日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

終末期病棟のストレス

2016年10月12日 09時37分32秒 | 日々雑感
 入院患者2名が界面活性剤中毒死したことで話題の大口病院は、終末期患者を扱う病院だそうだ。終末期とは、老衰・病気・障害の進行により死に至ることを回避するいかなる方法もなく、予想される余命が3ヶ月以内程度の意味だそうだ。俗にいう老人病院となろう。2名の死者の他に、わずか数カ月の間に46人が死亡しているとのことであるが、老人病院であれば異常事態だと言い切れないかも知れない。 

 警察当局は何者かが意図的に界面活性剤を点滴に混入させたとして捜査している。今回の事件の犯人は10月12日現在、院内関係者か部外者かもはっきりとしていない。しかし、院内関係者の犯行の可能性が高いと見られる。病院内の人間関係のもつれか、仕事のストレスかはわからない。しかし終末期病院と聞いただけで、そこで働く人のストレスの多さを察せざるを得ない。

 老衰と死は誰にでも必ずやってくる。老人病院で終末期の老人がベットに並べられて、点滴等を受けている光景を目にすると、個人の尊厳を無視した地獄の有様であり、早く逝かせた方が幸せでないかと思うのが人情ではないだろうか。世話する立場の人は、このような状況を見ても、やはり少しでも長生きさせたと心から思うであろうか。植物人間状態になっても少しでも長生きさせたいというのは、生存者のエゴではないだろうか。しかし、点滴の管を外す等の安楽死させる行為は、犯罪行為である。

 毎日このような心の葛藤を抱えながら介護、看護する人のストレスは、さぞかし大きいものと思われる。逆にストレスを感じない人は、恐らく人間を扱うのではなく、単なる物として扱っているのだろうと思うと、心寒くなる思いもする。

 昨年暮れ、川崎市の有料老人ホームで入所者の男女3人が転落死した。この件で元職員の今井容疑者が逮捕されたが、深夜から早朝の時間帯は3人体制で約80人の入所者の面倒を見なければならない過酷な労働環境であったようだ。ストレスも大きく、心の平静さを失っていたのだろう。

 日本尊厳死協会は、「自分の命が不治かつ末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言し、記しておくことを勧めてめている。当協会は、治る見込みのない病態に陥り、死期が迫ったときに延命治療を断る「尊厳死の宣言書」を登録管理しておるそうだ。各人が署名した宣言書を医師に提示すれば、多くの場合、延命治療を施されないことになると言っているが、しかし、延命治療の中止を求めても、医療機関に受け入れてもらえるとは限らないとのことである。

 医師は人の命を助けることが使命であるから、人工呼吸器を装着しないことや、それをはずしてしまうことに抵抗があるのは当然であろう。しかも安楽死させても、親戚等からか訴えられれば医師自身が罪に問われることになる。自分の最期は、自分で決めるという宣言書の精神が生かされるためには、これらの趣旨を法律で認めてもらう必要がある。

 国会では、超党派の「尊厳死法制化を考える議員連盟」が考えている法案の骨子は、終末期にあり、15歳以上で、延命措置を望まない人に対し、2人以上の医師が終末期と判定すれば尊厳死を認め、医師は刑事、民事、行政上の法的責任を問われないと定めている。しかし、法制化は審議の段階に至っていないとのことである。

 これが法制化された場合の懸念は悪用である。医者と言えば難しい国家試験を通過した者であるが、高潔な人とは限らない。 ”医は仁術なり” をモットーとする医者ばかりであることを願うが、現実には薬を必要以上に多用し儲ける医者や、健康保険制度を悪用し楽して儲ける医者もいる。自己の都合により安楽死させる医者も出てくるに違いない。

 現在、合法的に人に死を宣言できるのは裁判官だけであろう。尊厳死の法制化のためには、医学の知識に加えて、宗教的、哲学的な知識まで含めた尊厳死認定師なる資格制度の確立が必要なのかも知れない。2016.10.12(犬賀 大好-276)

”もんじゅ”の廃炉と核ごみの最終処分場

2016年10月08日 09時16分40秒 | 日々雑感
 政府は先月21日、原子力関係閣僚会議を開き、高速増殖原型炉「もんじゅ」について、年末までに抜本的な見直しをすることで合意した。事実上廃炉に向かうことになるとのマスコミの論調である。しかし、同時に核燃料サイクルの推進と、高速炉の研究開発の計画を維持することも確認したそうだ。

 新設される「高速炉開発会議」の主管は経済産業省であり、文科省、日本原子力研究開発機構、電力事業者、原子炉メーカが参加する予定とのことである。そこでは、仏が進めるASTRIDへの協力を軸に日仏共同研究の腹づもりのようである。これは、核燃料サイクルの完全破綻を認めないための苦肉の策とも思われる。10月7日の第1回目の会議においても、高速炉への未練タラタラのようであった。

 ”もんじゅ”の廃炉を決めたことは遅きに失した感であるが、政府としては思い切った決断と評価したい。しかし、高速増殖炉の研究開発を続行するとは、決断の甘さも感ずる。増殖炉の必要性は、ウランは埋蔵量が無限ではないためいつまでも低価格な原子力発電を持続出来ない、あるいは米国やイギリスは撤退したがロシアや中国は開発を進めており、技術的に遅れる懸念がある、等である。

 今後、電気エネルギーが益々必要となるのは確かだろう。これに対し、エネルギー源を原子炉に頼るのではなく、自然エネルギーに頼ればよいだけだ。現時点ではコスト的に負けると言っても、必要は発明の母だ。、自然エネルギー開発は始まったばかりで、アイデアはいくらでも埋まっている。研究者や技術者は必死に考え、素晴らしい方法を考え出す筈だ。若者は、技術的に行き詰まり、評判の悪い高速増殖炉より、夢のある自然エネルギー技術に将来を託すだろう。

 日立製作所と東芝、三菱重工業の原子力発電メーカー3社が、核燃料事業の統合に向けて調整に入ったことが先月28日に報道された。福島の事故以降、世界的に原発新設の機運が落ち込む中、政府は最終的に日立、東芝、三菱重工の原発事業自体の統合を進めたい考えで、燃料事業の統合をその第一歩とするようである。

 核燃料サイクル破綻に伴う最大の問題は、使用済み核燃料の処分問題だ。これまでに原発が出した燃えカスの処分法や、蓄積したプルトニウムの処分法だ。地下に埋蔵するにしても、今後何百年、安定に維持し続けなくてはならない。地震大国の日本の中にこれに耐える地盤があるのだろうか。これから政府が最終処分地を必至に探すにしても、原子力事業の窓口が一本化されていた方が、何かとやり易い。この意味でも統合は必須だ。

 スウェーデンでは、各原子力発電所で発生した使用済燃料を再処理せずに一か所に集め、電力会社が共同出資して設立したSKB社が高レベル放射性廃棄物として地下約500mの深さの結晶質岩中に地層処分する方針だそうだ。

 これから日本では ”もんじゅ” ばかりでなく、福島第1原発など廃炉はどんどん増えていく。核燃料だけでなく、廃炉後の高濃度汚染炉材のごみも増えていく。福島原発事故の際の低濃度の汚染ごみですら最終処分場はままならない。国は、核のごみの処分場を国を挙げて探さなくてはならない。本来は各電力会社が自社で処分すべきであろうが、原発を国策として進めてきたとの言い分により、国に責任転嫁するだろう。国も天下りを受け入れた電力会社に恩はあるし、これからも受け入れて貰わなくてならない。

 日本はこれまで、技術は無限に進歩するとの信仰の下に、原発ゴミの処分法も高速増殖炉技術もその内何とかなるだろうと、能天気に問題を先送りしてきた。核燃料サイクルの破綻は、もんじゅが冷却用のナトリウム漏れ事故を起こした20年以上前から予測できた筈なのに、ごみ処分の検討など何もしてこなかったとは、呆れるばかりである。高速炉開発会議は、これまで先送りしてきたごみ問題を解決してから、先に進んでもらいたい。2016.10.08(犬賀 大好-275)

日銀金融緩和の出口

2016年10月05日 09時30分04秒 | 日々雑感
 日本銀行は9月21日の金融政策決定会合で、金融緩和の枠組みの修正を決めた。お金を流す「量」から「金利」に軸足を移して物価上昇2%を目指すそうだが、仕組みが複雑になり素人には何のことかよく理解できない。

 つまり、日銀はこれまで資金を市場に流すために国債を購入してきたが、その購入方法を見直すとのことである。長期金利の動向をみながら国債を買う量を調整して、過度な金利低下を防ぐことにより年金運用などへの不安に対応することだそうだ。

 これまで80兆円/年のペースで国債を購入してきたが、物価上昇の目標が達成出来ないどころか、金余りで金利が下がり過ぎ、年金運用などに副作用が目立ってきた。このような背景の下で、本心は購入を中止したいが、そうすると一気に国債の価値が暴落するので、購入のペースを調整するとの文言により、追加購入の一縷の望みを残しつつ、購入ペースを80兆円/年以下となる可能性を暗示したと、経済素人は判断する。いよいよ出口を探し始めたのだろうと勘繰る。

 物価上昇率2%が達成できなかった理由として、消費税や原油価格の低下の影響が出たとし、それ以外に特に新しい検証結果を出さなかった。東京五輪の施設建設費が、当初予定の数倍以上に膨れ上がっている理由に、建設費や人件費の高騰がもっともらしく挙げられているが、誰からも文句は聞こえてこない。エコノミストは誰もこの矛盾に言及しないが、とうの昔にデフレは終わり、インフレが始まっているのではないかとさえ思ってしまう。

 元々、物価上昇率2%の目的は、物価が上昇して会社の売り上げが増え、儲けが増えれば、社員の給与が上がり、購入意欲が高まり、購入意欲が高まれば、更に物価上昇基調となるとの、景気好循環を期待しての話であった筈だ。ところが、流通資金の増大や円安等により企業が儲かっても、内部留保などの理由により、社員の給与の増加に結びついていないようだ。

 安倍首相は、”景気の好循環が生まれている”と語り、黒田日銀総裁も、”デフレではない”と強調する。そうであるならば、異次元緩和も方向転換すると明言してもよさそうであるが。

 黒田総裁の本音は副作用が顕著になってきた国債購入を減らしたい、と勘繰るところであるが、日銀が国債購入をやめると何が起きるのか、恐ろしいことが予想される。先述のように、国債購入を止めると、国債の人気が急落し、買手が居なくなるため、低く抑え込まれていた金利が急騰するそうだ。急激な円安は避けられず、1ドル=150円くらいになると予想するエコニミストもいる。日本は輸入品に依存しているので、物価は上昇し、特に生活必需品の値上がりは一般家庭を直撃する。物価上昇2%の目標は一気に達成され万々歳と言いたいところであるが、肝心の社員の給料は上がらず、泥沼の不景気となる。典型的なスタグフレーションが待ち受けているとのことである。

 日経平均株価の下落も避けられない。GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用資金に占める日本株のウエイトが高められているがゆえに、国民の財産も大きな損失を被り、年金制度破綻がいっそう現実に近づく。

 どうも、国債購入を増やしても減らしても、蟻地獄から逃れない状態に陥ったのではないかと懸念する。そこで、国債購入から国民の目を逸らし、金利操作と称するの素人にはよく分からない操作で、わずかな景気浮揚の幻想を抱かせている感がする。

 米国では、IMFのイエレン議長がこれまでの緩和政策を徐々に解除する方向で、わずかな利上げを示唆するたびに、為替相場は大きく変動している。日本における異次元緩和は出口を見出せない状態でも、掛け声だけは更なる加速と息巻いているが、から元気としか思えない。そうは思うものの、個人的にどう対処すべきかわからないのが、素人の悲しいところである。

 先進国で最悪の日本の赤字財政は、今や日銀の量的緩和のお陰で成り立っている。安倍首相はリオデジャネイロまで赴き、マリオの扮装で東京五輪の成功を世界に約束した。後4年は手段を選ばず経済を維持するだろう。しかしオリンピックを終えた後、地獄が待ち受けていないよう願うばかりである。2016.10.05(犬賀 大好-274)

パラリンピックに本来のオリンピック精神を!

2016年10月01日 09時47分55秒 | 日々雑感
 南米初のパラリンピック、リオデジャネイロパラリンピックの閉会式が今月18日行われ、次の開催都市の東京に旗が引き継がれた。パラリンピックの起源は、1948年ロンドンオリンピック開会式と同じ日に、戦争で負傷した兵士たちが病院内で行った競技大会とされる。その後国際パラリンピック委員会が発足し、2000年のシドニーオリンピック以降、オリンピック開催都市でオリンピックに続いてパラリンピックを開催することが正式に義務化されたそうだ。

 リオのパラリンピックは、参加国数178カ国、参加人数4,350人と、先行して行われたオリンピックの参加国206ヵ国、参加人数11,000以上、に迫るが、テレビ放映等マスコミの扱いは概して小さかった。しかし、体の不自由さを物ともしない熱戦は多くの人に感動をもたらした。身障者の活躍は、同じ障害を抱える人々に多くの勇気と希望を与えたと確信する。オリンピックで活躍したマイナーなスポーツ選手が”これを機にこのスポーツが盛んになることを期待する”、との発言が目立つが、身障者の活躍の姿の方が社会的な影響は大きいであろう。健常者であっても、自分の生き方を見直す人は大勢いるに違いない。

 パラリンピックは本家オリンピックの脇役的な存在であるが、本家の方がいろいろな面で本来の精神を失っている。クーベルタン男爵の”参加することに意義がある”、は疾うの昔死語となっている。

 最大の理由はオリンピックが国威発揚の場と化した点である。当事国は国の威信をかけて立派な施設を設けたり、開催式等に派手な演出をする等、オリンピックの開催に莫大な金をかける。1964年の東京五輪を経験した老人は設備の充実は後世に残る財産と主張するが、発展途上であるならまだしも、現日本は莫大な借金を抱える少子高齢化社会にあることをすっかり忘れ、成功体験に浸っている。

 2020年東京五輪の開催費は2~3兆円と言われ驚いていたが、最近では3兆円を超えると言われて、腰を抜かさんばかりである。オリンピック開催に立候補する国は年々減少し、限られた国しか開催できない状態になっているようだ。リオデジャネイロも国の威信をかけて実行し、大成功であったとの報道もあるが、無事に終了したことを成功と言っているだけのようである。問題は後始末である。

 ブラジルは軍隊まで動員してリオ五輪を無事完遂することに全力を挙げたが、これは短距離走のような作業だ。一方で五輪終了後に本格化するとみられる経済再建は、長く苦しいマラソンにたとえることができると、伝える海外メディアもある。国の安定が整って、初めて大成功であったと言えるのであろう。

 オリンピックは、この他、国際オリンピック委員会(IOC)の過度な商業主義、ワールドカップや世界大会との重複問題、ドーピング問題等、山積みでありその開催意義を見直す時期に直面している。この点パラリンピックは、まだクーベルタン男爵の理念が、すなわち、参加者も勝ことより無事参加出来たことに意義を見出す精神が残っている感がする。

 障害者の障害の程度は個人差があるため、ある競技で優勝したからと言って、大騒ぎすることでは無く、逆に優勝出来ないからと言って、悲観することではない。公平性が重要といって、障害の程度により競技は細分化されているが、厳密に障害の程度を全員揃えることは不可能であろう。各自、精いっぱいの努力をして参加できたことに誇りを持ち、それを称えるべきだ。

 マスコミは一般大衆に迎合するのではなく、勝敗に拘らず個々の頑張りを取り上げるべきだ。現在のオリンピックが商業主義に陥っているのは、マスコミのせいも多分にある。原点の”参加することに意義がある”の精神を思い起こし、せめてパラリンピックにこの精神が残るように努力すべきだ。

 ところが、今回のパラリンピックの総括としてマスコミの論調も、前回のロンドンを上回る24個のメダルを獲得したが、金メダルはゼロに終わった、と国対抗意識を煽る。更に日本パラリンピック委員会の会長も、「金、銀、銅をバランスよく取れるように強化したい」と、メダル至上主義を公言する。これではオリンピックの二の舞だ。

 現在オリンピックが抱える様々な問題が解決されないならば、いっそうのことオリンピックを廃止すべきであろう。廃止されて、困るのはマスコミ位であろう。オリンピックが様々な問題を抱え右往左往すること自体がマスコミの喜ぶネタだ。パラリンピックがオリンピックと同じにならないように、初心に戻ってもらいたいものだ。

 国際パラリンピック委員会(IDC)のフィリップ・クレーブン会長が「金メダルを取るのが重要なことではない。運動して楽しむことで自信を取り戻し、仕事に就くようになることがある。誰でも共生できる社会を作ることこそが重要である。」との言を噛みしめたい。2016.10.01(犬賀 大好-273)