朝鮮半島から、日本の都合だけで、米を移入したり、止めたりした。
計画性のなさに、半島の農民は一層疲労していった。
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行
朝鮮産の米
米騒動後、米を増産
日本は米騒動後の1920年代に朝鮮で産米増殖計画により米の増産を強行し、
朝鮮産米の相当な部分を日本に移入して内地の食糧を補っていた。
その朝鮮産の米が昭和恐慌の際、本土農家を圧迫した
昭和恐慌の際には、この移入米が逆に内地農業を圧迫して農業恐慌を深刻化させたために、産米増殖計画を中止する措置がとられていたが
戦時にはいり、昭和14年(1939)の大旱害以降ふたたび食糧不足が激化すると、
雑穀をあてがう
朝鮮住民には麦や高粱など雑穀をあてがい、米の消費を禁止同然にして強制供出させ、内地に米を移入しようとした。
しかし、米の対日移出量はかつての900万石から激減し、その後もうち続く不作のため平年度でも500万石に低下していた。
さらに昭和17年の大旱害により18年度の対日移出はほとんど皆無になった。
また、綿花や麻の作付けや養蚕奨励により、日本本国で不足する繊維原料の朝鮮からの取得が試みられた。
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「食の歴史と日本人」 川島博之 東洋経済新報社 2010年発行
朝鮮を不幸にした日本のコメ輸入
徳富蘇峰は、台湾からの砂糖また朝鮮からのコメが日本の生存に欠かせない記述がある。
1935年(昭和10年)頃には朝鮮・台湾で作られたコメの約半分が日本へ運ばれていた。
朝鮮国内への供給量が減少している。
一方、台湾国内への供給量は日本への輸出にもかかわらず、それほど減少していない。これは、台湾南部の水田開発に力をいれたので、1920年頃から生産量が増加したからである。
増加分を日本に運ぶことができた。
それに対して、朝鮮の稲作の歴史は長く、既に全土にわたって開墾が行われていたために新たな水田を作ることができなかった。
それ故、日本への輸出が増えると、朝鮮国内への供給量が減ってしまった。
東畑精一氏は、戦後、この時期の朝鮮では「飢餓輸出」(国内に飢餓が生じるような状況になっても、無理に輸出が行われること)が行われていたと述べている。
朝鮮では1918年から1933年にかけて、コメだけでなく全供給熱量も減少している。
これは、現在のアフリカの最貧国水準を下回るから、
1933年頃の朝鮮の人々は難民キャンプ並みの生活を強いられたことになる。
食料供給をみても、日本の統治は朝鮮の人々を不幸にしたとしてよい。
日本は朝鮮を植民地にした際、関税を撤廃した。
その結果、高く売ることができる日本に運ばれた。
高い値段で買い取ってくれる日本の仲買業者にコメを売り、
その代金で中国や満州から粟などの雑穀を買ったとされる。
警察力や軍事力を背景に強制的に朝鮮からコメを収奪したわけではない。
ただ、朝鮮に関税自主権があれば、このような事態は発生しなかったと考えられる。
一方、朝鮮のコメが大量に輸入されたことは、日本国内にも複雑な影響を及ぼした。
品質は劣るが安価な朝鮮のコメはよく売れたそうである。
その結果、
国内産のコメの価格も下落することになり、戦前における農村の窮乏化に一層の拍車をかけた。
当時、国民の約半数は農業に従事していたが、コメの下落は農村の窮乏化に直結し、社会不安につながった。
大規模なものが2.26事件である。
朝鮮半島からのコメ輸入は日本農村の疲弊を通じ、戦前の日本政治をも狂わすことになった。
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