箕面の森の小さなできごと&四季の風景 *みのおハイキングガイド 

明治の森・箕面国定公園の散策日誌から
みのおの山々を歩き始めて三千余回、季節の小さな風景を綴ってます 頑爺<肇&K>

森にごみを捨てないで下さい! 

2007-02-15 | *編集・その他

 森にごみを捨てないで下さい・・・ 怒ってます!

 

 

ごみを森に無造作に捨てている方を見かけます。 

捨てられたプラスチックやビニールやビン、缶などはこれから100年間、いや

もっとそれ以上・・・貴方の孫やひ孫の時代にまで森の中で置かれ続くの

ですよ。

家の中の心安らぐ部屋の中に貴方は空き瓶や空き缶をほり投げておき

ますか・・・?

森は貴方の心やすらぐ部屋と同じです。

「自分の出した森のごみは全て持ち帰る・・・」 事にしましょうよ。

 

一人一人が心して、少し意識すれば、誰か人が見ていようが 見ていなくても

ちょっとした心遣いでポイ投げの連鎖が防げると思いますよ。

この前、修験道で若者が飲んだ空き缶をどこまで投げられるか山の尾根で

競っているところに出くわしました。        

私の怒りは頂点に達しました。

上からは見えませんが、下にはいくつも山道が通り、どこをハイカーの人が

歩いているかもしれません。     

私の怒り声に一瞬ひるんだものの反撃してきました。

 

   *  なに言うてるねん!  ここにもあっちにもいっぱいっぱい棄てて

       あるやん。

       なんで俺らだけ怒られないかんね・・・ 

       さっきもな~そこで飯食ってたらおじんや おばんが食べた後、

       藪のなか・・・放ってるの見たもんな・・・

私は ダメなものはダメなんや・・・ と、諭す事しかできませんでしたが、

マ ナーを示さねばならない大人から常識に欠けることをしていたら、何をか

言わんやです。

だから連鎖を防ぐ為にはまず自分から、次いで家族,友人、親しい人へと

棄てない習慣が伝わっていけばいつか悪習は少なくなると思いますが・・・。

 

それとも・・・あの車のシートベルト無着用時には高かった事故死亡率が、

罰則が強まり、皆が否応なしに着用するようになってから急に死亡率が減り、

いつしか着用が習慣化しましたね。

人間、あるときは共生していく為に、罰則を持った強制化が必要なので

しょうか?。

 

少し悲しいですが・・・ 

例えば国によっては森へのごみ棄ては10万円の罰金だったか?

かなりの罰則のようで、そのとき読んだ本を他人事のように見ていて、今どこ

へいったか分かりませんが、日本でもそんな法律が必要な時期が、その内

くるのかもしれません。

 

昨日は、EXPO90箕面の森から五月山ドライブウエイを歩き、途中から

天上ケ谷へ向かいましたが・・・

途中,池田側の斜面にはおびただしいごみが棄てられていて呆然としました。 

夜にでも車で棄てに来るのでしょうか? 

(もっともこの前は昼間から堂々と棄てている車を山の上から丁度目撃して

大声をあげたらビックリしてすぐ飛び乗っていってしまいましたが、そのときは

もうほとんど棄てた後でした )

 

アルピニストの野口 健さんがやっておられるあの世界のエベレスト清掃

登山、モンブランもエベレストも ごみが多いんですってね・・・

それに2003年から始められた富士山清掃登山、大変なごみの量だそうです

が、不法投棄されたごみや、トイレから垂れ流された汚物による環境問題

から自然遺産登録からも外されたとか・・・

日本の象徴、霊峰富士山がこれでは世界にも恥かしいですね。

でも野口さん達はまず「富士山から日本を変える」をスローガンに活動されて

いる姿には賛同し、敬服しています。

 

「箕面から日本の森を変える・・・」 なんて、心意気と気概でやってやって

行きたいものですが、先ずは自分からです。  

千里の道もまず一歩から・・・ と、言いますからね。

 

 

(お知らせです・・・)

 

第三回 箕面の山をきれいに・・・大掃除大作戦

  (参加者募集 !)

   

みのお山麓保全委員会と箕面パトロール隊は、毎月定期的に

箕面の山や森のゴミ拾い活動を続けてきましたが、毎回数人の体制

では大量のゴミ収集は難しく、次の要領で「大掃除大作戦」を催す事に

なりました。

ぜひ、たくさんの方々のご参加をお願いいたします・・・・とのご案内です。

* ちなみに私も参加の予定でいます *

 

日   時   3月25日(日) 雨天時は31日(土)に順延

時   間   9時(受け付け8時半~ )

集合場所   阪急、箕面駅前の「箕面観光案内所」前へ

大掃除場所  箕面、才ケ原林道一帯

参加費     無料(保険あり)

準備物     ご自分の昼食、飲み物、雨具,タオルなど

募集人数    200人

 

問い合わせは・・・

NPO法人 みのお山麓保全委員会

電話 072-724-3615

  

07-2 (完)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の生まれ故郷 信州・安曇野(あずみの)を想う (D-3)  

2007-02-15 | 箕面の森のあれこれ話し!

 私の生まれ故郷 信州・安曇野(あずみの)を想う!

   

 

私は、長野県南安曇郡 南穂高村立小学校に入学しました。 

家は藁葺きの平屋で、祖母が家の前で野菜を作っていた。                            国鉄大糸南腺の「豊科駅」と篠ノ井線の「田沢駅」の中間に位置する「寺所村」に住んでいたが、は私が2歳のとき病死し、は父から感染した結核の為、松本の国立療養所にいて,面会もままならず私は田舎で祖母と暮らしていた。

 

朝起きて、裏木戸を開けて外に出ると・・・目の前には万年雪を抱いた常念岳(2857m)、横通岳(2767m)、大天井岳(2922m)が正面に見え、左方面には穂高岳(3190m),大滝山(2616m)、槍ヶ岳(3180m)、右方面には有明山(2268m),遠く鹿島槍(2889m)、白馬岳(2932m)など・・・

この日本アルプス連山の見事な景観はいつも当たり前のように見ていたが、しかし子供ながら真冬の晴れた日に見上げる真っ白な山々や、春から夏にかけて・・・また秋から冬にかけての山の移り変わりには子供ながら何か畏敬的で神秘的なものを感じていた。

 

になると田畑はレンゲ草のピンクの花で埋め尽くされ、頭上には天高くヒバリが囀っている・・・麦畑で新芽を踏む手伝いをしながら、なぜせっかく出てきた芽を踏むのか不思議だった・・・祖母は畑に種をまいている。

アルプスの山々の雪が少なくなってくると野山は新緑で溢れ、花や木が一斉に綺麗なを咲かせ始める・・・生き生きとした新鮮な季節が始まるとみんな嬉しくなってくるのだった。

 

になると野菜畑にはいろんな野菜が実ってくる・・・大きなトマトを取って、横の小川で洗って口いっぱいにほおばったとき、目の前に大きなアオダイショウがこっちを向いていて,ビックリしたり・・・でもその小川では、竹で編んだザルを持ってよくどじょうすくいをした・・・沢山取れて祖母に持っていくとそれを甘辛く煮て出してくれたが生臭くて嫌いだった。

 

家の周りにはいろんな果物の木があった。栗,柿、梅,桃、ぐみ、サクランボ、ぶどう、 くるみ、りんご、アンズ、はらんきょう(スモモ)・・・それに名前はよく知らないがもみの木に似た大きな木には小さな真っ赤な実がなって、それは甘くて美味しかった。                  

学校から帰るとそれらの木に登り木の上でよく食べてた。

 

梅の木にはいつも季節のなると鳥が巣をつくり,卵を産みやがてヒナが顔を出し、間もなく巣立っていく・・・そんな光景を木に登り毎日観察していた。                             時にはいたずら心で卵を隠したりすると、親鳥は泣き喚き必死で探している・・・       可哀想になりまた巣に戻してやると嬉しそうにしている・・・

いつか孵ったヒナを鳥かごに入れて縁側に置いていたら、私がせっかく虫を捕まえてやっていたのになぜか食べない・・・ところが元気なのだ・・・ある日そ~と見ていたらなんと親鳥がせっせと餌を運び、鳥かごの外からヒナに餌をあたえていたのだった。

その母子離れ離れになっている光景に自分を重ね合わせ可哀想になり、すぐ鳥かごから巣に戻してやった。

 

小川の土手や、田畑のあぜ道にはセリ、ナズナ、よもぎ、つくし・・・また、少し入るとふき、アサツキ、イタドリ、ウド、ゼンマイ、わらび・・・など沢山の食材があり、祖母と袋を担いで、散歩がてらよく採りに行った。子供ながら何とまずいものかと思っていたが、大人になって飲み屋でそれらが出てくると以外に美味しく懐かしかったものだが・・・ 

                                                       畑の横には桑畑があって・・・もともと桑の葉はまゆを取るための(かいこ)の餌だが,私は桑の実が大好物・・・  口の周りを紫にしてほおばったものだ。                         そして蚕が糸を出してサナギになると、それは甘辛く煮てまた食卓に上る。

田んぼにはタニシが沢山いた・・・これも茹でておやつになった・・・サザエのごく小さい感じで小枝でなかから引っ張り出して食べた。大人になって飲み屋でこのタニシがでて、海のもの・・・と大将が言っていたのでその気で食べたが味は一緒だった?

 

引っ張り出すというと「蜂の子」もよく食べた・・・屋根の軒下に大きな蜂の巣があった。 みんなで棒で叩き落し、はちが去った後で巣の中にある鉢の子を小枝で取り出して食べるのだが、なにぶん蜜を吸って子に与えているのかとにかく甘くて美味しいのなんの・・・  でも失敗すると大変で蜂の逆襲を受けて子供達は頭から蜂に刺され大事になる・・・でもやめられないんだな。

                                         

になると、学校から帰るとすぐ友達と腰に袋を下げて稲穂の間に入りイナゴを採りに行く・・・袋は飛び跳ねるイナゴですぐいっぱいになった・・・   それはまた祖母が炒めてくれた。                                          フライパンの中でピヨンピヨンと跳ねる上から蓋をして、仕上げに醤油をすこし入れるだけだが、イナゴの足がすこし硬かったが、バリバリとよく食べた。大阪に来て初めてイナゴの佃煮が百貨店で売っていたので食べてみたが、高くて不味かった思いがある。

 

小川にはコイやフナもいたのでたまには魚も食卓にはあったが、海の無い山国なので大概は干物や塩づけや味噌づけの魚が多かったな・・・                                              

そんなわけで、終戦直後にもかかわらずひもじい思いもせずに、田舎の大自然で伸びのびと育ってきた・・・ 

 

近くの神社の境内では季節ごとにいろんな御祭りがあり、夜店など出ると,それはそれは嬉しかった。                                                               夏祭りの後で飛んでる沢山のホタルを追いかけて川に落ちたり・・それでもずぶ濡れになりながらも太いネギの中にホタルを入れて持ち帰り、蚊帳の中に放ち・・・夏の風情を愉しんだりしていた。

 

しかし、母のいない家は寂しかった・・・

でも、たまに母方の祖母がいる松本へ行く事ができた・・・                                                             祖母は昔、馬小屋だった田舎家の端をあるときから豆腐屋に貸して、そのおじさんが松本まで豆腐の豆を買出しに行くときに連れて行ってもらっていた。

それは田沢から梓川沿いに2~3時間かけて歩いていったが、山には藤の花がきれいに咲いていたし、梓川の急流では釣りをしている人がいた。                                       おじさんは自転車にいっぱいの闇米を乗せ、おまわりさんがいたらその検問を避ける為に荷物の上に子供の私を乗せてごまかすのだが、ある日 前からおまわりさんが来て、おじさんは慌てて前の家に飛び込み隠してもらったりしていたが・・・でも優しい良いおじさんだった。

おじさんが豆腐のマメ屋さんに行っている間は、松本の祖母と楽しく過ごし、母の匂いを感じる時が大好きだった。 

 

私は8歳のとき、大好きだった祖母を田舎に残して大阪に来た。

は病気から回復し元気になっていた。  

そして母は母と共に,同じ病院で療養していた人と・・・ 

それはかつて母が幼児の私を背負い、病院で亡き父の看病をしていた母の姿を知る人で、父の亡骸を共に担いでくれたと言う人と母は再婚した。 

私にクリスチャンの新しい父ができた。 

そして養父となった父の仕事の関係で大阪に引っ越してきたのだった。                    憧れの蒸気機関車に乗り、いくつものトンネルを抜け石炭のススで真っ黒になった顔で大阪に着いた。

                                                        着いた大阪の西淀川は、敗戦から8年経っていたとはいえ,まだ焼け跡が残り、軍需工場があったらしく米軍に爆撃され廃墟となった建物が散乱し,今までいた田舎の光景と余りにも違いビックリしたものだ。

                                                           転校した「大阪市立大和田東小学校」で初めてコンクリートの校舎の太い柱を見たときもビックリした。                                                      家の周りには樹木も草花も何も無かった。殺風景なバラックの家が並んでいるだけだった。 田舎に帰りたかった。

でもそれ以上に二度と母の傍を離れたくなかった。それに二人の弟が生まれ、兄貴となっていつしか故郷への想いも遠のいていってしまった。

 

そうして中学,高校、大學、サラリーマン、結婚、会社経営23年間を経て、50代前半で引退、早い隠居生活に入ったもののなぜか急に生活環境が変ったからか、心が空虚になってしまい・・・そして箕面の森に魅せられ、心癒され・・・そんな訳で・・・ 再び半世紀を経て心の中にあの懐かしい故郷の原風景が蘇ってきたのでした。

 

晩年、父と共に信州に帰った母は今、あのアルプスの山々を背景に、国宝松本城を望む城山のきれいな「教会墓地」で二人仲良く眠っています。

 

故郷(安曇野)を、遠く(大阪)において想うもの・・・

まさに 「三つ子の魂、百まで」 ですね。

 

(完)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする