TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

プチ・ポイ活

2024年11月14日 | エッセイ
実家のトースターが壊れたので買いに行く。
電化製品売り場は、見て歩くだけでも楽しい。
めったに壊れるものではないので、買う機会があまりやってこない。
今回は、そのあまりやってこない好機である。
来店前はそれなりに楽しみにしていたのに、いざ、ずらりと並んだ製品を目の前にすると、たちまち気が重くなる。
ひとつに決めるという作業が苦手なのである。
予算の範囲内だけでも、それぞれに特徴がある。
「焼ければなんだっていい」と思って軽い気持ちで望んでいるのに、あれもこれも見せられると、何を基準に選べばいいのかわからなくなる。
置く場所や持ち運びを考えると、あまり大きくないほうがいい。
高齢者ふたり暮らしで、食パン4枚も1度に焼ける必要はない。
かといって、コンパクトさ重視のあまり、天板が低過ぎるのも、手を差し入れて焼き具合を調整したときに、手が当たって「アチッ」となりそうである。
多機能なものほど値も張るようだが、そもそも買ってきた総菜の温め直しと、パンのトーストしかしないのである。

あれこれ逡巡したあげく、結局は、「外側はサクッ、中はふんわり」というセリフにほだされた。
トースター前面のフタにそんなセリフと、こんがり焼けたトーストの写真が張り付いている。
わたしは見た目にすぐだまされる。あれこれ迷うふりをしたが、心はすでにこれを見た瞬間に決まっていたかもしれない。

店の会員登録をしているために、送料は無料である。
店のポイントカードを持っているだけでは不十分で、これとネット上での登録が「紐づけ」されていることが必要なのだそうだ。
「紐づけされていますよ」と店員さんに聞いて、いったいいつ誰がどのように紐づけしてくれたのかもはや思い出せないが、とりあえず、お得感を抱いて帰ってきた。
「紐づけ」といえば、先日、美容院のスタッフと軽い気持ちで雑談したポイ活の話を思い出した。


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”ポイ活”難民

2024年11月12日 | エッセイ
実家からの帰りには、隣の駅ナカにあるパン屋さんに寄って朝食をとるのが習慣になった。
そのココロは、いつもの店で変わりない朝が始まり、その日1日無事に過ぎますように……というおまじないのようなもの。

で、そのおまじないモーニングのあと、予約の美容院に行った。
常連だった美容院が閉店になって以来、近所の店をネット検索して通っている。
初回だと格安なのだ。(これ、人呼んで、初回狙い、という)。
本日は、駅前に新しくできたビルにはいる店舗である。
限られたスペースにできた店らしく、急な階段を上り切ったすぐのところに受付がある。
今風の華奢な若い女性が、愛想よく出迎えてくれる。
そしてアンケート用紙を渡される。
ひと昔前までは、(どういうわけか)年齢をさばよんで記入していたものだが、雑談の折に、不便と矛盾が生じることが判明したために、最近では正直に書くようにしている。
多少若く書いたからとて、この期に及んで、なんのメリットもないのである。
アンケートの項目には、この度の施術の間、どのように過ごしたいか希望を記入する欄がある。

1 静かに過ごしたい 2 楽しくおしゃべりしたい 3 雑誌を読みながら過ごしたい
4 髪の手入れ方法などについて教えてもらいたい

わたしは迷わず、1 静かに過ごしたい、を選ぶ。
ぺちゃくちゃおしゃべりで距離を縮めてこようとされるのが苦手なのだ。
担当はノリの良さそうな、若い男性だった。
朗らかな挨拶のあと、名刺を渡し、今回のネット予約の話から、買い物でポイントを貯める方法について、実に楽しそうに話を展開し始めた。
ポイントを集めることを「ポイ活」というのだそうだ。
婚活だの終活だのは知っていたが、今や、「〇活」時代だ。
わたしのように、家の片づけにいそしむ世代としては、「ポイ活」と聞いて、なんでもかんでもポイポイ捨てる作業を連想する。
くだんのスタッフ、そのポイ活に凝っているようで、貯まったポイントで、3万円のデジタル機器を購入し、なんと沖縄旅行までしとめたらしい。得意げに話が続く。
コツは、1か所の店で1種類のカードではなく、何種類かのカードやポイントを「紐づけする」ことらしい。
公共料金も対象となるとか。
そうした話を聞いていると、知らないことが実に損なように思えてくる。
「紐づけ」といえば、マイナンバーカードもなんらかの個人情報が紐づけされてあれこれ便利になると聞いた。
国家主導の紐づけも周知されているとは言えない中、若者の間では、すでに物価高対策はこのポイ活でずいぶんと先を行っているようだ。
挙げ句の果てに、ワタクシ、「財布にポイントカードがいっぱい詰まってるんだけど、肝心なカードに限ってレジでなかなか出てこないのよね」
「買い物のたびに端数の5円だの7円だのをすぐ充当しちゃうから、とてもとても何万円も貯まらないのよ。もう”紐づけ難民”なのよお」と、自虐気味に話してウケを狙う。
どんなにポイ活について力説されようと、本気で見倣うのはもうメンドクサイのだ。
で結局、アンケートに記入した、「施術中静かに過ごす」、という選択肢はどこへやら。
カラーが定着するまでの時間、タブレット雑誌を見て過ごす間だけ静かに放っておいてもらったが、多くの時間、その若い元気なスタッフに乗せられて?楽しげにお話ししちゃったわね。
プライベートな話題にぐいぐい攻め込んでくる年配女性スタッフとは違って気楽だったが、それが配慮の上のことなのか、それとも最近の若い人々の話題の取り方なのかわからない。
まあ、カットの具合もちょうどいいし(それが一番大事)、軽めで無難な話題もそれなりに楽しかったからいいのだけど。
むしろ、初対面なのに、だんまりして過ごすのもかえっていたたまれなかったかもしれない。
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新旧引継ぎ

2024年11月10日 | エッセイ
ケアマネさんが、新しいケアマネさんを伴ってやってきた。
これまでのケアマネさんはご自身の親御さんの介護で多忙になり、今年いっぱいで退職することになったのだ。
思い起こしても残念である。が、仕方のないこと。わたしなどに比べものにならないほど、仕事と介護の両立を、綱渡り状態でこなしてきたかたである。
ざっくばらんで、いい意味でおおざっぱで、話しやすい女性だった。
利用者が多いためか、最後までわたしの苗字を覚えてくださることなく、電話でも実家の面接でもいつもわたしのことを「娘さん」と呼んでいた。
それが少しく残念ではある。
彼女にとっては、たくさんいる利用者さんのそのまたキーパーソンに過ぎないのだな、という現実に直面もした。
新しいケアマネさんは、わたしよりもひと回り近く年配かもしれない。
本日は、初顔合わせということもあり、これまでのケアマネさんの威勢のよさに押され気味で、隣に座って控えめに遠慮深げにメモなどとっていらした。
馴染んできたらお互いの性分とか、好みとか、やりかただとかがわかってくるだろう。
最初はいつも他人行儀に、さらりと終わる。

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本音は?

2024年11月03日 | エッセイ
先日、来年度の働き方についての人事面接があったが、結果、非常勤職員として継続したいという申出書を提出した。
すると、すぐさま副所長が席までやってきて曰く、「通勤時間が自宅からおおむね45分以内を希望だなんて、選択肢がすごく狭まってしまって、ことによると勤務先は見つからないかもしれないわよ。せめて60分ぐらいに書いてくれないと……」。
そうした個人的なやりとりは、通常個室でするものだが、よほど忙しかったのか、それともせっぱつまっていたのか、はたまた敢えて周囲に聞こえるようにしてプレッシャーをかけたかったのか。
狭くてシーンと静かなフロアである。
皆さんに丸聞こえである。
どうやら、職員を推薦する立場としては、是非とも再就職を成功させねばメンツがたたないのかもしれない。
しかしわたしとしては、無理して通勤時間の希望枠を広げて結果、続かずに年度途中の退職になるよりは、条件に合う職場がなければ、最初からこの話、なかったことにしてもらったほうが、採用側にもこちらにも、痛手が少ないと思うのだ。
1度退職したのだから、もうこれ以上、役所にしがみつかなくてもいいのではないかという思いもある。
採用担当者と採用される側。
立場の違いがはっきりと出た。
「ダメ元ってことなの?」と文字を書いて、彼女が再びわたしに聞く。
「ええまあ、そういう感じです……」と、わたしが答える。
ヤル気がないわけではない。
条件に合う勤務先があったら、そこでいっしょうけんめい働かせてもらう気ではいる。
が、正直、週3日、60分もかけて出勤するというのは、想像しただけでも心身ともに、負担でしかないのだ。

「この連休、よおく考えて、またお返事ください」「こんなこと言うと、書き直しを強制しているみたいだけど、そんなことはないのよ」と彼女が続ける。
いやいや、充分、強制してるように聞こえますけど……。
しかしもちろんそんなことは言えない。
「はい。お手数おかけして申し訳ありません」と答えておく。

そんなこんなで始まった連休は、両親の通院付き添いやらなんやらで、よおく考えている暇もない。
なんとなくわかったのは、通勤時間に関わらず、そもそも週3日勤務というのがすでにわたしにとって負担になっており、それで条件をわざわざ厳しくして、「マッチングする職場はありませんでした」と言ってほしいのかもしれない、ということだった。
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来し方行く末

2024年10月27日 | エッセイ
実家では、宅食便で食料を調達している。
1週間先のお届けになっているせいか、「頼まないものが届いた」という母の発言が増えた。
注文時と受取時の気が変わるのだろうか。
加えて、単位がケース単位であるのを確認しないものだから、麦茶が1ケース、ドーンと届いてあたふたすることになる。
そのたびに返品をしていたらたまらない。
そこでわたしが電話で注文をして、〇日に届く商品の名前を書いて冷蔵庫に貼っておくことにした。
自分で注文する楽しみを奪ってしまったようで気の毒でもあるが、しかたがない。
こんなふうに、もの忘れを補うために、壁や冷蔵庫に大きな字で貼っておくメモが最近増えた。

父に付き添って眼科に行くと、眼底・眼圧検査、網膜検査の結果、かなり視野が狭まってほとんど「真っ黒」だと言われた。
出せる目薬はすでに処方済み、緑内障に加えて視神経の老化も影響しているらしい。
「視野検査をしてもいいんですが、結局「見えてませんね」となるだけなんですよね。それでもやりますか?」と医師に聞かれた。
やっても無駄だよ、と言うニュアンスなのは明らかだ。
視野検査は瞬発力もかなり必要なので、認知機能からいってもかなりの難関だ。
それでも「結構です」とは言えなかった。
内視鏡検査のように危険な検査でなければ、つい「する」方を選んでしまう。
結果は推して知るべし。
医師も多くを語らず。
今までと同じ種類の目薬を同量処方してもらって、クリニックを出た。

毎日同じような風景に見えるが、こうやって徐々に衰退に向かって行くのを目の当たりにしたり実感したりするのは忍びない。
目をそらしたい。
気がつかないふりをしたい。

眼科のあとに、食事に行った。
家には車がないので、いちいちタクシーを呼ぶ。
こういう時にわたしがペーパードライバーなのをふがいなく思うが、そのおかげで誰にもけがをさせず、自分もこうやって健在であるとも言える(って負け惜しみのようだが)。

食事処は土曜日の午後とあって、にぎやかである。
こうした場所に身を置くと、両親の体調やら気がかりなことからいっとき気を紛らわせることができる。
おぼつかないとはいえ、今はまだ車からこうして自力で降りて、靴を脱いで、ゆっくりとした足取りで席まで歩いてたどりつくこがきる。
そんなふうに、できていることをなるべくありがたく思おうとするのだが、回りを見るとそれはかなり努力のいることだ。
どうしても若いグループや元気な家族連れに目がいってしまう。
表面的なことを見てうらやんでしまうわたしの悪い癖である。
食事が終わって靴をはいたところで、ちょうど玄関先で家族とともに外に出ようとしていた見知らぬ女性が、父の靴がちゃんとはけていないのに気がついて、わざわざ自分の手指をさし込んで、はかせてくださった。
身内のわたしがタクシーに気をとられ、ホイホイ先に外に出てしまった不備を補ってくださったのだ。
介護サービスだけでなく、こうやって他人の手を煩わせることが増えていくのかもしれない。

夜は、例によって昔話をする。
日々の暮らしをまわしていく上では、父母のペースや記憶が互いにかみ合わず、不穏になったりするが、昔の話に関しては、その真偽について確かめる余地もないせいか、穏やかに時間の流れが展開する。
時間を前に進めることは苦手だが、過去に遡るのは、比較的楽なようだ。
母曰く「嫌なことは全部忘れていくものなのよ」。
勘違いによるストーリーも、記憶のすり替えなんかも、彼らにとっては今現在の事実なのである。

翌朝、わたしはなかなか進まない自分の終活に手をつけた。
昔々からの手紙整理だ。
幼稚園の頃通っていたヤマハ音楽教室の先生や小中学校の先生からの年賀状なんかもあって驚く。
もう、うすらぼんやりしか思い出せない級友からの年賀状もある。
今もお付き合いのある友人からの手紙は、相変わらず優しい。
暗黒の大学時代だと思っていたのに、意外にも、同じクラブだった友人たちから誕生日祝いもいただいている。
育児雑誌のペンパル募集欄つながりの手紙もある(これなどはすぐに立ち消えになったが)。
もちろん思い出したくない時期の手紙も山とある。
若気の至りでは済まされないような、取り返しのつかない不義理のオンパレードである。
大事なことをすっ飛ばして生きてきてしまったような気でいるが、それなりに自分の人生を自分なりに刻んできたと認められる日がくるだろうか。

こういう作業は、ついつい読みふけってしまって、なかなか進まない。

メールの時代にはいってからは、ほとんど手紙を書かなくなったが、若い時代、手紙のやりとりをすることができてよかったと思う。
都合の悪いことを忘れる、とまでいかずとも、すべてひっくるめて、穏やかな気持ちで過去の話ができるようになればいいなと思う。
コメント (2)
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