TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

右往左往の巻

2025年01月25日 | エッセイ
再入院のきっかけとなった父の症状は、腸炎とそれに伴う重い脱水ということだった。
病院への受け入れを要請してくれた訪問看護師さんに感謝。
母と面会に行くと、父は相変わらず家に帰りたがっており、看護師さんに毎日のように圧力? をかけているらしい。
今回は心臓疾患ではないので、早めに退院できるようだ。
担当医がやってきて言った。
「最初は点滴だったのが、最近は口から食べられるようになっていますので(ただし野菜以外)、今日明日にでも退院してもだいじょうぶですよ」。
父の野菜嫌いは、この病院では”有名”になってしまったらしい。
本人の「帰りたいコール」に圧された部分もあるかもしれない。
この病院の専門である循環器系当に異状なければ早く退院してほしいというのも本音だろう。
なんといっても90歳だし……。
もしかして、最期をこの病院で迎えてほしくないのかも、などとうがったことも考えたりした。(ドラマ、『ドクターX』の見過ぎか?)
あれほどの偏食なのに、90歳まで永らえたのは、考え方によればたいしたものだ。

説明したいことを早口に述べたてて、担当医が足早に去っていった。
忙しい中、わざわざ来てくれたようだ。
質問する猶予も与えられない雰囲気だった。

医師が去ると、書類にサインをした。
12月の入院以来、いったい何枚の紙にサインだの連絡先の記入をしただろう。
入院に限ったことではない。
介護認定を受けたところから始まって、サービスを始めるたびに、サインだの、同意書への記入を求められた。
中身を熟読する暇はない。
たとえ読んだとしても、文章の意味は分かっても、その意図がよくわからなかっただろう。
こうした書類は、何かトラブルが起きたときに、「だってサインしてるじゃないですか」と、病院側を守るために書かされるんだろうか。
具体的にどんなトラブルが起きうるのか、この書類がその時どう役に立つのか、サインする側には不明だ。
不明なので「書けない」理由も見つからない。
とりあえず差し出された2枚に書いておいた。
今回サインする段になって初めて、正式な病名が「ウイルス性腸炎」であることを知った。

待合室に戻ると、ケアマネさんに電話した。
最初の入院同様、心の準備がないまま急に退院の話がやってきたので動揺していた。
退院してもまた同じことが起きるのではないか?
対処するために、介護サービスを変更したほうがいいのか?
訪問診療という選択肢はどうか?
聞きたいことはたくさんあった。
確かめたいことは次々沸き起こる。
父の命すべてがわたしの責任と一存に任されているような重さを感じる。

ケアマネさんはこちらに代わってなんでも決めてくれるわけではない。
あくまでも決めるのはこちら。
こちらの指示を受けて、動いてくれる。
彼女から教わった部署に電話していろいろ確認して気が済んだ。
今回は一時的な病状なので、感染対策に気をつけて、今までと同じ看護サービスの枠の中で、摂食指導と介助をお願いすることにした。
家族が「食べろ食べろ」とやいのやいの言うよりも、他人である看護師さんが優しく促してくれたほうが、食が進むのではないかと思ったからだ。
何事も試してみないとわからない。
父にとって望ましいことがわからないと、こちらの不安感を優先させることになる。

いったん方針が決まると、ほっとした。
ケアマネさんが連絡先だけ教えてくれたのは、あれこれ外野が口を出すと、いろんな人の思惑が錯綜して、かえってわたしが混乱すると思ったからではないか。自分で気が済むまで確認したほうが納得もする。

語弊はあるが、父の退院によって再び爆弾を抱え込むことになる。
母の負担感をなるべく先送りにしたいこともあり、週明けの水曜日まで退院を延期してもらった。
週末に退院すると思っていたらしい担当の看護師は、「〇〇さんにだけ対応するわけにはいかないんですよ!ベッドも込んできてますし」と多少不満げではあったが。
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初出勤

2025年01月21日 | エッセイ
昨日は、今年初めての出勤だった。
本来なら6日からなのだが、父にまつわるあれやこれやで、先週まで2週間の短期介護休暇を取らせてもらっていたのである。
が、いつなにがおきるかわからない、という銃口を向けられているような落ち着かなさは変わらない。
あたりまえに出勤できる状況、仕事の算段をたてられる状況というのはありがたいことだったのだな、と思う。
とはいえ、長期休暇のあとに出勤する時ほど、気が重いことはない。
「ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」というセリフをまず事務所にはいるなり、副所長のところに赴いてひと言、そしてその勢いのまま、その場にいる課員の皆さまを見回して同じセリフをひと言……、などと頭の中でシュミレーションする。
通勤電車から見る車窓の景色も、イヤホンから流れる曲もうわのそらである。
早くその段階に飛び込んで、一番苦手な場面を終わらせてしまいたいと思う。
夏休みの宿題なんかは、さっさと終わらせてしまいたいたちなのである。

”育パパ休暇”というのがある。
育児休暇の”お父さんバージョン”である。
今月から、お隣の男性職員がその休暇を取得することになり、彼の仕事をわたしが受け持つことになった。
なんの打診もなく、いきなりそう決まった。
もやもやしたが、こんな時、非常勤の立場は弱いのである。
かなりの分量だ。しかも期限付き。
誰もやりたくないのは明らかで、皆さんほっとしたのはまちがいない。
週3日勤務なのに、終わるのかしら、たぶん間に合わないよね、と荷が重く感じていたところにもってきて、今回の介護休暇。
昨日出勤してみたら、ほかの皆さんがその仕事の最初の部分をほどよく振り分けてこなしてくださっており、あとの作業が楽になっていた。
正直ほっとした。ほっとすると同時に、いたたまれないような気分でもある。
「組織」のありがたさと、わずらわしさと………。
職員数の少ない現在、休むほうも、残るほうも、大変なのである。


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再入院で思うこと

2025年01月19日 | エッセイ
1月17日。
退院して自宅療養中の父がお腹をこわした。
もともとお腹の調子が良くない父であるが、ここ2,3日ほとんどなにも食べていない。
少し移動するのにも大儀そうだ。
本人は受診を嫌がっているが、主観と客観、どちらを優先するべきなのか素人にはわからない。
24時間対応の訪問看護師さんが様子を見に来てくれた。
血圧が60まで低下しているという。
近所の消化器内科クリニックを受診するのが妥当だろうということになった。
彼女に介護タクシーを手配してもらったが、配車にはそうとう時間がかかりそうだ。
そうかと言って、座位を保つのがやっとな状態で普通のタクシーはむずかしい。
折しもインフルエンザの流行中、クリニックは大繁盛の模様だ。
そんなところで父を待たせたら、感染症までいただいて帰ってきそうである。

結局、看護師さんが、先月まで入院していた病院に連絡をとってくださり、救急の受け入れの話をつけてくれた。
いつもは母を相手にぬり絵だの折り紙のお相手をしてくれている看護師さんが、この日は俄然、頼もしい救世主に見える。
119番をしようとすると、地域包括支援センターの女性ふたりが賑やかにやってきた。
担当のケアマネさんが不在なので、その代わりに来てくれたらしい。
救急車を呼ぶことにしました、と伝えると、「そうでしょう。わたしたちも、そうしたほうがいいと話していたところなんですよ」とおっしゃる。
なんでも介護タクシーの手配に奔走してくれていたらしい。
有り難いが、彼女たちの話が長引きそうなので、「119番していいですか」と尋ね、スマホで連絡する。
その間にも彼女たち、玄関先から、父の寝ている寝室を覗き込み、「お顔を拝見できてよかった」と満足そうに言う。
仏を拝んだような口ぶりだ
。訪問先で、本人の顔を見る、見ないというのは、彼女たちの仕事の達成度をはかるバロメーターのひとつになっているのだろうか。
本人にとっては、そんなこたあ、知ったことではないにちがいないが。

救急車はなかなか来ない。
今や、インフルエンザの患者で近くの病院が満床らしいので、救急車もたてこんでいるのだろう。
スタッフのひとりが、お薬手帳、保険証、本人の靴、処方薬、印鑑など、付き添う時に持参するものをてきぱきと指示する。
「ちょっとすいません」と言いながら、家にあがり、お薬カレンダーから処方薬を取り出して、持たせてくれる。
素早い行動だ。
こうした状況は手馴れているのだろう。
使命感に燃えているというような、語弊はあるが、少々はずんだような声にも聞こえる。
人は人の生き死にに関わるような現場に立ちあうと、自然、そんな感じになるのかもしれない。
大災害や大きな事故の目撃者が、インタビューアーの差し出すマイク越しに高揚感に満ちた声と態度で話すのと似ている。

遠くから、やっとサイレンの音が聞こえてくる。
不謹慎だが、わたしも上ずった気分になる。
救急車が家の前に止まった。回転灯が、あたりをくまなく照らす。
夕方4時過ぎ。まだほんのり明るい。
青い服を着た隊員が3人どやどやと家の中にはいってきた。
それほど狭くない寝室が、体格のいい3人の青い制服で埋まった。
ベッドに横たわる父の下にシートを手際よく敷いて、うまい具合に持ち上げて、庭に置かれたストレッチャーに運ぶ。
「頼もしいわあ」と母が感激している。
出発間際に、スタッフが、「火の元だいじょうぶ?」「鍵はOKね」とてきぱきと言う。
わたしたち4人の女性がごちゃごちゃいるので、救急隊員が、「同乗されるのはどなたですか」を質問する。
母とわたしが見送られて慌ただしく乗り込む。
スタッフに挨拶したかどうかも覚えていない。

救急車の中で、119番するまでの経緯を聞かれる。
わたしもまた先ほどのスタッフ同様、使命感のようなものに煽られて、できるだけ正確に細かく伝えようと、張り切ってしまう。
妙な言い方かもしれないが、はしゃいで聞こえたかもしれない。
こんな時にも、こんな時だからこそか、しっかりした娘を演じて褒められたいのだろうか。
血圧は100を超えていると言う。
さっき60、60と騒いだ後なので恐縮したが、それを察したのか、「よかったです」と救急隊員のひとりが言ってくれた。

救急車に付き添いとして乗ったのは初めての経験だ。
自分がぎっくり腰の患者本人として乗った時には染みだらけの白いカーテンが下がっていたが、今回は、グレー地のヒダのはっきりと付いた、まだ新しいものだった。
後ろの席から運転席の窓を眺めると、いろんな備品に遮られて、意外に視野が狭い。
交差点や信号のあたりで、救急隊員がお礼を言っているのが聞こえたが、どういう状況なのかがよくわからない。

見覚えのある景色を見ながら、救急車は病院に着いた。
大きなノックの音がして、車の後ろのドアが開いた。
ストレッチャーに乗せられた父が引き出され、そのあとをついて、救急外来室まで行った。
案内してくれた守衛さんが「お大事に」と言って、持ち場に帰って行った。

夕方も遅い時間帯ということで、外来の待合室にはひとけがない。
壁のテレビでは、大相撲が放送されている。
同じく救急で搬送されたかたの家族と思しき人たちが、ポツンポツンと固まって座っている。
書類を書きながら待っていると、前回入院した時の主治医が挨拶に来てくれた。

長い時間が経った。
大相撲はとっくに終わった。
外は真っ暗だ。
どうやら入院になるらしい。
部屋が決まったということで、非常灯だけに照らされた真っ暗な廊下を、ストレッチャーに乗せられた父を小走りに追いかけた。
もう少しゆっくり歩いてくれればいいのに……。
付き添いの母はリュックを背負ってよたよた付いてくる。
廊下のつなぎ目で、ストレッチャーが大きな音をたてて上下する。

前回と同じ、2階の〇病棟だ。
父は病室に運ばれたが、わたしと母は面談室で待つように言われた。
先月、地域連携室のスタッフを交えて退院後の生活について話し合いがあった部屋だ。
ここでもまた書類を書かされた。
長い長い時間が経った。
あとまわしにされているような気がしてくる。
ようやく、パソコンを押してやってきた看護師が、パソコンの画面を見ながら、「重度の脱水症と腸炎の疑いのようです」と説明する。
機械的な説明のしかたのように感じる。
「当面、口にできるのは、水かお茶。本人の希望を聞いて部屋に置いておいてください」とひとこと。
なんだかそれも味気ない口振りのように感じられて違和感が残った。
もう90歳ですからねえ、という言葉が浮かぶ。

父に面会する。
相変わらず、入院は不本意のようだ。
今回の体調不良が重度の脱水症なら、退院しても同じことが起きる可能性がある。
本人の「食べたくない」「飲みたくない」を優先させて命を縮めてしまうのか、それとも無理やりにでも飲み食いさせて、少しでも永らえてもらうのか。
重度の脱水と聞いて、自分たち家族の、管理の甘さも思う。
と同時に、87歳の母が言った「わたしだったらもうそっとしておいてほしい」は、そのまま鵜呑みにはできないものの、軽視できない言葉だとも思う。

翌日、入院に必要なものを持って面会がてら病院にひとりで行くと、点滴で養分がからだの隅々まで行き渡ったのか、父の血色も昨日よりずっといい。
父本人は、すぐにでも家に帰るつもりのようだ。
退院は、口から摂食できるようになってかららしい。
父曰く、「お母さんには、ベッドでぴょんぴょん跳ねていたと伝えてくれ」。
相変わらず強がりだ。
周りはもう90歳だからなんて言うが、本人は生きる気満々なんだと思う。
その気持ちをやはり優先したい。
30分の面会時間があっという間に過ぎた。
「もういいから帰れ」と父。
娘には遠慮があるのか、それとも家にひとりいる母を気遣ってなのか。
「また来るね」「元気でね」と言って、父の手の平を軽くたたく。
女性の指のようにほっそりとやせた父の指は、ひんやりとしていた。

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記憶にございません

2025年01月15日 | エッセイ
夕方、宅食業者から食料品が届いた。
配達員が驚くほどの大量のモノがドカドカと玄関先に積み上げられる。
母曰く「頼んだ覚えがないのに届いた」らしい。
ああ。またやられた。
覚えていないのだから、母にしてみれば覚えがないものが勝手に届いたように思うのだろうが、ほぼ間違いなく、注文書には書いたのだろう。
今回が初めてではない。
母に言わせれば、注文もしないものをしょっちゅう届けてくるワルイ会社らしいが、もしもそれが事実なら、悪徳業者として、とっくに告発されているだろう。
それにしても今回はすごい量だ。
前回は、2ダースのお茶だけで済み返品したが、今回は、5キロのコメふた袋、カルピスソーダ6本、ご飯6パック、野菜ジュース1リットル、果物ジュース1ダース、缶詰3個、プリン6個入り、3連コーヒーゼリー、長持ち豆腐1ダース、冷凍うどん、冷凍パスタ、じゃこなどなど。
返品可能な常温保存だけでなく、もはや返品不可能の冷凍冷蔵ものまでもりだくさんである。
本当に欲しくて頼んだものがどれなのか、本人もわからなくなっている。
念のため、宅食サービスセンターに確認の電話をすると、どれもこれも注文書に記入があるという。
1本のつもりが1ダースだったというような、あるあるな間違えの範囲を大きく逸脱している。
うんざりした。
「なんでこんなことに巻き込まれなくてはいけないんだ」と思い切り迷惑顔でわたしは言い放つ。
母はあくまでも、「頼んだ覚えがないのよ。プリンなんて欲しいと思ったこともない」と非を認めようとしない。それがまた腹が立つ。
翌朝になってもまた同じことを主張し続ける。
「もう宅食は止めるわ」ときっぱり。
あくまでも業者をワルモノにしたいらしい。
それはいいが、その分の買い物をわたしがしなければならなくなるに決まっている。

間違ったのが業者であろうと母であろうと、わたしにとっては関係がない。
返品というわずらわしい手続きを押し付けられたという事実。
わたしにとって大事なのはそれだけだ。
さらに、返品不可能なものを、食べたくもないのに、もったいないからとせっせと食べずにはいられない性分なのである。

昔の母に戻ってほしくて、もの忘れをピシッと指摘したり、「そうじゃないでしょ!」「今日は〇曜日でしょ!」「どこにしまったの!」と、つい、きつい言い方をしてしまう自分が嫌になる。
ひとり住まいの空間は、もはやわたしにとってシェルターのようになっている。
そのシェルターに向かう日、朝も早よから起き出して、ひとつ先の駅にあるパン屋さんで朝食を食べる時の気分といったら、まるで「脱出した」かのようだ。
「今は落ち着いているからだいじょうぶよ」という母の言葉をいいことに、振り切るように「逃げ出した」のだという気持ちがつきまとう。

先日の父の診察の日、車いすを押してすっ飛ばしたわたしに対して、「疲れたでしょう」とねぎらってくれたのは、今までと変わりない母であった。
リュックサックを背負って必死にあとをついてきた彼女自身もしんどかっただろうに、こちらをねぎらってくれた。
しんどい人には、相手のしんどさがわかる。
検査や診察時間のことで頭がいっぱいだったとはいえ、もっとゆっくり歩いてあげればよかったと思う。

変わってしまった母と、普段の母とが日替わりでやってくる。
そのたびに血がのぼったり、このように反省したりと、日々不穏である。


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車いすは走る

2025年01月13日 | エッセイ
父の退院2週間後の診察日がやってきた。
じっと家に閉じこもった状態が続くと、病院であれ、外出できる用事ができるとどこかホッとする。
10時の検査に間に合うよう早めに父を起こしたのはいいが、そのあとひと悶着が起きる。
「さっさと用意をさせたい母」と、きちんと時間配分をして行動しているつもりの父との間で“主導権争い”になったのだ。
はいて行くズボンひとつとっても父は譲らない。
「何を着て行ってもいいじゃないの」と怒鳴る母。
そう言われれば言われるほど、父が意固地になり声を荒らげる。
彼がこんなに声を荒らげるのは初めてだ。
自分の意志を無視されて無理強いされるのを嫌うたちだ。
認知症の周辺症状は、こんなことの繰り返しで悪化するのではないか。
時間に若干余裕があったので、とりなすつもりでわたしが父の主張するズボンとベルトを取りに和室に行く。
満足そうに父がベルトを選ぶ。
母としては、わたしが父の味方みたいになっているのが、気に入らないのかもしれない。
いつまでも忌々しそうな声で文句を言っている。
ある程度父の好きなようにさせればいいのにと思うが、母自身、心身共に余裕がなくなっている。
軽度の認知障害のゆえんか、感情が表に出やすくなった。忌々し気なため息が増えた。
母のこうした不機嫌な声を聞くとわたしは自分が責められているような気がしてしまう。
母の怒鳴る声も聞きたくない。うんざりだ。「もう、いやだわ!」と思わずわたしは声に出してしまう。

急がば回れ。結局、予定していた時間よりも早めに用意が整い、タクシーを呼ぶことができた。
もしもあの場に父と母、ふたりきりだったとしたらあそこまでこじれただろうか。
わたしという仲介役がいたから彼らは安心していがみあったのではないか。
タクシーに乗るとふたりともおとなしくなった。
外面がいいのだ。
外でケンカをすることはない。

病院に着くと、有無を言わせず車いすに父を乗せた。
検査のために3か所を回らなくてはならない。
歩かせていたら、1時間後の診察時間に間に合わない。
不案内な建物の中、番号表示を頼りに小走りに車いすを押す。
狭い廊下に患者さんがびっしりと座っている。大きな病院にありがちな光景だ。
ある時は人を追い抜き、ある時はよけながら、慣れない車椅子を押す。
父を車いすに乗せて押す娘の心境はいかに? などと自問自答しようとしたが、気持ちが急いているせいか、じっくりと味わうこともできない。
ひたすら目的の検査室目指して邁進する。
父の着替えを背負い、とぼとぼと後をついてくる母を時々振り返る。
父も、母がちゃんと付いてきているかどうか心配なようだ。
なんたって彼女の方向音痴はお墨付きなのだ。

心電図検査が終わり、父を車いすに乗せて検査室を出ようとしたら、衝立の向こうでドスンという音がした。
ほどなく隣のスペースが慌ただしく異様な空気に包まれた。スタッフが「AED!」と叫んでいる。
検査中の人が倒れたらしい。
あたりが騒然とした。
ひとりの男性スタッフが押し殺した声で、「こちら検査室5番」とマイクに向かって何度か呼びかけると、あっちからもこっちからも、あれよあれよという間にスタッフが集まってきた。
病院中の職員が全員集合したような数だ。
不謹慎ながら、まるでドラマを見ているようである。
先日、退院時のミーティングで司会をしていた地域連携室のスタッフも、紙と鉛筆を持ってやってきた。
救命の補助に来たというよりも、みなさん、お勉強のためにやってきたのだろうか。
患者さんは息を吹き返したらしく、励ますスタッフの声が聞こえる。
肝心のストレッチャーがなかなか来ない。
人はあんなに大勢集まったのに、一刻も早く患者を移動させるストレッチャーを持ってくるような気の利いたスタッフはいなかったようだ。
ストレッチャーの通り道になるからと、わたしたちは、邪魔にならない位置にしばし待機させられた。
この騒ぎを検査室の待合室で目撃していた母がひとこと、「お父さんが倒れたのかと思った」。
それでそんなに落ち着いているのが不思議である。

11時の診察予約時間を大幅に過ぎた。
検査の結果は、心臓への負担がひと月前よりも格段に減り、安定しているとのこと。
もちろん検査結果が良くてなによりだが、それで老化が止まったわけではない。
先生もなにやら忙しそうにせかせかとしていたので、お礼を言う暇もなく、こちらもせかせかと薬の一包化をお願いして診察室を出た。
普段、寝てばかりいることにたいしては、特段問題視されなかった。
それもこれも、だって90歳だもんね、ということだろうか。
ここで優先されるべき関心事は、あくまでも心臓の状態なのだ。

支払いを済ませてから病院の食堂に寄る。
貴重なひとときだと思うのだが、疲れていたのかなんなのか、昼の時間をかなり過ぎていたこともあり、あまり味あわずにガツガツと食べた。
入れ歯を持ってくるのを忘れた父だが、カツカレーをほぼ完食した。
歯の代わりをするために、歯茎というもの、固く発達するものであるらしい。
病院の送迎バスに乗って、駅まで出て、床屋に行った。
入院以来伸び放題の父の髪の毛と髭のカットがようやくできた。

お昼過ぎのタクシー乗り場。
日差しはあるが、風が猛烈に冷たい。
車がなかなか来ない。
わたしともうひとりの男性との間で、タクシーの順番を巡ってちょっとした小競り合いが起きる。
物騒な世の中、もしもわたしがひとりだったら、不本意ながら順番を譲ったかもしれないが、この寒風の中、両親を待たせるわけにはいかない。
一刻も早く乗車したい。
前に並んでいた女性が味方になってくれたこともあって先を譲らず。
相手の男性も、老いた父親を連れていたので同じ気持ちだったかもしれない。
ようやくやってきたタクシーにわたしたちは先に乗り込んだが、あと味の悪い思いが残った。



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