明治の森・箕面(みのお)国定公園の誕生前夜
箕面の森の歴史を書いてみようと調べてみると、この方の存在を抜きにして
語ることはできません。
そこで、私が知ったかぶりをして書くよりも、直接ご本人からのお話をお聞き
頂きたくご紹介をいたします。
これは、私が何年か前に 「箕面観光ボランテイアガイド」の 養成研修で
参加した時の資料からです。
(私は研修終了後、事情で登録はしませんでしたが・・・)
その後、箕面ビジターセンターの 「森の博物館」 でよくいろんな事を教えて
いただきました。
箕面ビジターセンター前所長で 「箕面自然観察会」を永年運営され、
こよなく箕面を愛されておられる「箕面の森博士」・浅葉 清 氏 です。
「 明治の森 箕面国定公園が誕生したのは、昭和43年(1968年)10月23日
のことです。
その総面積は大変小さく、963ha(9.63km2)しかありません。
大阪の中央区位の広さです。
どうしてこんな小さな区域が国定公園になったのでしょう。
それには、次のようなわけがあるのです。
昭和41年(1966年)4月、「政の茶屋」(現在のビジターセンターのある所)から
勝尾寺付近の山々をならして「墓地公園」を造る計画が大阪府(企業局)から
提出されました。
その場所は現在の東海自然歩道の、政の茶屋~清水谷~開成皇子の墓~
北攝霊園に至る両側の山や谷です。
つまり、政の茶屋、勝尾寺園地、箕面川ダムの北方を結ぶ三角形の区域内と
いう、広大が地域です。
当時、千里ニュータウンをはじめ各地に団地,住宅地が開発されていました。
それに伴って、墓地不足が深刻になってきたのです。
そこで、箕面の勝尾寺付近が墓地公園を造成するのに適した所として選ばれ
たのでした。
ところが、箕面から勝尾寺にかけての一帯は 「日本三大昆虫生息地」とか、
「日本のシダ植物の宝庫」とか、「野鳥観察の最適地」と言われる所です。
ここでは、多くの科学者が動植物を採集して、研究活動をしていました。
あるものには箕面産のタイプ標本として研究雑誌に発表しました。
タイプ標本の産地は、そこを保護しなければならない道義的な責任があると
思います。
もしも、ここをなりふりかまわずブルドーザーで開発するならば、道義的な
責任はおろか、自然界のバランスまでもが大きく崩れ「動物,植物の宝庫」
は潰えてしまうに違いありません。
そんなことにならないように、いち早く「墓地公園を造る場所を変えて
ください」と、お願いしたのは 箕面生物研究会(故・村田賢三、西川芳太郎
、藤下英也、浅葉 清・・・その他多くの方々)でした。
箕面生物研究会は箕面の山地に生息する 動植物約4900種のうちの
大部分のものの目録を作成して、大阪府議会へ提出しました。
同時に、箕面の動植物の素晴らしさをより多くの方々に理解していただく為に、
「箕面自然に親しむ会」と なづけて自然観察会を毎月実施し、会誌の発行も
しました。
参加者は月毎に増え、会員家庭数は3000を超えました。
会員の間からは、「こんなに沢山の、素晴らしい動植物のある所を、どうして
墓地公園にしてしまうのでしょう。
ブルドーザーで開発するとこんな動植物はみんななくなってします・・・」と、
このような会話が聞かれるようになりました。
一方、学者の皆さんの間でも「箕面の山を墓地公園として開発すべきか、
止めるべきか」について論争がおこりました。
日本自然保護協会の先生方(大阪市立自然史博物館初代館長、
故・筒井嘉隆氏、他)の方々はなんと「箕面の山は余りにも荒れすぎている。
ここに墓地を造っても損なうものはないだろう・・・。」と、調査結果を報告
されました。
大阪府立大学の箕面山調査団も同様で・・・ ここまで言い切るならば、
調査結果を公表し、結論を導いた道筋について経過を説明しなければ
ならなかったのですが、そういう手続きは一切しなかったのです。
そういう手続きを省略して 結論だけを押し付けることは、学者として誠に
恥ずべき行為であると思います。
そので、昭和41年(1966年)12月2日、当時の箕面市役所大会議室で意見の
交換会がもたれました。
座長は箕面市教育長 故・河野良作氏で、参加者は大阪府,箕面市の
関係者、日本自然保護協会、大阪府立大学箕面山調査団,箕面生物研究会
でした。
多数の記者の方たちも取材をされていました。
自然保護協会の先生方のご意見が? 心に残りました。
大阪府立大学箕面山調査団の方たちの箕面の山の動植物や自然のことに
ついて、あまりの無知に驚きました。
箕面山のことは何一つ調べていなかったのです。
両者の行き詰まる会議においてすら、箕面の動植物を保護しようと願う方
たちの心が晴れるまでには至りませんでした。
ところが、事態は突然開けてきたのです。
昭和42年(1967年)1月4日、厚生省と農林省から ”明治100年を記念して
、大阪の箕面と東京の高尾を「明治の森」国定公園に指定し、自然を
生かした国民の森にする”・・・事を発表しました。
箕面の森は、永遠に国定公園として保護される事になったのです。
箕面も高尾も自然公園としては余りに小さいのですが、大都市近郊の
自然公園として豊かな自然を保護し、多くの人々に自然のよさを味わって
もらう為に造られたのです。
では、最初に大阪府が発表した「墓地公園」はどうなったのでしょう。
箕面生物研究会は、墓地公園の場所の変更をお願いしました。
(1) 自然の宝庫といわれる箕面地域の北隣にするか、
(2) 松尾山と五月山ドライブウエイとの間、を提案しました。
結局、(1)案の 箕面市と豊能町との境界付近から高山地区にかけてと
いうことになりました。
(2)案は「箕面ゴルフ場」になりました。
懸案の「墓地公園」は、私達の提案を受け入れていただいて 「北摂霊園」と
して設立していただいたことに感謝しています。
私たちの願いは最高の結果を持って叶えられました。
私たちに与えれれた課題は、明治の森、箕面国定公園がより充実した
自然公園になるよう、努力を怠ってはならないことであります。」 (おわり)
私は、毎週のように「箕面の森の散策」を愉しんでいますが、
浅葉 清先生はじめ、先人の先輩方の懸命の努力があって、この森が
守られてきたことを・・・
本当に心から感謝いたします。
07-3 (完)