TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

訪問看護再開

2025年01月11日 | エッセイ
1月4日から1泊2日でひとり住まいの部屋に戻ってきた。
解放感半分、後ろめたさ半分。
わたし自身が”ショートステイ”させてもらっている感じだ。

6日から介護サービスが再開した。
待ちに待った平日がやってきた。
父の訪問リハビリが再開できるとは、ひと月前は思いもしなかった。
もちろん入院中に足腰が衰え、退院後も寝てばかりなので、以前できていた動作も覚束なくなってはいるが。
父のリハビリと、母の訪問看護の時間が重なったので、どんより沈んだ部屋の中がいっとき賑わった。
リハビリスタッフのアドバイスに父が調子よく、「うん、そうだね」「わかった」と受け答えするのだが、あくまでも”お返事”だけであることはスタッフもお見通し。
本人曰く、「返事だけはいいんだよ」とまるでひとごとのようにのたまう。
「そういうところは入院前と変わらないなあ」とスタッフも苦笑いをする。
受け答えはいいのだが、はなから助言を受け入れる気はないのだ
わたしが、「本音がわからないんですよね」と言うと、スタッフも、「ぼくもなかなか見破れないんですよ」と笑いながら言う。
母のほうも、あれだけ訪問看護のぬり絵だのパズルだのを嫌がっていたのに、いざスタッフがやってくると、実に愛想よく楽し気に話している。
ふたりとも本音がわからない。

なにごともなければ、それなりに取り繕いながら日々は無難に過ぎていくが、ひとたび問題が起きると、家族の本質がむき出しになる。
愛想はいいのだが、その実、他人から差し伸べられた手を振り払い、高い壁を作ってきた。
そこには、「何も問題になるようなことはありませんので、放っておいてください」というメッセージが含まれている。
他人に対してだけでなく、家族の間でも、都合の悪いことは何も存在しないかのように、問題は何もないかのように本音を隠して生きてきたのではないかと思う。

翌日7日午前10時半、父の入浴介助のために看護師さんがやってきた。
若い女性の看護師である。
お昼過ぎまで寝ている父を起こすのは至難の業である。
「寝ていたい」という本人を、こちらで決めたサービスの都合に合わせて起床させることに葛藤が起きる。
若ければ、病気が治るまでの辛抱……となるが、どうしても父の齢90歳が頭に浮かんでしまう。
やいのやいのと急き立ててなんとか訪問時間に間にあったが、案の定、入浴介助には抵抗する。
そこをさすがにベテラン看護師さん、ひとりで入浴することの危険性について諄々と説いて、なんとか浴室に父を誘導する。
ホッとするわたしと母。
いくら看護師さんとはいえ、異性の若い女性に入浴介助してもらうのは、抵抗があるだろうなあ、と思うがしかたがない。
無事に入浴が済んで新しい下着にとりかえたとたん粗相があったらしいが、看護師さんは手慣れた様子で処理をしてくれる。
恐縮する母とわたし。
看護師さん曰く、「心筋梗塞の場合、便秘のほうが怖いんですよ。出てくれて良かったです」とにこやかに慰めてくれる。
確かにそうかもしれないが、「出す」場所を大きく間違えてる。
無理やり入浴させられた(と思っている)父なりの反抗のようにも思える。
規定の1時間を大きく超えて、看護師さんが「お大事に」と帰っていった。
訪問看護は、抵抗する本人を説き伏せ、時にはこんな突発的なできごとにも嫌な顔ひとつしないで対応しなくてはならない。
大変な仕事である。
そう感謝しながらも、「でも家族は時間が来たからと言って、帰ることはできないのだな」などと心細くも思うのだった。
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どうなることやら🐍の年

2025年01月04日 | エッセイ
父の入院、退院にまつわるできごとに追われるように12月があっという間に去った。
もはや順序だてて思い出すことさえできない。
合間にひとり住まいの家に戻り、パソコンに向かい、ここ数日のできごとを日記風に書くことで、気持ちを少しだけ冷静に戻すことができる。
わたしのほうが、”ショートステイ”させてもらっている感じだ。

大みそかには、父が風呂にはいりたがり、ひと悶着起きた。
医者からは、危険だからと止められているのだ。
初風呂は、年明けに、訪問看護師さん付き添いのもとでということになっている。
「だいじょうぶだから」と頑として自分ではいろうとする父と「危ないじゃないの! 何かあったらわたしたちが警察に捕まるのよ!」と叫ぶ母。
湯船をつかむ父の手が、からだを支えるのに精いっぱいでプルプル震えているが、それでも彼にしてみれば、「だいじょうぶ」なのだ。
どっちもどっちな発言だが、一事が万事。自分の思い通りに食事をさせようとする母と、「あとで」「落ち着いたら」と言ってのらりくらりと、いつまでたっても食べようとしない父の間でゴタゴタが起きる。
一種のパワーゲームだ。母の言うなりに「食べない」ことで父がその場の雰囲気を牛耳っているように見える。
ふたりとも相手に「主権」を譲りたくないようだ。
そもそも、ずっと寝ているのに、「落ち着いたら食べる」、という言い分も滑稽だ。
母の不機嫌が苦手なわたしはつい母の機嫌をとろうとしまい、このふたりの共依存関係にまきこまれていく。
ヒトにに限らず、食べなくなったらおしまい、という言説も気にかかり、父の摂食量に気分ごと振り回される。
何でもない時にはうまく取り繕えていた家族の関係性が、こうした緊急時にあらわになる。

夜は、慣習にしたがってインスタントそばで年越しそばとする。
入れ歯の不具合からか、歯茎でそばをかみ切ろうと奮闘する父。どうしたって脇からは食べこぼし。
介護はきれいごとではない、と経験者が言っていた意味が少しわかるようになった。
メンタル面だけではない。
風呂にはいらない日が続けば、体全体、いや、部屋全体が匂うようになる。
湯船にはいるとき、洗い損ねた下着が放り込まれていないかをつい、確認してしまうこと……。
父や母の現状だけでなく、こうした些細なことひとつひとつを疎ましく思ってしまう自分から顔を背けたい。
受け入れ難く思ってしまう。
まだ序の口なのに。

さて年が明けた。
元旦は母と、甘ったるい味醂のお屠蘇で地味に乾杯。
わたしが、「とりあえず生きていたね」と言えば、母が「今年は波乱万丈の年になるわね」と返す。
確かにそうかもしれないが、彼女の発言は拘束力を持つ。
彼女の波乱万丈は、そっくりそのままわたしの背中に乗っかってくるだろう。
無事に年を超えたという安堵感はない。
山登りと違い、(医師の言う)山を越えたからといって楽にはならない。
次々と現れる山道をトボトボと、歩いていくのだろう。
いつ発射されるかわからない銃口を背中に向けられながら。

無論お正月気分ではない。
ではお正月気分とはどんな気分だったかと問われれば思い出せない。
デパートの初売りに出かけること? 
テレビの正月番組を観ること? 
負け惜しみではないが、そもそも正月は好きではなかった。
店も休み。テレビ番組は騒々しい。
加えて今回は、訪問看護も包括支援センターもお休みだ。
箱根駅伝はここ数年、興味深く見るようになったが、どんでんがえしの展開がなかったので、今年はいまひとつ盛り上がらなかった。
数年前のコロナ禍、初めてひとりで迎えた正月が1度だけあった。
ゆっくりとおせち料理のおすそわけを食べ、紅白なんて見ずに、除夜の鐘を聞きながら早く寝た。
今思えば、さびしくもなく穏やかな年越しだった。

わたしが「年賀状、届いているかも」と言うと、母がポストまで見に行った。
まだ来ていなかったらしく、「来てないわ。元旦だから年賀状は休みなのよ」と言う。
元旦に来ないでいつ来るんだ?!
母と話がかみ合わないことが多くなった。
同じできごとでも、別の場面ではスッと通じることは多いのに。
認知機能が衰え始めた人に対して、「そうじゃないでしょ!」と否定するのは良くないと書いてあったが、どうしても、母にはもとのしっかりした状態を取り戻してほしいと思い、ついきつい言い方になり、事実を教え込もうとしてしまう。
命に関わることでなければ「そうだね」と調子を合わせておけばいいらしいが、なんだか諦めきれない。
母も、わたしに否定されまいと緊張しているように見える。
緊張すると、余計頭が真っ白になって間違えてしまうのかもしれない。
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ワタクシの前にある介護ベッドとポータブルトイレと……

2024年12月29日 | エッセイ
25日夜7時。
翌日の父の退院に備えて、福祉用具の事業所職員が、介護用ベッドと、ポータブルトイレ、シャワーチェアを届けてくれた。
2メートルほどもありそうな背の高い男性と、がっちりタイプの男性である。
まずはベッドの位置を決める。
居間に据えるか、今までどおり寝室に置くかで検討したが、結局、いっしょに寝起きする母の居心地も考えて、今までどおり寝室に置いてもらうことにした。
鉄でできたベッドの枠を、がっしりタイプの男性がひとり黙々と組み立ててくれた。
ポータブルトイレはお試し版だそうで、木目調のがっしりタイプ。
後輪がついてはいるが、移動させるのにはそうとう重く、場所もとる。
それほど狭くない寝室が、これらの用具でいっぱいになる。
これまで置いてあったごちゃごちゃしたものすべてを廊下に放り出して、ようやく収まった。
病院内でのリハビリの結果、伝い歩きながらトイレまで行けるようになった父が、果たしてポータブルトイレを使う気になるかは疑問である。
杖や手すりでさえ、みっともないと言って使おうとしないのである。
いずれにせよ、トイレごときに木目調なぞ必要がない。お試し期間が終わる年明けに、もう少し軽くてお安いプラスチック製に代えてもらおうと思う。
ベッドを置くことで、寝室がいっきに”介護部屋”らしくなった。
レンタルひとつ申し込みをするのにも、書くべき書類がたくさんあった。
入院してから今までの間、いったい何枚の同意書なるものにサインをしただろう。

翌日26日午前中、退院のため、病院に父を迎えに行く。
朝から母が心なしか張り切って見える。
会計を済ませ、車いすを借りて病棟へ行くと、父本人の朝食がまだ終わっていないらしい。面談室で待つ。
かなりの偏食のために、食事ひとつ摂るのにも、スタッフの手をわずらわせてきたのだろうな、というのが想像できる。
「本日の退院担当の看護師です」と今日初めてお顔を拝見する看護師さんが挨拶に来られた。
日替わりで担当者が変更になるので、入院から3週間あまり、何人の院看護師さんやリハビリスタッフにお世話になったのかわからない。
年末のこの時期、ほかの業務が押しているのか慌ただしい雰囲気がみなぎっており、退院後の処方や年明けの外来日の説明などを早口で受けた。
父を着替えさせつつ、それらの説明を聞く。
地域連携室のスタッフが挨拶に来てくれた。
これまでのケアマネさんと知り合いのようだったので、それだけでなんとなく安心感がある。
お礼のお菓子を看護師さんにぬかりなく渡すと、遠慮しながらも受け取ってくださった。
以後、心なしか愛想がよくなった。
「お世話になりました」「ありがとうございます」を繰り返して病室を出る。
部屋を出るとき父が、「良いお年を」と言ったので、その場にいた一同の間に、「そういえば、年末だったのだわ」というような空気がいっとき流れた。
そうした世間並みの挨拶がすっかり頭から消え去るような慌ただしい雰囲気だったのである。

午後1時半。
地域包括支援センターのケアマネさん3人と、訪問看護事業所の管理者さんがやってきた。
本日付けで、これまでのケアマネさんHさんは退職である。
彼女の元気に支えられてきたところもあるので、わたしはそれが心細くて悲しくてしかたがない。
母が玄関口で彼女に向かって、「〇〇さん、いつもお元気そうでうらやましい」とお愛想を言うと、彼女いわく「そういうふりをしているだけです」と明るく返してくれた。
彼女自身、ご自分の親御さんの介護をしているとおしゃっていた。
彼女の「元気」は、元気なフリの元気だったんだ、と少し共感する。

スタッフが4人そろって、いっきに部屋の中がにぎわった。
ベッドの位置について、皆さん、一応、侃々諤々思いついたことを述べていたが、結局「このままでやってみましょう」ということになった。
最初からそうなることがわかっているような、議論のための議論という感じではあった。
ひととおり確認が終わると、これまでのケアマネさんHさんと、もうひとりのケアマネさんがひと足先に帰ることになったので、玄関まで送る。
部屋に戻ると、母を中心に、「火葬」の話題で盛り上がっていた。
いったいどんな流れでそうなったんだろう。

今後の看護計画について、ケアマネさんと訪問看護の管理者さんから説明を受け、同意書にサインをする。
本当に書くことが多い。
じっくり読んでいる暇はない。
とりあえずワルイ様にはしないんだろう、とそう思うしかない。

管理者さんが父をシャワーに入れてくれることになった。
そのタイミングで残りのケアマネさんが帰る。
皆さん、ご自分の御用が済んだら、さっさとお帰りになる。
まあ、それは仕事なので、あたりまえのことなのだが、そうとわかっていても、いわゆる感情労働のかたには、それ以上のものをどうしても期待してしまう。
父本人は「疲れたから」とシャワーを拒んだが、「そうしたら次は1月6日になっちゃいますよ。動作確認もしたいですから」と管理者さん。
ここでも年末年始問題が出た。
ケアは、本人中心のはずだ。
6日になってしまうのは事業者側の都合だ。
せっかく事業者さんがそう言ってくれているのだからと、本人の希望を代弁してあげられなかったことを、父に対して申し訳なく思う。
この時期のシャワーは寒いのに。
しかしボウボウに伸びたひげと、固く伸びた爪を切ってもらい、父も満足のようだった。
生協さんが今年最後の配達に来る。

人がこうやって来てくれるとメンタル面が助かる。
それを思うと年末年始の休みは辛い。
よりによって長いのだ、今回の休みは。

嵐のあとの静けさ。
朝9時から夕方まで、ぎっしりといろんなことが起きた。
周囲に、入れ替わり立ち代わり人がいた。すべて父に関わってくれた人たちだ。
介助しようと、車の外に出て待ってくれていたタクシーの運転手さん。
途中立ち寄った床屋さんの前で、ドアを押さえてくれていた女性。
健康な時には気づかなかった親切な人達のちょっとした動作や発言に救われもした。
「人の弱いところにつけこんでお金をむしりとってくよね」と介護サービスについて母がこぼした。
確かにそういう見方もあるが、助かる部分も多いのだ。

その夜、「トイレに行く」のに邪魔になるからと、父が自力で、あの重いポータブルトイレを端っこに動かしていた。
このトイレの出番は、幸いなことに少し先になりそうである。

長いような短いような時間感覚がおおいに崩れた12月が終わろうとしている。
わたしも年末年始の休みにはいった。
実家に戻ったついでに自分の部屋を整理しようと段ボール箱を開けていると、中学校時代の国語のノートが出てきた。
石垣りんの詩『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』の感想文が書かれている。
今、わたしの前には、介護用ベッドと、ポータブルトイレと、シャワーチェアがある。
この詩が書かれた当時よりも電化製品がいきわたり、家事も格段に時短となった現在だが、女性の置かれた状況はあまり変わっていないよねえ、などと、このタイミングで現れた感想文ノートを見てそう思う。
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退院に向けて

2024年12月21日 | エッセイ
19日午後2時から、父の入院している病院の地域連携室主催で、退院後支援についての話し合いが行われた。
わたしと母が時間の10分ほど前に到着すると、小さな面談室に案内された。
そこへ病棟の看護師さんが来て、「今日はちょっとたくさん来られるようなので……」と言いながら事務机のまわりに椅子を並べ始めた。
なんでも、実習生を含めて10人ほどだとか。

2時。普段お世話になっている地域包括センターのケアマネさんがふたり来られた。
これまでのケアマネさんは今月いっぱいで退職である。
新しいケアマネさんを伴ってやってきたのである。
「顔見知りの方に来ていいただいて心強いです」と母。確かに、病院ではたくさんのスタッフがローテーションで働いているので、面会のたびに初対面の顔を拝見することになり、心細い思いがしていたのである。

そして2時過ぎ。
どやどやと病院のスタッフが入って来た。
あっというまに小さな部屋が人で充満する。
「密になっちゃいますから」と言いながら、スタッフが部屋の窓を開けた。
「密」という言葉を久しぶりに聞いた。
最近は、退院のたびにこうした大々的な会議が本人やその家族も交えて開かれるのだろうか。
参加者は、本日の司会を担当する連携室のTさん、主治医のS医師、リハビリ担当のYさん、担当看護師のIさん、実習生の若い学生さん。そしてふたりのケアマネさんと訪問看護事業所の管理者さん、わたしと母。
それぞれが軽く自己紹介をして、それぞれの立場から順番に父の状況について話す。
退院できるかどうかというよりも、現在の落ち着いた病状や年末年始の医療体制からして、すでに「退院」という結果ありきで、それに向けての調整や日程の話のようである。
もちろんそこまで回復したのだから喜ぶべきことなのだが、(多勢に無勢ではないが)、父が戻ってきたあとの不安事について口を挟むのがはばかられる。
それを察してこれまでのケアマネさんが代弁してくれる。
それで結果は変わらなくとも、一旦その不安感や心配事に耳を傾けてもらい、そのうえで決まったことならば、と納得もいく。

わたしの年末年始の休みに併せて26日が退院日と決まった。
それに合わせてケアマネさんが介護ベッドやポータブルトイレ、シャワーチェアーの手配を、訪問看護の事業所が訪問看護や訪問リハの調整をしてくれることになった。
この慌ただしい時期に本当にありがたい。
介護認定を受けておいてよかったと思った。
退院の日取りが決まったところで、「ではご本人をお呼びしましょう」と、車いすに乗せられた父が連れて来られた。主役登場だ。
父は、(わたしもそうだが)、その場を盛り上げようと、つい“受け狙い”しようとする傾向がある。
そうした性分は認知症になっても変わらない。
多少失礼な発言も、「認知症なんだから」と大目にも見られているようだ。
父の偏食の話などで座が明るく盛り上がる。
父は90歳である。先日看護師さんが言っていたが、「なにかあっても大往生」である。
病気は治っても老化は食い止められない。
そうした達観のようなものもあっただろうか。

小一時間も経った。
話がスムーズに進行し、退院日もめでたく決まり、「同意書」なるもの3枚ほどにサインをして、解散となった。
祭りのあとの寂しさではないが、先ほどまでが賑やかだっただけに、急に高齢両親と3人取り残されて寂しさがひとしお身に染みた。





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師走に走る

2024年12月18日 | エッセイ
12月初めに父が心筋梗塞で入院してから2週間。
今日明日の命がどうなるかという段階を乗り越え、どうにか年末には退院のはこびとなった。
最近は病院での治療を終えると、できるだけ早く退院へという方向に舵をとるようだ。
この時期は例年、アッという間に月日が過ぎるが、今回は毎日が綱渡り、長い長い2週間であった。
不在時の荷物の受け取りについて生協に電話をするという些細なことから、父のかかりつけ医との調整、本人との面会、ケアマネさんへの連絡、その合間に週3日とはいえ職場に出勤……と毎日なにかしらしなくてはならないことが沸き起こり、いったい今日が何曜日なのか、混乱するほどであった。
勤務時間中にケアマネさんや病院スタッフからの電話を待つのは実に落ち着かなく、拘束時間を不自由に思いもしたが、反面、単純な事務作業を黙々とこなしていると、それだけで気も紛れ、その単調で平和な感じに救われもした。

先日父に面会に行くと、『心筋梗塞まるわかり教本』なるものが病室に置かれていた。
病名の深刻さのわりには、気軽な文言だ。
退院後心がけたほうがいい事項について、運動や栄養の管理について丁寧に書かれている。
しかし同じ病気でも、4,50代の患者と、90歳を超えた患者とでは状況もずいぶんと違ってくる。
「もうお年ですから」とふた言目には言われる年代だ。
自宅に連れて帰って何かあった時の不安を話すと、(まだ生きているんだけど)「90歳といえば、大往生ですよね」などと若い看護師さんに明るく言われたりもする。
そこが医療関係者という他人と、家族の立場の違いによるものだとわかっていても、なんだかもやもやとする。
残りの人生、なるべく楽しく過ごしてほしいというのは本当だが、そうなると教本の内容をどこまで”強制”するべきかわからなくなってくる。
父は極度の偏食であり、塩分控えめ、野菜をたくさん摂りましょうなどという教えは、ほぼ実現不可能なのだ。(だからこうした病気になったのかもしれないが)。

明日19日は、病院の地域連携室で、担当スタッフとケアマネさんと、在宅支援についての面談がある。
本人は帰宅を強く希望している。
年末年始は医療機関の体制が手薄だ。年末ぎりぎりまで病院で面倒を見てもらいたいというこちらの願望は、あくまでも本人のためというよりも、こちらの「安心」のためだ。
「果たしてこれでよかったのかな」「これでいいのだろうか」という(苦手な)「選択肢」問題が続きそうである。
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