中教審(中央教育審議会)は、26年12月、新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた「高校教育-大学教育-大学入学者選抜」の一体的改革についての『答申』を下村博文・文科大臣に提出した。超少子高齢・人口減少社会、生産年齢人口の急減、グローバル化の進展など、これまで経験したことのない厳しい時代を迎え、若者の将来に向けた多様な夢や目標を支える教育改革を“待ったなし”で進めなくてはならないとしている。
改革の中身はいろいろあるようであるが、そのひとつは、大学入試センター試験に代わる新テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」で 思考力・判断力・表現力を中心に問うものであるようだ。当面は、国語と数学の2教科で実施し、解答の字数は最大で300字程度になるようだ。
このような変革を想定し、早くも今年の私立中学の入試で、この種の問題を取り入れる動きがあるとのことだ。例えば”「成熟社会」を生きるために小学生でできることを300字以内で書け”と言った問題だ。記憶力試験に慣れた人間にとって、どう回答したらよいか戸惑うばかりである。
従来の記憶力を重視した大学入試センター試験では、答えは一つであるため採点に迷うこと無く、公平性の点では問題ないと思う。しかし、上記ような問いに対する模範解答は無いため、公平性を期待することは無理である。約50万人が受けるマンモス試験で、採点を公平かつ円滑に行えるとはどうしても思えない。
そもそも、現行の公平性抜群のセンター試験をなぜ変えなくてはならないか。日本はこれまでに経験したことの無い少子高齢化社会という新しい時代を向かえており、それにふさわしい人材を必要としているのは確かであろう。一千兆円を超える借金と社会保障の充実をどうやって両立させるかの解は誰も見つけられない。時代にふさわしい人材とは、これまでの常識に囚われない、すなわち記憶力より思考力・判断力・洞察力に秀でた人間のような気がするが、記憶力重視で育ってきた人間に、時代にふさわしい人材となる人間を選別出来るのであろうか。
中教審の委員がどのような人で構成されているか知らないが、その人々は新しい時代にふさわしい人材の育成を入試改革で実現できると思っているのであろうか。それより大学のあり方そのものが問われるべきと思う。
現在でもセンター試験を通過した者には、大学独自の入学試験が控えている筈であり、どちらかと言えばそちらの方を問題視すべきであり、更に大学における教育のありかたを問題にすべきである。大学としては、独自の方法で入学させた学生を独自の方法で教育し、世の中に送り出せばよいのだ。学生の資質の評価は世の中がやってくれるであろう。
時代の先頭を走るグーグル社は人材採用で学歴・成績を無視するとのことである。グローバル化された企業では世界の様々な人材と競争しなくてはならない。この点、日本の企業も学歴重視による採用を今後変えざるを得ないだろう。大学も当然変革を余儀なくされ、そこで時代に即した人材となるように教育すればよいのだ。そのために、そこでの教育方針に即した人間を入学させればよい。かと言って、簡単にベストな方法が見つかるわけでは無い。かなりな試行錯誤が必要であろうが、小回りの利く大学に任せておけばよいのだ。中教審は、あくまでも文科省の鶴の一声で右向け右する一律方針が理想なのであろうか。
しかし、国家上級公務員となると話は異なる。前例踏襲型の人材は記憶力が最重要である。新たな発想は窓際族候補となる。現行の大学入試センター試験は、公務員とって一番ふさわしい選抜方法であり、変える必要は無い。
2016.02.27(犬賀 大好-211)
改革の中身はいろいろあるようであるが、そのひとつは、大学入試センター試験に代わる新テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」で 思考力・判断力・表現力を中心に問うものであるようだ。当面は、国語と数学の2教科で実施し、解答の字数は最大で300字程度になるようだ。
このような変革を想定し、早くも今年の私立中学の入試で、この種の問題を取り入れる動きがあるとのことだ。例えば”「成熟社会」を生きるために小学生でできることを300字以内で書け”と言った問題だ。記憶力試験に慣れた人間にとって、どう回答したらよいか戸惑うばかりである。
従来の記憶力を重視した大学入試センター試験では、答えは一つであるため採点に迷うこと無く、公平性の点では問題ないと思う。しかし、上記ような問いに対する模範解答は無いため、公平性を期待することは無理である。約50万人が受けるマンモス試験で、採点を公平かつ円滑に行えるとはどうしても思えない。
そもそも、現行の公平性抜群のセンター試験をなぜ変えなくてはならないか。日本はこれまでに経験したことの無い少子高齢化社会という新しい時代を向かえており、それにふさわしい人材を必要としているのは確かであろう。一千兆円を超える借金と社会保障の充実をどうやって両立させるかの解は誰も見つけられない。時代にふさわしい人材とは、これまでの常識に囚われない、すなわち記憶力より思考力・判断力・洞察力に秀でた人間のような気がするが、記憶力重視で育ってきた人間に、時代にふさわしい人材となる人間を選別出来るのであろうか。
中教審の委員がどのような人で構成されているか知らないが、その人々は新しい時代にふさわしい人材の育成を入試改革で実現できると思っているのであろうか。それより大学のあり方そのものが問われるべきと思う。
現在でもセンター試験を通過した者には、大学独自の入学試験が控えている筈であり、どちらかと言えばそちらの方を問題視すべきであり、更に大学における教育のありかたを問題にすべきである。大学としては、独自の方法で入学させた学生を独自の方法で教育し、世の中に送り出せばよいのだ。学生の資質の評価は世の中がやってくれるであろう。
時代の先頭を走るグーグル社は人材採用で学歴・成績を無視するとのことである。グローバル化された企業では世界の様々な人材と競争しなくてはならない。この点、日本の企業も学歴重視による採用を今後変えざるを得ないだろう。大学も当然変革を余儀なくされ、そこで時代に即した人材となるように教育すればよいのだ。そのために、そこでの教育方針に即した人間を入学させればよい。かと言って、簡単にベストな方法が見つかるわけでは無い。かなりな試行錯誤が必要であろうが、小回りの利く大学に任せておけばよいのだ。中教審は、あくまでも文科省の鶴の一声で右向け右する一律方針が理想なのであろうか。
しかし、国家上級公務員となると話は異なる。前例踏襲型の人材は記憶力が最重要である。新たな発想は窓際族候補となる。現行の大学入試センター試験は、公務員とって一番ふさわしい選抜方法であり、変える必要は無い。
2016.02.27(犬賀 大好-211)