1999年に成立した「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」の改正案である正式名称「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」が、衆議院を通過し、参議院に送られた。余りにも長い名称の為、その略称として ”テロ等準備罪法案” とか ”共謀罪法案” と呼ばれている。
この法案の提案理由には、近年における犯罪の国際化及び組織化の状況に鑑み、並びに国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪遂行の計画等の行為についての処罰規定、犯罪収益規制に関する規定その他所要の規定を整備する必要がある、と説明されている。
今回の法案の条文の何処にも「共謀罪」という言葉も「テロ等準備罪」という言葉も無いようだが、条文の解釈の仕方によって見方が大きく異なることから、二つの言い方になる訳だ。この条文はネットで見ることが可能だが、例によって分かりにくい文章であり、しかも縦書きと一層わかり難くなっている。
まずこの文面をさらっと流し読みすれば、最近世界を騒がすテロを防ぐための法案らしいと分かり、テロ等準備罪と略称されることが納得できる。
しかし、細かく読むと、”その他”とか”計画等”とか拡大解釈できる曖昧な文言が含まれており、運用の仕方によっては、戦前の治安維持法となる恐れがあることから共謀罪と呼ばれる所以である。
すなわち、取り締まりの対象がテロリズム集団ばかりでなくその他の組織的犯罪集団の文言も含まれており、時の政府の運用の仕方によっては、いくらでも拡大応用出来る訳である。
条文をテロリズム集団と限定すれば極めて限定的になり、多少拡大解釈できる余地を残すことは、法律条文にはよくあることであり、特別なことではない。その場合本来の趣旨にのっとり運用されることが肝要であるが、周囲の状況変化や権力者の都合により、変質する恐れが多分にある。
戦前の悪名高い治安維持法も始めは、共産党などの社会革命をめざす運動を取り締まるものであったが、次第に政府の政策を批判する自由な発言も取り締まりの対象となり、更には軍部に対する反対運動や反戦活動を厳しく弾圧する手段に発展し、軍部の暴走を許し戦争まで突き進むことになってしまった。
戦前のこのような流れとなった理由は、時代背景も影響したであろうが、日本人の付和雷同体質も一因ではないかと思う。付和雷同とは、自分にしっかりとした考えがなく、他人の言動にすぐ同調することであるが、当時の権力者、あるいは声の大きいものに盲目的に賛同する社会があったのではないかと感ずる。
民主教育が浸透し、情報通信の発展した今日、”テロ等準備罪法案” とか”共謀罪法案” と呼ばれるこの法案が戦前の治安維持法にはなり得ないと主張する論客もいるが、決してそうではない。
付和雷同する体質の背景には”和をもって尊しとなす”文化の影響が大きいように思える。個人より全体の和を重んずる、と言えば聞こえは良いが、そこにおいては権力者の言うことに従っていれば、個人の責任を追及されることなく、平穏に過ごせるからである。
全体の和を図るためには、忖度も大いに重要な要素である。森友学園、加計学園問題でも、官僚村における忖度と付和雷同現象が問題視される。まだ、全容が解明されてはいないが、ある時点を境にして、組織が一斉に足並みを揃えて動き出すとは、この典型例であろう。上司の直接の命令は無くても、その意向を忖度して組織一丸となり、役人としての公平性、公正性を無視し、ご機嫌取りする。個人としておかしいと感じても、”みんなで渡れば怖くない”との無責任体質丸出しである。
忖度と付和雷同は官僚組織におけるばかりでなく、一般企業においても、日本社会一般にもみられる。日本では民主教育が進み、個人が尊重される世になったとはいえ、まだ個人の自立が十分でない。個人の意見を持つより、大勢に従っていた方が楽である。このような状態の社会で、先の法案がいつ戦前の治安維持法にすり替わっていくのか、心配になる。2017.05.31(犬賀 大好-342)
この法案の提案理由には、近年における犯罪の国際化及び組織化の状況に鑑み、並びに国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い、テロリズム集団その他の組織的犯罪集団による実行準備行為を伴う重大犯罪遂行の計画等の行為についての処罰規定、犯罪収益規制に関する規定その他所要の規定を整備する必要がある、と説明されている。
今回の法案の条文の何処にも「共謀罪」という言葉も「テロ等準備罪」という言葉も無いようだが、条文の解釈の仕方によって見方が大きく異なることから、二つの言い方になる訳だ。この条文はネットで見ることが可能だが、例によって分かりにくい文章であり、しかも縦書きと一層わかり難くなっている。
まずこの文面をさらっと流し読みすれば、最近世界を騒がすテロを防ぐための法案らしいと分かり、テロ等準備罪と略称されることが納得できる。
しかし、細かく読むと、”その他”とか”計画等”とか拡大解釈できる曖昧な文言が含まれており、運用の仕方によっては、戦前の治安維持法となる恐れがあることから共謀罪と呼ばれる所以である。
すなわち、取り締まりの対象がテロリズム集団ばかりでなくその他の組織的犯罪集団の文言も含まれており、時の政府の運用の仕方によっては、いくらでも拡大応用出来る訳である。
条文をテロリズム集団と限定すれば極めて限定的になり、多少拡大解釈できる余地を残すことは、法律条文にはよくあることであり、特別なことではない。その場合本来の趣旨にのっとり運用されることが肝要であるが、周囲の状況変化や権力者の都合により、変質する恐れが多分にある。
戦前の悪名高い治安維持法も始めは、共産党などの社会革命をめざす運動を取り締まるものであったが、次第に政府の政策を批判する自由な発言も取り締まりの対象となり、更には軍部に対する反対運動や反戦活動を厳しく弾圧する手段に発展し、軍部の暴走を許し戦争まで突き進むことになってしまった。
戦前のこのような流れとなった理由は、時代背景も影響したであろうが、日本人の付和雷同体質も一因ではないかと思う。付和雷同とは、自分にしっかりとした考えがなく、他人の言動にすぐ同調することであるが、当時の権力者、あるいは声の大きいものに盲目的に賛同する社会があったのではないかと感ずる。
民主教育が浸透し、情報通信の発展した今日、”テロ等準備罪法案” とか”共謀罪法案” と呼ばれるこの法案が戦前の治安維持法にはなり得ないと主張する論客もいるが、決してそうではない。
付和雷同する体質の背景には”和をもって尊しとなす”文化の影響が大きいように思える。個人より全体の和を重んずる、と言えば聞こえは良いが、そこにおいては権力者の言うことに従っていれば、個人の責任を追及されることなく、平穏に過ごせるからである。
全体の和を図るためには、忖度も大いに重要な要素である。森友学園、加計学園問題でも、官僚村における忖度と付和雷同現象が問題視される。まだ、全容が解明されてはいないが、ある時点を境にして、組織が一斉に足並みを揃えて動き出すとは、この典型例であろう。上司の直接の命令は無くても、その意向を忖度して組織一丸となり、役人としての公平性、公正性を無視し、ご機嫌取りする。個人としておかしいと感じても、”みんなで渡れば怖くない”との無責任体質丸出しである。
忖度と付和雷同は官僚組織におけるばかりでなく、一般企業においても、日本社会一般にもみられる。日本では民主教育が進み、個人が尊重される世になったとはいえ、まだ個人の自立が十分でない。個人の意見を持つより、大勢に従っていた方が楽である。このような状態の社会で、先の法案がいつ戦前の治安維持法にすり替わっていくのか、心配になる。2017.05.31(犬賀 大好-342)