
農家は昭和14年11月公布の米穀配給統制応急措置令、続いて翌15年11月から施行の米穀管理規則で、
作った米を政府へ供出しなければならなくなり、米の自由な取引ができなくなった。
さらに岡山県は昭和16年4月、農作物作付制限規則を公布して、果樹・桑・ 茶・庭木などの新植を抑え、
翌年からはスイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
この作付け制限は昭和18年秋にいっそう強められ、
農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。
農作業の仕方も統制された。
都窪郡農会は昭和17年1月、農作物統制規程を定めて大麦・裸麦・小麦の作付け反別などを統制し、
共同作業統制規程で田畑の管理・播種・苗代・田植え・除草・収穫・脱穀。籾摺り・病害虫防除を共同で行うように決め、
人を雇ったり雇われたりして農業することも制限した。
石油発動機から噴霧器まで、農機具の使用方法も統制した。
その一方で農家は、米麦や芋類などの食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで、供出の増加を求められた。
食糧不足が激しくなると、自家米の節米・食い延ばしをして、余剰米を供出するよう要求される事態にもなった。
農家は次第に供出割当てが増える食糧の増産に追われながら、深刻な肥料不足にも対処しなければならな かった。
玉島町(現、倉敷市)では学童を動員して家庭の灰を集め、
市街地のゴミや人糞尿、蚕の糞から川底 の泥まで肥料に利用している。
同町に限らず、化学肥料が入手できない農家は同じような方法で肥料を自給 していたのである。
・・・
「岡山県農地改革誌」 船橋治 不二出版 1991年発行
【第一次統制】
【第二次統制】
かく県令をもつて戦時下不急、不要作物の作付を抑制して戦争遂行上の重要農産物の確保を企画して来たが
日華事変の進展は食糧増産の重要性を更に加えるにいたり、
ついに昭和16年10月16日臨時農地等管理令第十条 第十三条の規定に基き農林省令第八十六号をもつて農地作付統制規則の公布実施を見るにいたった、
本令は農林大臣の指定する作物をその制限を超えての作付を禁止し、
なお食糧農産物の生産拡充のため制限作物を必要に応じ食糧農作物に作付転換せしむることが規定された。
食糧農作物
農林大臣の指定する農作物並期日は次の通りである。
食糧農作物
稲、麦、甘藷、馬齢薯、大豆
一、第二種制限作物の第三次統制告示の改正
大平洋戦争ますます苛烈を極め時局が深刻化するとともに農村労力の戦場或は軍需工場への吸収は
農業労力の極端なる不足を見るに到り更に 農具、肥料等の生産資材の欠乏しいものがあつて、
農業生産力は必然的に減産し国民食糧は極めて緊迫を受けるにいたった。
ここに於て第二種制限作物の作付統制を更に強化する方針をもつて昭和18年11月左記の通り告示の改正を行った。
・・・
・・・
「愛媛県史 近代・下」 愛媛県 昭和63年発行
農業の戦時統制と食糧増産運動
第二次産業組合拡充三か年計画
昭和13年(1938)より第二次産業組合拡充三か年計画が実施に移された。
その計画立案最中の昭和12年7月、日中戦争が勃発し、政府及び軍部の意図に反して、戦争は長期戦の様相を呈していった。
非常時下における国家統制が強化されていく中で、農業の面では、産業組合が、統制のための組織として利用されることになった。
一方、産業組合運動自体からも、「戦時体制の運行を円滑にし広義国防の完璧を期し、以て奉公報国の至誠を効する確固たる覚悟を堅持する事を要す」として、積極的・意識的に国家統制に協力してゆく姿勢が打ち出された。
県内では、昭和12年11月22日、県公会堂において開かれた第七回県下産業組合長会議において、
「日支事変対策に関する件」とともに、「第二次産業組合拡充三か年計画に関する件」が決議され、
昭和13年1月より計画が実践に移されることとなった。
尽忠報国、人格陶冶、斉家治産、共存同策、八紘一宇の組合員精神綱領が採択され、
産業組合の全組織をあげて戦争協力体制が進められていくこととなった。
農業会の成立
農業会の役割は、国の農業政策に即応して食糧その他重要農産物の生産を維持すること及び農業全般に対する指導統制であった。
食糧増産運動の開始
戦時下の農政にとって、最大の眼目は戦争遂行のための食糧確保である。
米・麦・酒精原料甘藷などの重要農産物増産の、その概略を示すこととする。
米穀の増産
県では各年度ごとに米・麦・藷類・豆・雑穀などについて具体的な生産目標を立てて増産を目指したが、
米穀は、多収穫品種の植え付けによって増産を図るため、昭和17年度より、県及び農会が一体となって種籾管理計画が実行に移されることになった。
麦類の増産
麦は、米と並ぶ重要食糧であり、混食によって米の消費を節約する観点からも、その増産が奨励された。
増産のための具体策として特に力が入れられたのは、
休閑地の開墾、桑園・果樹園の転作、暗渠・客土などの土地改良による湿田の二毛作田化であった。
麦踏み、追肥、土入れの時期が指示され、増産のための具体的で細かい配慮がなされている。
甘藷の増産
甘藷は、当初酒精原料としての役割が重要視されていたが、戦争の長期化に伴う食糧事情悪化の中で、
米麦の不足を補う重要食糧として期待されるようになり、その増産に力が入れられた。
昭和13年1月、県が策定した最初の増産計画の中に、甘藷は、玉蜀黍・茶・苧麻と共に対象作物として取り上げられ、
県農会も同年より増産指導を始めた。
その後、米麦需給の逼迫とともに、戦時下食糧としての甘藷の重要性が認識されるようになり、
果樹園・桑園の転換、空閑地の開墾などによって栽培面積は急増した。
昭和19年度には、県の主導のもとに戦力増強甘藷倍加運動が展開されることとなり、
開墾地・休閑地・既栽培地利用、果樹園の転換・間作・周囲作により作付け面積増加が計画された。
その進展を図るため、中等学校・青年学校・国民学校長宛に出され、増産のための具体的方策として、
(1)校地・校下の空地などを利用し、各学校一反歩以上の甘藷を栽培する、
(2)学童生徒を通じ、学校育苗園にて育成した甘藷苗を各家庭に配布し、
一戸当たり六株以上を宅地、垣根を利用して植え付ける、
(3)学童生徒を通じ、甘藷皆作空地撲滅の県民運動を推進する、
(4)勤労奉仕などを通じ、甘藷増産意欲の高揚、栽培技術改善に努めることが指示された。
利用可能な土地は、寸土も余さず食糧増産のために活用した当時の状況がよく示されているが、
食糧事情の窮迫を如実に表している現象でもあった。
昭和18年7月には、着任直後の相川知事の発案により、県庁の庭もすべて開墾して大豆・そばを栽培し、
県自らが県民に対して範を示す措置もとられた。
食糧生産の減退
戦時下における食糧確保を目指して進められた増産政策、農業統制にもかかわらず、
労働力不足及び肥料を中心とする生産資材欠乏によりこれらの政策は所期の目的を十分達成することはできなかった。
全国的にみて、米は昭和15年、麦は16年、茶・木炭は17年から生産が漸減し始めた。
県内における耕地面積は、昭和10年ころから増加に転じ、15年に頂点をむかえたが、以後は漸減していった。
一方、作付け面積は15年以後も増加し、17年に至って耕地利用度は185%を示した。
これは、国、県などによる増産政策の成果と考えられるが、
これを頂点として、以後は耕地面積と同じく漸減をみせることとなった。
藷類を除く主要食糧作物は、減退の傾向がみられた。
全作物を通して特に19年以降の減退が激しく、物不足・人不足の中で進められた国・県の細部にわたる増産策、農民の増産努力の限界を示すものであろう。
・・・
蚕の衰退と畜産の復活
戦中・戦後の食糧増産対策によって最も深刻な打撃を受けたのは、養蚕および製糸業である。
戦前は桑園面積一万町歩を超え、養蚕農家も5万戸にまで達し、200万貫の繭を生産したこともあったが、
戦時経済の下で漸次減少して行き、1946年 (昭和21)には桑園面積1427町歩 養蚕戸数7.573戸、繭量約13万7千貫となり、
桑園面積で戦前最盛期の14%、産繭量では6%にまで低下してしまった。
同年養蚕復興五ヵ年計画を樹立して養蚕の振興を図ったが生産は停滞を続け、
1950年には、桑園面積、戸数、産繭量とも一段と減少している。
養蚕に代わって戦後目覚ましく進展したのが畜産である。
和牛の飼養頭数は増加に転じ1950年には11万頭に達した。また水田の裏作に牧草を栽培する水田酪農が普及し、乳牛の頭数も増加の勢を見せ始めた。
・・・
その後、畑は桃などの果樹に切り替え収入を得たそうです。
熊本県益城町は、早くから梨の栽培をして裕福な農家が多くありました。大地震で被害を受けたのが気の毒です。