リハビリに特化したデイサービスを見学した。
3時間の半日コースである。
1日のデイサービスでは待ち時間が多く、両親曰く、「座ってばかりでお尻が痛くなった」そうだ。
彼らふたりが利用するのを前提に、2枠空いているところをケアマネさんにみつくろってもらい、見学のはこびとなった。
サービスの利用についてあくせくするたびに、いったい誰のためのなんのための利用かわからなくなることがある。
衰弱に向かう命の、自然の流れに抵抗しようとしているだけのような気がする。
現在の訪問リハと訪問看護で落ち着いているところにわざわざ石を投げてかき混ぜようとしているような不安がある。
そうした気持ちを抱きながらの見学であった。
サービスの事業所は、駅近く、比較的交通量の多い場所にある。
利用者さんのお迎えを終えた車がわたしたち3人を迎えにきてくれた。
案内されたのは、こぢんまりとした建物で、前の敷地に送迎車が数台、所狭しと並んでいる。
中にはいると、左側の長テーブルを挟んで利用者さんがお茶を飲み飲みくつろいでいる。
休憩時間のようだ。
ずいぶん前に見学したリハビリ特化のデイサービと同じようなマシンが数台、窓際に並んでいる。
整体用のベッドもいくつか置かれている。
管理者のかたがプログラムについて説明をしてくれる。
そして岩盤浴の体験。
箱の中に敷き詰められた石に足を突っ込むとじんわりと温かい。
冬などは良さそうだ。
説明を受けながらふたりとも大いに乗り気のようだったので、1時間ほど見学を終えて帰宅したあと、さっそくケアマネさんに電話をする。
気が変わらないうちに、という思いがあったかもしれない。
両親ふたりに念も押した。
ケアマネさんはあいにく不在。最近タイミングが合わないことが多い。
契約したい旨を伝言して電話を切った。
父と母、2人の利用——、その時はそのはずだった。
夕食後、どういう弾みか忘れたが母が、「今日のデイサービスは本当に必要なのかしら」と口火を切った。
すると父も、「今日のところはあれでいい。ただ器械の台数が4台で少ないようだ。もうひとつぐらい事業所を見てからそしてそのどちらかに決めたい」と言い出した。
慌てた。
振り出しに戻った気がした。
ふたりにとって適切な場所をケアマネさんが選んで日程調整してくれたというのに……なぜこんなに早く意見が変わる? 昼間には、ふたりで利用しようねと念を押し、そうした雰囲気になっていたのに。
確かにこうしたサービスは利用者主体だ。
気持だって変わるかもしれない。
が、今回ばかりではなく、二転三転する言動が度重なると、それにいちいち振り回されることに苛立ちを感じてしまう。
「そうね、そうね」と口先だけが先んじて前向きなのを、つい間に受けてしまうのは初めてではない。
迷惑をかけることになるケアマネさんに、その都度お詫びをするのも気が重い。
選択肢があり過ぎるのだろうか。
彼らの必要を飛び越えて性急に話を進めようとしたわたしの責任なのか。
その夜は10時半頃まで、ああでもない、こうでもないと話した。
いくら話してもらちがあかない。
利用したいのか、したくないのか、父の本心もわからない。
とりあえず、明日の朝、父が見学のお礼を兼ねてケアマネさんに電話をすることになった。
本人からケアマネさんに、直接言ってほしかった。
わたしの口から、この後戻り的な発言を伝える勇気はなかった。
その夜は、明け方2時ごろに目が覚めて後は眠れなかった。
実家にくるとなにかしらごたごたが起きて寝不足となることが多い。
翌朝、家の消防設備点検の立ち合いのために、早々に実家を出る準備をしていると母が起きてきた。
曰く、「どうかねえ、お父さんの利用は。認知症だし、粗相したりしないかしら」と心配が募っているようだ。
介護度2の利用者や認知症のかたも利用しているという資料を見せてみる。
まあとりあえずやってみたらいいんじゃないの、とわたし。それで無理そうならやめてもいいんだし、と。
「そうやねえ、とりあえずやってみようか。話したら気持ちが軽くなった」と母。
母は自分の不安感を軽くするために、わたしの背中に不安感を乗せる。
そして驚いた。
彼女曰く、「わたしは最初っから利用するつもりなんかないのよ」
なんでも、母はあくまでも父の付き添いとして行こうかと思っており、見学してみたら付き添いの必要はなさそうなので、行かないことにしたのだそうだ。
「お父さんが行っている間、のんびりしたい」のだとも。
お父さんが不在の間のんびりしたい、という気持ちはわかるが、最初っからそうした意図だったことは、この度初めて知った。
それではなんのためにふたり分の枠が空いている曜日を調べてもらったのか。
混乱した。
本当に最初から利用するつもりはなかったのか。
こちらの説明のしかたに不足があったのか。
当然こちらの認識と同じ理解であるという思い込みが、説明不足を招き、母は母で、自分の意図を当然のものとして説明しないものだから、お互いにずっと違う認識でいたということか。
そこへ父が起きてきた。
昨日の器械の台数云々の話は省いて曰く、「昨日行った場所、あそこに決めた。火曜日の利用だから、今来てもらっている訪問リハ2日間のうち月曜日のほうは、とりあえずお休みしようと思う。それを今日、ケアマネさんに電話しようと思う」ときっぱり。
父の方が理路整然と話が通じている。
昨夜の話をしっかり覚えていて、筋もつながっている。
何度も同じことを繰り返して言う。
本人なりに大事な話題であることをしっかり認識しているから繰り返すのだと、ものの本に書いてあった。
むしろ、「もう何度同じことばかり繰り返すの! 全くイライラするわ」という母のほうにわたしは大いに苛立ちを感じる。
何度も繰り返して、確認しておこう、覚えておこうと努めることもなく、するすると聞き流して結果、けろりと忘れている母よりもよほどまともだ。
とはいえ、立ち合いの時間が迫ってきたので、すたこらさっさと実家を出る。
正直、逃げた!
駅の構内で、メロンパンとアイスコーヒーにありついたときは、15分ほどだったが、ひと息ついた。
普通に話が通じる人と話したい、とそう思った。
9時半過ぎ、ケアマネさんから電話が来る。
「娘さん、さっきお父様から電話がありました。昨日のところ、気に入られたようで」
わたしが「はい。母のほうは、父の付き添いの位置づけのように思っていたらしくて、行かないそうです」。
するとケアマネさんも母と話したらしく、「わたしは行くつもりはありません、っておっしゃってました。あくまで付き添いという認識だったんですねえ」と、ため息まじりだ。
こちらにとって常識的な話の流れと理解が、高齢者にとっては、必ずしもあたりまえではないのかもしれない。
しかしこのトンチンカンにも思える展開に共感してもらえる人を得てホットする。
おかしいでしょ、これ。というとまどいを理解してもらえる相手がいてくれてよかった。
わたしたけが矢面になって彼女と話していたら、なんていい加減なキーパーソンなんだと思われたかもしれない。
契約者は両親なのだから、できるだけ両親とも直接話してもらいたい、彼らにも責任を分かち合ってほしい、と逃げの姿勢になる。
父ひとり分の利用契約を結ぶのは、次の木曜日となった。
ケアマネさんから実家にも直接電話をしてくれたらしい。
それなのに、ほかの情報とごちゃ混ぜになって母から父へ伝わったらしく、「今日が契約日のはずなのに、一向に誰も来ない」と夕方、父から電話があった。
ずっと待っていたのに、と少々不機嫌だ。
いっぺんに用事を済ませようと、わたしが電話口で次から次へと情報を詰め込んで話したために、そういうことが起きたのかもしれない。
伝えることはひとつの電話でひとつずつ。それがキホン。
彼らの情報処理能力の限界について思い知った。
他者の立場への配慮、想像力、現在置かれた状況の理解、話の展開からの逸脱など、ひと口に「自分勝手」「もの忘れ」とレッテルを貼ることのできない事情が彼らに発生していたのだ。
こちらが振り回されていると思っていたが、彼らは彼らで、わたしのペースに振り回されていたのかもしれない。
電話口で、矢継ぎ早の説明が誤解を招いたことを謝った。
母も、「ごめんなさいねえ。ボケ老人ばかりで」と申し訳なさそうに言って、かろうじて和やかに通話を終えた。
もしも一方的に相手の勘違いを責めたら相手は頑なにいじけて、険悪な雰囲気のまま後味悪く電話を切ることになっただろう。
それを償うためにまた言い訳の電話をかけ直し、どうしてこちらばかりが……などとかえってモヤモヤとしたかもしれない。
3時間の半日コースである。
1日のデイサービスでは待ち時間が多く、両親曰く、「座ってばかりでお尻が痛くなった」そうだ。
彼らふたりが利用するのを前提に、2枠空いているところをケアマネさんにみつくろってもらい、見学のはこびとなった。
サービスの利用についてあくせくするたびに、いったい誰のためのなんのための利用かわからなくなることがある。
衰弱に向かう命の、自然の流れに抵抗しようとしているだけのような気がする。
現在の訪問リハと訪問看護で落ち着いているところにわざわざ石を投げてかき混ぜようとしているような不安がある。
そうした気持ちを抱きながらの見学であった。
サービスの事業所は、駅近く、比較的交通量の多い場所にある。
利用者さんのお迎えを終えた車がわたしたち3人を迎えにきてくれた。
案内されたのは、こぢんまりとした建物で、前の敷地に送迎車が数台、所狭しと並んでいる。
中にはいると、左側の長テーブルを挟んで利用者さんがお茶を飲み飲みくつろいでいる。
休憩時間のようだ。
ずいぶん前に見学したリハビリ特化のデイサービと同じようなマシンが数台、窓際に並んでいる。
整体用のベッドもいくつか置かれている。
管理者のかたがプログラムについて説明をしてくれる。
そして岩盤浴の体験。
箱の中に敷き詰められた石に足を突っ込むとじんわりと温かい。
冬などは良さそうだ。
説明を受けながらふたりとも大いに乗り気のようだったので、1時間ほど見学を終えて帰宅したあと、さっそくケアマネさんに電話をする。
気が変わらないうちに、という思いがあったかもしれない。
両親ふたりに念も押した。
ケアマネさんはあいにく不在。最近タイミングが合わないことが多い。
契約したい旨を伝言して電話を切った。
父と母、2人の利用——、その時はそのはずだった。
夕食後、どういう弾みか忘れたが母が、「今日のデイサービスは本当に必要なのかしら」と口火を切った。
すると父も、「今日のところはあれでいい。ただ器械の台数が4台で少ないようだ。もうひとつぐらい事業所を見てからそしてそのどちらかに決めたい」と言い出した。
慌てた。
振り出しに戻った気がした。
ふたりにとって適切な場所をケアマネさんが選んで日程調整してくれたというのに……なぜこんなに早く意見が変わる? 昼間には、ふたりで利用しようねと念を押し、そうした雰囲気になっていたのに。
確かにこうしたサービスは利用者主体だ。
気持だって変わるかもしれない。
が、今回ばかりではなく、二転三転する言動が度重なると、それにいちいち振り回されることに苛立ちを感じてしまう。
「そうね、そうね」と口先だけが先んじて前向きなのを、つい間に受けてしまうのは初めてではない。
迷惑をかけることになるケアマネさんに、その都度お詫びをするのも気が重い。
選択肢があり過ぎるのだろうか。
彼らの必要を飛び越えて性急に話を進めようとしたわたしの責任なのか。
その夜は10時半頃まで、ああでもない、こうでもないと話した。
いくら話してもらちがあかない。
利用したいのか、したくないのか、父の本心もわからない。
とりあえず、明日の朝、父が見学のお礼を兼ねてケアマネさんに電話をすることになった。
本人からケアマネさんに、直接言ってほしかった。
わたしの口から、この後戻り的な発言を伝える勇気はなかった。
その夜は、明け方2時ごろに目が覚めて後は眠れなかった。
実家にくるとなにかしらごたごたが起きて寝不足となることが多い。
翌朝、家の消防設備点検の立ち合いのために、早々に実家を出る準備をしていると母が起きてきた。
曰く、「どうかねえ、お父さんの利用は。認知症だし、粗相したりしないかしら」と心配が募っているようだ。
介護度2の利用者や認知症のかたも利用しているという資料を見せてみる。
まあとりあえずやってみたらいいんじゃないの、とわたし。それで無理そうならやめてもいいんだし、と。
「そうやねえ、とりあえずやってみようか。話したら気持ちが軽くなった」と母。
母は自分の不安感を軽くするために、わたしの背中に不安感を乗せる。
そして驚いた。
彼女曰く、「わたしは最初っから利用するつもりなんかないのよ」
なんでも、母はあくまでも父の付き添いとして行こうかと思っており、見学してみたら付き添いの必要はなさそうなので、行かないことにしたのだそうだ。
「お父さんが行っている間、のんびりしたい」のだとも。
お父さんが不在の間のんびりしたい、という気持ちはわかるが、最初っからそうした意図だったことは、この度初めて知った。
それではなんのためにふたり分の枠が空いている曜日を調べてもらったのか。
混乱した。
本当に最初から利用するつもりはなかったのか。
こちらの説明のしかたに不足があったのか。
当然こちらの認識と同じ理解であるという思い込みが、説明不足を招き、母は母で、自分の意図を当然のものとして説明しないものだから、お互いにずっと違う認識でいたということか。
そこへ父が起きてきた。
昨日の器械の台数云々の話は省いて曰く、「昨日行った場所、あそこに決めた。火曜日の利用だから、今来てもらっている訪問リハ2日間のうち月曜日のほうは、とりあえずお休みしようと思う。それを今日、ケアマネさんに電話しようと思う」ときっぱり。
父の方が理路整然と話が通じている。
昨夜の話をしっかり覚えていて、筋もつながっている。
何度も同じことを繰り返して言う。
本人なりに大事な話題であることをしっかり認識しているから繰り返すのだと、ものの本に書いてあった。
むしろ、「もう何度同じことばかり繰り返すの! 全くイライラするわ」という母のほうにわたしは大いに苛立ちを感じる。
何度も繰り返して、確認しておこう、覚えておこうと努めることもなく、するすると聞き流して結果、けろりと忘れている母よりもよほどまともだ。
とはいえ、立ち合いの時間が迫ってきたので、すたこらさっさと実家を出る。
正直、逃げた!
駅の構内で、メロンパンとアイスコーヒーにありついたときは、15分ほどだったが、ひと息ついた。
普通に話が通じる人と話したい、とそう思った。
9時半過ぎ、ケアマネさんから電話が来る。
「娘さん、さっきお父様から電話がありました。昨日のところ、気に入られたようで」
わたしが「はい。母のほうは、父の付き添いの位置づけのように思っていたらしくて、行かないそうです」。
するとケアマネさんも母と話したらしく、「わたしは行くつもりはありません、っておっしゃってました。あくまで付き添いという認識だったんですねえ」と、ため息まじりだ。
こちらにとって常識的な話の流れと理解が、高齢者にとっては、必ずしもあたりまえではないのかもしれない。
しかしこのトンチンカンにも思える展開に共感してもらえる人を得てホットする。
おかしいでしょ、これ。というとまどいを理解してもらえる相手がいてくれてよかった。
わたしたけが矢面になって彼女と話していたら、なんていい加減なキーパーソンなんだと思われたかもしれない。
契約者は両親なのだから、できるだけ両親とも直接話してもらいたい、彼らにも責任を分かち合ってほしい、と逃げの姿勢になる。
父ひとり分の利用契約を結ぶのは、次の木曜日となった。
ケアマネさんから実家にも直接電話をしてくれたらしい。
それなのに、ほかの情報とごちゃ混ぜになって母から父へ伝わったらしく、「今日が契約日のはずなのに、一向に誰も来ない」と夕方、父から電話があった。
ずっと待っていたのに、と少々不機嫌だ。
いっぺんに用事を済ませようと、わたしが電話口で次から次へと情報を詰め込んで話したために、そういうことが起きたのかもしれない。
伝えることはひとつの電話でひとつずつ。それがキホン。
彼らの情報処理能力の限界について思い知った。
他者の立場への配慮、想像力、現在置かれた状況の理解、話の展開からの逸脱など、ひと口に「自分勝手」「もの忘れ」とレッテルを貼ることのできない事情が彼らに発生していたのだ。
こちらが振り回されていると思っていたが、彼らは彼らで、わたしのペースに振り回されていたのかもしれない。
電話口で、矢継ぎ早の説明が誤解を招いたことを謝った。
母も、「ごめんなさいねえ。ボケ老人ばかりで」と申し訳なさそうに言って、かろうじて和やかに通話を終えた。
もしも一方的に相手の勘違いを責めたら相手は頑なにいじけて、険悪な雰囲気のまま後味悪く電話を切ることになっただろう。
それを償うためにまた言い訳の電話をかけ直し、どうしてこちらばかりが……などとかえってモヤモヤとしたかもしれない。