TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

再入院で思うこと

2025年01月19日 | エッセイ
1月17日。
退院して自宅療養中の父がお腹をこわした。
もともとお腹の調子が良くない父であるが、ここ2,3日ほとんどなにも食べていない。
少し移動するのにも大儀そうだ。
本人は受診を嫌がっているが、主観と客観、どちらを優先するべきなのか素人にはわからない。
24時間対応の訪問看護師さんが様子を見に来てくれた。
血圧が60まで低下しているという。
近所の消化器内科クリニックを受診するのが妥当だろうということになった。
彼女に介護タクシーを手配してもらったが、配車にはそうとう時間がかかりそうだ。
そうかと言って、座位を保つのがやっとな状態で普通のタクシーはむずかしい。
折しもインフルエンザの流行中、クリニックは大繁盛の模様だ。
そんなところで父を待たせたら、感染症までいただいて帰ってきそうである。

結局、看護師さんが、先月まで入院していた病院に連絡をとってくださり、救急の受け入れの話をつけてくれた。
いつもは母を相手にぬり絵だの折り紙のお相手をしてくれている看護師さんが、この日は俄然、頼もしい救世主に見える。
119番をしようとすると、地域包括支援センターの女性ふたりが賑やかにやってきた。
担当のケアマネさんが不在なので、その代わりに来てくれたらしい。
救急車を呼ぶことにしました、と伝えると、「そうでしょう。わたしたちも、そうしたほうがいいと話していたところなんですよ」とおっしゃる。
なんでも介護タクシーの手配に奔走してくれていたらしい。
有り難いが、彼女たちの話が長引きそうなので、「119番していいですか」と尋ね、スマホで連絡する。
その間にも彼女たち、玄関先から、父の寝ている寝室を覗き込み、「お顔を拝見できてよかった」と満足そうに言う。
仏を拝んだような口ぶりだ
。訪問先で、本人の顔を見る、見ないというのは、彼女たちの仕事の達成度をはかるバロメーターのひとつになっているのだろうか。
本人にとっては、そんなこたあ、知ったことではないにちがいないが。

救急車はなかなか来ない。
今や、インフルエンザの患者で近くの病院が満床らしいので、救急車もたてこんでいるのだろう。
スタッフのひとりが、お薬手帳、保険証、本人の靴、処方薬、印鑑など、付き添う時に持参するものをてきぱきと指示する。
「ちょっとすいません」と言いながら、家にあがり、お薬カレンダーから処方薬を取り出して、持たせてくれる。
素早い行動だ。
こうした状況は手馴れているのだろう。
使命感に燃えているというような、語弊はあるが、少々はずんだような声にも聞こえる。
人は人の生き死にに関わるような現場に立ちあうと、自然、そんな感じになるのかもしれない。
大災害や大きな事故の目撃者が、インタビューアーの差し出すマイク越しに高揚感に満ちた声と態度で話すのと似ている。

遠くから、やっとサイレンの音が聞こえてくる。
不謹慎だが、わたしも上ずった気分になる。
救急車が家の前に止まった。回転灯が、あたりをくまなく照らす。
夕方4時過ぎ。まだほんのり明るい。
青い服を着た隊員が3人どやどやと家の中にはいってきた。
それほど狭くない寝室が、体格のいい3人の青い制服で埋まった。
ベッドに横たわる父の下にシートを手際よく敷いて、うまい具合に持ち上げて、庭に置かれたストレッチャーに運ぶ。
「頼もしいわあ」と母が感激している。
出発間際に、スタッフが、「火の元だいじょうぶ?」「鍵はOKね」とてきぱきと言う。
わたしたち4人の女性がごちゃごちゃいるので、救急隊員が、「同乗されるのはどなたですか」を質問する。
母とわたしが見送られて慌ただしく乗り込む。
スタッフに挨拶したかどうかも覚えていない。

救急車の中で、119番するまでの経緯を聞かれる。
わたしもまた先ほどのスタッフ同様、使命感のようなものに煽られて、できるだけ正確に細かく伝えようと、張り切ってしまう。
妙な言い方かもしれないが、はしゃいで聞こえたかもしれない。
こんな時にも、こんな時だからこそか、しっかりした娘を演じて褒められたいのだろうか。
血圧は100を超えていると言う。
さっき60、60と騒いだ後なので恐縮したが、それを察したのか、「よかったです」と救急隊員のひとりが言ってくれた。

救急車に付き添いとして乗ったのは初めての経験だ。
自分がぎっくり腰の患者本人として乗った時には染みだらけの白いカーテンが下がっていたが、今回は、グレー地のヒダのはっきりと付いた、まだ新しいものだった。
後ろの席から運転席の窓を眺めると、いろんな備品に遮られて、意外に視野が狭い。
交差点や信号のあたりで、救急隊員がお礼を言っているのが聞こえたが、どういう状況なのかがよくわからない。

見覚えのある景色を見ながら、救急車は病院に着いた。
大きなノックの音がして、車の後ろのドアが開いた。
ストレッチャーに乗せられた父が引き出され、そのあとをついて、救急外来室まで行った。
案内してくれた守衛さんが「お大事に」と言って、持ち場に帰って行った。

夕方も遅い時間帯ということで、外来の待合室にはひとけがない。
壁のテレビでは、大相撲が放送されている。
同じく救急で搬送されたかたの家族と思しき人たちが、ポツンポツンと固まって座っている。
書類を書きながら待っていると、前回入院した時の主治医が挨拶に来てくれた。

長い時間が経った。
大相撲はとっくに終わった。
外は真っ暗だ。
どうやら入院になるらしい。
部屋が決まったということで、非常灯だけに照らされた真っ暗な廊下を、ストレッチャーに乗せられた父を小走りに追いかけた。
もう少しゆっくり歩いてくれればいいのに……。
付き添いの母はリュックを背負ってよたよた付いてくる。
廊下のつなぎ目で、ストレッチャーが大きな音をたてて上下する。

前回と同じ、2階の〇病棟だ。
父は病室に運ばれたが、わたしと母は面談室で待つように言われた。
先月、地域連携室のスタッフを交えて退院後の生活について話し合いがあった部屋だ。
ここでもまた書類を書かされた。
長い長い時間が経った。
あとまわしにされているような気がしてくる。
ようやく、パソコンを押してやってきた看護師が、パソコンの画面を見ながら、「重度の脱水症と腸炎の疑いのようです」と説明する。
機械的な説明のしかたのように感じる。
「当面、口にできるのは、水かお茶。本人の希望を聞いて部屋に置いておいてください」とひとこと。
なんだかそれも味気ない口振りのように感じられて違和感が残った。
もう90歳ですからねえ、という言葉が浮かぶ。

父に面会する。
相変わらず、入院は不本意のようだ。
今回の体調不良が重度の脱水症なら、退院しても同じことが起きる可能性がある。
本人の「食べたくない」「飲みたくない」を優先させて命を縮めてしまうのか、それとも無理やりにでも飲み食いさせて、少しでも永らえてもらうのか。
重度の脱水と聞いて、自分たち家族の、管理の甘さも思う。
と同時に、87歳の母が言った「わたしだったらもうそっとしておいてほしい」は、そのまま鵜呑みにはできないものの、軽視できない言葉だとも思う。

翌日、入院に必要なものを持って面会がてら病院にひとりで行くと、点滴で養分がからだの隅々まで行き渡ったのか、父の血色も昨日よりずっといい。
父本人は、すぐにでも家に帰るつもりのようだ。
退院は、口から摂食できるようになってかららしい。
父曰く、「お母さんには、ベッドでぴょんぴょん跳ねていたと伝えてくれ」。
相変わらず強がりだ。
周りはもう90歳だからなんて言うが、本人は生きる気満々なんだと思う。
その気持ちをやはり優先したい。
30分の面会時間があっという間に過ぎた。
「もういいから帰れ」と父。
娘には遠慮があるのか、それとも家にひとりいる母を気遣ってなのか。
「また来るね」「元気でね」と言って、父の手の平を軽くたたく。
女性の指のようにほっそりとやせた父の指は、ひんやりとしていた。

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記憶にございません

2025年01月15日 | エッセイ
夕方、宅食業者から食料品が届いた。
配達員が驚くほどの大量のモノがドカドカと玄関先に積み上げられる。
母曰く「頼んだ覚えがないのに届いた」らしい。
ああ。またやられた。
覚えていないのだから、母にしてみれば覚えがないものが勝手に届いたように思うのだろうが、ほぼ間違いなく、注文書には書いたのだろう。
今回が初めてではない。
母に言わせれば、注文もしないものをしょっちゅう届けてくるワルイ会社らしいが、もしもそれが事実なら、悪徳業者として、とっくに告発されているだろう。
それにしても今回はすごい量だ。
前回は、2ダースのお茶だけで済み返品したが、今回は、5キロのコメふた袋、カルピスソーダ6本、ご飯6パック、野菜ジュース1リットル、果物ジュース1ダース、缶詰3個、プリン6個入り、3連コーヒーゼリー、長持ち豆腐1ダース、冷凍うどん、冷凍パスタ、じゃこなどなど。
返品可能な常温保存だけでなく、もはや返品不可能の冷凍冷蔵ものまでもりだくさんである。
本当に欲しくて頼んだものがどれなのか、本人もわからなくなっている。
念のため、宅食サービスセンターに確認の電話をすると、どれもこれも注文書に記入があるという。
1本のつもりが1ダースだったというような、あるあるな間違えの範囲を大きく逸脱している。
うんざりした。
「なんでこんなことに巻き込まれなくてはいけないんだ」と思い切り迷惑顔でわたしは言い放つ。
母はあくまでも、「頼んだ覚えがないのよ。プリンなんて欲しいと思ったこともない」と非を認めようとしない。それがまた腹が立つ。
翌朝になってもまた同じことを主張し続ける。
「もう宅食は止めるわ」ときっぱり。
あくまでも業者をワルモノにしたいらしい。
それはいいが、その分の買い物をわたしがしなければならなくなるに決まっている。

間違ったのが業者であろうと母であろうと、わたしにとっては関係がない。
返品というわずらわしい手続きを押し付けられたという事実。
わたしにとって大事なのはそれだけだ。
さらに、返品不可能なものを、食べたくもないのに、もったいないからとせっせと食べずにはいられない性分なのである。

昔の母に戻ってほしくて、もの忘れをピシッと指摘したり、「そうじゃないでしょ!」「今日は〇曜日でしょ!」「どこにしまったの!」と、つい、きつい言い方をしてしまう自分が嫌になる。
ひとり住まいの空間は、もはやわたしにとってシェルターのようになっている。
そのシェルターに向かう日、朝も早よから起き出して、ひとつ先の駅にあるパン屋さんで朝食を食べる時の気分といったら、まるで「脱出した」かのようだ。
「今は落ち着いているからだいじょうぶよ」という母の言葉をいいことに、振り切るように「逃げ出した」のだという気持ちがつきまとう。

先日の父の診察の日、車いすを押してすっ飛ばしたわたしに対して、「疲れたでしょう」とねぎらってくれたのは、今までと変わりない母であった。
リュックサックを背負って必死にあとをついてきた彼女自身もしんどかっただろうに、こちらをねぎらってくれた。
しんどい人には、相手のしんどさがわかる。
検査や診察時間のことで頭がいっぱいだったとはいえ、もっとゆっくり歩いてあげればよかったと思う。

変わってしまった母と、普段の母とが日替わりでやってくる。
そのたびに血がのぼったり、このように反省したりと、日々不穏である。


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車いすは走る

2025年01月13日 | エッセイ
父の退院2週間後の診察日がやってきた。
じっと家に閉じこもった状態が続くと、病院であれ、外出できる用事ができるとどこかホッとする。
10時の検査に間に合うよう早めに父を起こしたのはいいが、そのあとひと悶着が起きる。
「さっさと用意をさせたい母」と、きちんと時間配分をして行動しているつもりの父との間で“主導権争い”になったのだ。
はいて行くズボンひとつとっても父は譲らない。
「何を着て行ってもいいじゃないの」と怒鳴る母。
そう言われれば言われるほど、父が意固地になり声を荒らげる。
彼がこんなに声を荒らげるのは初めてだ。
自分の意志を無視されて無理強いされるのを嫌うたちだ。
認知症の周辺症状は、こんなことの繰り返しで悪化するのではないか。
時間に若干余裕があったので、とりなすつもりでわたしが父の主張するズボンとベルトを取りに和室に行く。
満足そうに父がベルトを選ぶ。
母としては、わたしが父の味方みたいになっているのが、気に入らないのかもしれない。
いつまでも忌々しそうな声で文句を言っている。
ある程度父の好きなようにさせればいいのにと思うが、母自身、心身共に余裕がなくなっている。
軽度の認知障害のゆえんか、感情が表に出やすくなった。忌々し気なため息が増えた。
母のこうした不機嫌な声を聞くとわたしは自分が責められているような気がしてしまう。
母の怒鳴る声も聞きたくない。うんざりだ。「もう、いやだわ!」と思わずわたしは声に出してしまう。

急がば回れ。結局、予定していた時間よりも早めに用意が整い、タクシーを呼ぶことができた。
もしもあの場に父と母、ふたりきりだったとしたらあそこまでこじれただろうか。
わたしという仲介役がいたから彼らは安心していがみあったのではないか。
タクシーに乗るとふたりともおとなしくなった。
外面がいいのだ。
外でケンカをすることはない。

病院に着くと、有無を言わせず車いすに父を乗せた。
検査のために3か所を回らなくてはならない。
歩かせていたら、1時間後の診察時間に間に合わない。
不案内な建物の中、番号表示を頼りに小走りに車いすを押す。
狭い廊下に患者さんがびっしりと座っている。大きな病院にありがちな光景だ。
ある時は人を追い抜き、ある時はよけながら、慣れない車椅子を押す。
父を車いすに乗せて押す娘の心境はいかに? などと自問自答しようとしたが、気持ちが急いているせいか、じっくりと味わうこともできない。
ひたすら目的の検査室目指して邁進する。
父の着替えを背負い、とぼとぼと後をついてくる母を時々振り返る。
父も、母がちゃんと付いてきているかどうか心配なようだ。
なんたって彼女の方向音痴はお墨付きなのだ。

心電図検査が終わり、父を車いすに乗せて検査室を出ようとしたら、衝立の向こうでドスンという音がした。
ほどなく隣のスペースが慌ただしく異様な空気に包まれた。スタッフが「AED!」と叫んでいる。
検査中の人が倒れたらしい。
あたりが騒然とした。
ひとりの男性スタッフが押し殺した声で、「こちら検査室5番」とマイクに向かって何度か呼びかけると、あっちからもこっちからも、あれよあれよという間にスタッフが集まってきた。
病院中の職員が全員集合したような数だ。
不謹慎ながら、まるでドラマを見ているようである。
先日、退院時のミーティングで司会をしていた地域連携室のスタッフも、紙と鉛筆を持ってやってきた。
救命の補助に来たというよりも、みなさん、お勉強のためにやってきたのだろうか。
患者さんは息を吹き返したらしく、励ますスタッフの声が聞こえる。
肝心のストレッチャーがなかなか来ない。
人はあんなに大勢集まったのに、一刻も早く患者を移動させるストレッチャーを持ってくるような気の利いたスタッフはいなかったようだ。
ストレッチャーの通り道になるからと、わたしたちは、邪魔にならない位置にしばし待機させられた。
この騒ぎを検査室の待合室で目撃していた母がひとこと、「お父さんが倒れたのかと思った」。
それでそんなに落ち着いているのが不思議である。

11時の診察予約時間を大幅に過ぎた。
検査の結果は、心臓への負担がひと月前よりも格段に減り、安定しているとのこと。
もちろん検査結果が良くてなによりだが、それで老化が止まったわけではない。
先生もなにやら忙しそうにせかせかとしていたので、お礼を言う暇もなく、こちらもせかせかと薬の一包化をお願いして診察室を出た。
普段、寝てばかりいることにたいしては、特段問題視されなかった。
それもこれも、だって90歳だもんね、ということだろうか。
ここで優先されるべき関心事は、あくまでも心臓の状態なのだ。

支払いを済ませてから病院の食堂に寄る。
貴重なひとときだと思うのだが、疲れていたのかなんなのか、昼の時間をかなり過ぎていたこともあり、あまり味あわずにガツガツと食べた。
入れ歯を持ってくるのを忘れた父だが、カツカレーをほぼ完食した。
歯の代わりをするために、歯茎というもの、固く発達するものであるらしい。
病院の送迎バスに乗って、駅まで出て、床屋に行った。
入院以来伸び放題の父の髪の毛と髭のカットがようやくできた。

お昼過ぎのタクシー乗り場。
日差しはあるが、風が猛烈に冷たい。
車がなかなか来ない。
わたしともうひとりの男性との間で、タクシーの順番を巡ってちょっとした小競り合いが起きる。
物騒な世の中、もしもわたしがひとりだったら、不本意ながら順番を譲ったかもしれないが、この寒風の中、両親を待たせるわけにはいかない。
一刻も早く乗車したい。
前に並んでいた女性が味方になってくれたこともあって先を譲らず。
相手の男性も、老いた父親を連れていたので同じ気持ちだったかもしれない。
ようやくやってきたタクシーにわたしたちは先に乗り込んだが、あと味の悪い思いが残った。



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訪問看護再開

2025年01月11日 | エッセイ
1月4日から1泊2日でひとり住まいの部屋に戻ってきた。
解放感半分、後ろめたさ半分。
わたし自身が”ショートステイ”させてもらっている感じだ。

6日から介護サービスが再開した。
待ちに待った平日がやってきた。
父の訪問リハビリが再開できるとは、ひと月前は思いもしなかった。
もちろん入院中に足腰が衰え、退院後も寝てばかりなので、以前できていた動作も覚束なくなってはいるが。
父のリハビリと、母の訪問看護の時間が重なったので、どんより沈んだ部屋の中がいっとき賑わった。
リハビリスタッフのアドバイスに父が調子よく、「うん、そうだね」「わかった」と受け答えするのだが、あくまでも”お返事”だけであることはスタッフもお見通し。
本人曰く、「返事だけはいいんだよ」とまるでひとごとのようにのたまう。
「そういうところは入院前と変わらないなあ」とスタッフも苦笑いをする。
受け答えはいいのだが、はなから助言を受け入れる気はないのだ
わたしが、「本音がわからないんですよね」と言うと、スタッフも、「ぼくもなかなか見破れないんですよ」と笑いながら言う。
母のほうも、あれだけ訪問看護のぬり絵だのパズルだのを嫌がっていたのに、いざスタッフがやってくると、実に愛想よく楽し気に話している。
ふたりとも本音がわからない。

なにごともなければ、それなりに取り繕いながら日々は無難に過ぎていくが、ひとたび問題が起きると、家族の本質がむき出しになる。
愛想はいいのだが、その実、他人から差し伸べられた手を振り払い、高い壁を作ってきた。
そこには、「何も問題になるようなことはありませんので、放っておいてください」というメッセージが含まれている。
他人に対してだけでなく、家族の間でも、都合の悪いことは何も存在しないかのように、問題は何もないかのように本音を隠して生きてきたのではないかと思う。

翌日7日午前10時半、父の入浴介助のために看護師さんがやってきた。
若い女性の看護師である。
お昼過ぎまで寝ている父を起こすのは至難の業である。
「寝ていたい」という本人を、こちらで決めたサービスの都合に合わせて起床させることに葛藤が起きる。
若ければ、病気が治るまでの辛抱……となるが、どうしても父の齢90歳が頭に浮かんでしまう。
やいのやいのと急き立ててなんとか訪問時間に間にあったが、案の定、入浴介助には抵抗する。
そこをさすがにベテラン看護師さん、ひとりで入浴することの危険性について諄々と説いて、なんとか浴室に父を誘導する。
ホッとするわたしと母。
いくら看護師さんとはいえ、異性の若い女性に入浴介助してもらうのは、抵抗があるだろうなあ、と思うがしかたがない。
無事に入浴が済んで新しい下着にとりかえたとたん粗相があったらしいが、看護師さんは手慣れた様子で処理をしてくれる。
恐縮する母とわたし。
看護師さん曰く、「心筋梗塞の場合、便秘のほうが怖いんですよ。出てくれて良かったです」とにこやかに慰めてくれる。
確かにそうかもしれないが、「出す」場所を大きく間違えてる。
無理やり入浴させられた(と思っている)父なりの反抗のようにも思える。
規定の1時間を大きく超えて、看護師さんが「お大事に」と帰っていった。
訪問看護は、抵抗する本人を説き伏せ、時にはこんな突発的なできごとにも嫌な顔ひとつしないで対応しなくてはならない。
大変な仕事である。
そう感謝しながらも、「でも家族は時間が来たからと言って、帰ることはできないのだな」などと心細くも思うのだった。
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どうなることやら🐍の年

2025年01月04日 | エッセイ
父の入院、退院にまつわるできごとに追われるように12月があっという間に去った。
もはや順序だてて思い出すことさえできない。
合間にひとり住まいの家に戻り、パソコンに向かい、ここ数日のできごとを日記風に書くことで、気持ちを少しだけ冷静に戻すことができる。
わたしのほうが、”ショートステイ”させてもらっている感じだ。

大みそかには、父が風呂にはいりたがり、ひと悶着起きた。
医者からは、危険だからと止められているのだ。
初風呂は、年明けに、訪問看護師さん付き添いのもとでということになっている。
「だいじょうぶだから」と頑として自分ではいろうとする父と「危ないじゃないの! 何かあったらわたしたちが警察に捕まるのよ!」と叫ぶ母。
湯船をつかむ父の手が、からだを支えるのに精いっぱいでプルプル震えているが、それでも彼にしてみれば、「だいじょうぶ」なのだ。
どっちもどっちな発言だが、一事が万事。自分の思い通りに食事をさせようとする母と、「あとで」「落ち着いたら」と言ってのらりくらりと、いつまでたっても食べようとしない父の間でゴタゴタが起きる。
一種のパワーゲームだ。母の言うなりに「食べない」ことで父がその場の雰囲気を牛耳っているように見える。
ふたりとも相手に「主権」を譲りたくないようだ。
そもそも、ずっと寝ているのに、「落ち着いたら食べる」、という言い分も滑稽だ。
母の不機嫌が苦手なわたしはつい母の機嫌をとろうとしまい、このふたりの共依存関係にまきこまれていく。
ヒトにに限らず、食べなくなったらおしまい、という言説も気にかかり、父の摂食量に気分ごと振り回される。
何でもない時にはうまく取り繕えていた家族の関係性が、こうした緊急時にあらわになる。

夜は、慣習にしたがってインスタントそばで年越しそばとする。
入れ歯の不具合からか、歯茎でそばをかみ切ろうと奮闘する父。どうしたって脇からは食べこぼし。
介護はきれいごとではない、と経験者が言っていた意味が少しわかるようになった。
メンタル面だけではない。
風呂にはいらない日が続けば、体全体、いや、部屋全体が匂うようになる。
湯船にはいるとき、洗い損ねた下着が放り込まれていないかをつい、確認してしまうこと……。
父や母の現状だけでなく、こうした些細なことひとつひとつを疎ましく思ってしまう自分から顔を背けたい。
受け入れ難く思ってしまう。
まだ序の口なのに。

さて年が明けた。
元旦は母と、甘ったるい味醂のお屠蘇で地味に乾杯。
わたしが、「とりあえず生きていたね」と言えば、母が「今年は波乱万丈の年になるわね」と返す。
確かにそうかもしれないが、彼女の発言は拘束力を持つ。
彼女の波乱万丈は、そっくりそのままわたしの背中に乗っかってくるだろう。
無事に年を超えたという安堵感はない。
山登りと違い、(医師の言う)山を越えたからといって楽にはならない。
次々と現れる山道をトボトボと、歩いていくのだろう。
いつ発射されるかわからない銃口を背中に向けられながら。

無論お正月気分ではない。
ではお正月気分とはどんな気分だったかと問われれば思い出せない。
デパートの初売りに出かけること? 
テレビの正月番組を観ること? 
負け惜しみではないが、そもそも正月は好きではなかった。
店も休み。テレビ番組は騒々しい。
加えて今回は、訪問看護も包括支援センターもお休みだ。
箱根駅伝はここ数年、興味深く見るようになったが、どんでんがえしの展開がなかったので、今年はいまひとつ盛り上がらなかった。
数年前のコロナ禍、初めてひとりで迎えた正月が1度だけあった。
ゆっくりとおせち料理のおすそわけを食べ、紅白なんて見ずに、除夜の鐘を聞きながら早く寝た。
今思えば、さびしくもなく穏やかな年越しだった。

わたしが「年賀状、届いているかも」と言うと、母がポストまで見に行った。
まだ来ていなかったらしく、「来てないわ。元旦だから年賀状は休みなのよ」と言う。
元旦に来ないでいつ来るんだ?!
母と話がかみ合わないことが多くなった。
同じできごとでも、別の場面ではスッと通じることは多いのに。
認知機能が衰え始めた人に対して、「そうじゃないでしょ!」と否定するのは良くないと書いてあったが、どうしても、母にはもとのしっかりした状態を取り戻してほしいと思い、ついきつい言い方になり、事実を教え込もうとしてしまう。
命に関わることでなければ「そうだね」と調子を合わせておけばいいらしいが、なんだか諦めきれない。
母も、わたしに否定されまいと緊張しているように見える。
緊張すると、余計頭が真っ白になって間違えてしまうのかもしれない。
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