1月4日から1泊2日でひとり住まいの部屋に戻ってきた。
解放感半分、後ろめたさ半分。
わたし自身が”ショートステイ”させてもらっている感じだ。
6日から介護サービスが再開した。
待ちに待った平日がやってきた。
父の訪問リハビリが再開できるとは、ひと月前は思いもしなかった。
もちろん入院中に足腰が衰え、退院後も寝てばかりなので、以前できていた動作も覚束なくなってはいるが。
父のリハビリと、母の訪問看護の時間が重なったので、どんより沈んだ部屋の中がいっとき賑わった。
リハビリスタッフのアドバイスに父が調子よく、「うん、そうだね」「わかった」と受け答えするのだが、あくまでも”お返事”だけであることはスタッフもお見通し。
本人曰く、「返事だけはいいんだよ」とまるでひとごとのようにのたまう。
「そういうところは入院前と変わらないなあ」とスタッフも苦笑いをする。
受け答えはいいのだが、はなから助言を受け入れる気はないのだ
わたしが、「本音がわからないんですよね」と言うと、スタッフも、「ぼくもなかなか見破れないんですよ」と笑いながら言う。
母のほうも、あれだけ訪問看護のぬり絵だのパズルだのを嫌がっていたのに、いざスタッフがやってくると、実に愛想よく楽し気に話している。
ふたりとも本音がわからない。
なにごともなければ、それなりに取り繕いながら日々は無難に過ぎていくが、ひとたび問題が起きると、家族の本質がむき出しになる。
愛想はいいのだが、その実、他人から差し伸べられた手を振り払い、高い壁を作ってきた。
そこには、「何も問題になるようなことはありませんので、放っておいてください」というメッセージが含まれている。
他人に対してだけでなく、家族の間でも、都合の悪いことは何も存在しないかのように、問題は何もないかのように本音を隠して生きてきたのではないかと思う。
翌日7日午前10時半、父の入浴介助のために看護師さんがやってきた。
若い女性の看護師である。
お昼過ぎまで寝ている父を起こすのは至難の業である。
「寝ていたい」という本人を、こちらで決めたサービスの都合に合わせて起床させることに葛藤が起きる。
若ければ、病気が治るまでの辛抱……となるが、どうしても父の齢90歳が頭に浮かんでしまう。
やいのやいのと急き立ててなんとか訪問時間に間にあったが、案の定、入浴介助には抵抗する。
そこをさすがにベテラン看護師さん、ひとりで入浴することの危険性について諄々と説いて、なんとか浴室に父を誘導する。
ホッとするわたしと母。
いくら看護師さんとはいえ、異性の若い女性に入浴介助してもらうのは、抵抗があるだろうなあ、と思うがしかたがない。
無事に入浴が済んで新しい下着にとりかえたとたん粗相があったらしいが、看護師さんは手慣れた様子で処理をしてくれる。
恐縮する母とわたし。
看護師さん曰く、「心筋梗塞の場合、便秘のほうが怖いんですよ。出てくれて良かったです」とにこやかに慰めてくれる。
確かにそうかもしれないが、「出す」場所を大きく間違えてる。
無理やり入浴させられた(と思っている)父なりの反抗のようにも思える。
規定の1時間を大きく超えて、看護師さんが「お大事に」と帰っていった。
訪問看護は、抵抗する本人を説き伏せ、時にはこんな突発的なできごとにも嫌な顔ひとつしないで対応しなくてはならない。
大変な仕事である。
そう感謝しながらも、「でも家族は時間が来たからと言って、帰ることはできないのだな」などと心細くも思うのだった。
解放感半分、後ろめたさ半分。
わたし自身が”ショートステイ”させてもらっている感じだ。
6日から介護サービスが再開した。
待ちに待った平日がやってきた。
父の訪問リハビリが再開できるとは、ひと月前は思いもしなかった。
もちろん入院中に足腰が衰え、退院後も寝てばかりなので、以前できていた動作も覚束なくなってはいるが。
父のリハビリと、母の訪問看護の時間が重なったので、どんより沈んだ部屋の中がいっとき賑わった。
リハビリスタッフのアドバイスに父が調子よく、「うん、そうだね」「わかった」と受け答えするのだが、あくまでも”お返事”だけであることはスタッフもお見通し。
本人曰く、「返事だけはいいんだよ」とまるでひとごとのようにのたまう。
「そういうところは入院前と変わらないなあ」とスタッフも苦笑いをする。
受け答えはいいのだが、はなから助言を受け入れる気はないのだ
わたしが、「本音がわからないんですよね」と言うと、スタッフも、「ぼくもなかなか見破れないんですよ」と笑いながら言う。
母のほうも、あれだけ訪問看護のぬり絵だのパズルだのを嫌がっていたのに、いざスタッフがやってくると、実に愛想よく楽し気に話している。
ふたりとも本音がわからない。
なにごともなければ、それなりに取り繕いながら日々は無難に過ぎていくが、ひとたび問題が起きると、家族の本質がむき出しになる。
愛想はいいのだが、その実、他人から差し伸べられた手を振り払い、高い壁を作ってきた。
そこには、「何も問題になるようなことはありませんので、放っておいてください」というメッセージが含まれている。
他人に対してだけでなく、家族の間でも、都合の悪いことは何も存在しないかのように、問題は何もないかのように本音を隠して生きてきたのではないかと思う。
翌日7日午前10時半、父の入浴介助のために看護師さんがやってきた。
若い女性の看護師である。
お昼過ぎまで寝ている父を起こすのは至難の業である。
「寝ていたい」という本人を、こちらで決めたサービスの都合に合わせて起床させることに葛藤が起きる。
若ければ、病気が治るまでの辛抱……となるが、どうしても父の齢90歳が頭に浮かんでしまう。
やいのやいのと急き立ててなんとか訪問時間に間にあったが、案の定、入浴介助には抵抗する。
そこをさすがにベテラン看護師さん、ひとりで入浴することの危険性について諄々と説いて、なんとか浴室に父を誘導する。
ホッとするわたしと母。
いくら看護師さんとはいえ、異性の若い女性に入浴介助してもらうのは、抵抗があるだろうなあ、と思うがしかたがない。
無事に入浴が済んで新しい下着にとりかえたとたん粗相があったらしいが、看護師さんは手慣れた様子で処理をしてくれる。
恐縮する母とわたし。
看護師さん曰く、「心筋梗塞の場合、便秘のほうが怖いんですよ。出てくれて良かったです」とにこやかに慰めてくれる。
確かにそうかもしれないが、「出す」場所を大きく間違えてる。
無理やり入浴させられた(と思っている)父なりの反抗のようにも思える。
規定の1時間を大きく超えて、看護師さんが「お大事に」と帰っていった。
訪問看護は、抵抗する本人を説き伏せ、時にはこんな突発的なできごとにも嫌な顔ひとつしないで対応しなくてはならない。
大変な仕事である。
そう感謝しながらも、「でも家族は時間が来たからと言って、帰ることはできないのだな」などと心細くも思うのだった。