(2010.9.18 訪問)
河内の名刹、天野山金剛寺は境内が工事現場と化しています。金堂が半解体修理、
多宝塔が屋根葺替・部分修理、鐘楼が屋根葺替・部分修理ということで平成29年
まで修復修理のためです。特に金堂周囲は覆屋建設のための基礎工事が為されて
おりコンクリート基礎がほぼ出来上がっています。まもなく覆屋が立ち上がって
行くのでしょう。金堂、多宝塔だけは近寄ることは出来ませんが、他の堂宇はま
だジックリ拝観することが出来ました。
南北朝鼎立の動乱期、南朝行在所がここ金剛寺におかれ天野行宮と呼ばれ南朝の
後村上天皇が六年間ここで政務を執られたそうです。同時期北朝の三上皇が人質
としてやはりこの地で幽閉、四年間御座所として過ごされ南北両朝が行在所を置
く特異な時期がしばらく続くという事があったそうです。
[ 金剛寺 ] こんごうじ
山号 天野山 寺号 金剛寺 宗派 真言宗御室派大本山 本尊 大日如来坐像
金剛寺縁起
奈良天平期、聖武天皇勅願で行基さんが開創し、のち空海さんが修行されたと伝
えます。その後一時期衰退、平安後期、高野山阿観上人が全山を復興、最盛期に
は七十余坊の塔頭が軒を並べたと伝えています。
●南大門。
門の前は国道170号線です。簡素な山門にいままで騙されていました。国道170号
線はたびたび通るのですが、この簡素さに入山することに躊躇いがありましたが、
しかし入山してビックリとはこの日のことでした。
●楼門。
南大門から歩くこと数十メートル、堂々とした重厚な楼門です。
●楼門から境内。
左に見える枝垂れは後村上天皇お手植えの桜だそうです。
●食堂。
南朝の政庁。後村上天皇はここで政務を摂ったといいます。向拝屋根は作為的で、
チグハグな感じにみえます。
●手水舎。
●鐘楼。
袴腰の立派な鐘楼ですが、間もなく屋根葺替と部分修理がはじまります。
●金堂。
平安後期の創建。重文です。
離れた位置からしか見れません。すでに修復修理のための覆屋建設用の基礎が出
来上がっています。
本尊は木造大日如来坐像、脇持に左木造不動明王坐像、右木造 降三世明王坐像。
本尊と不動明が京国へ、降三世明王は奈良国へ、それぞれの工房で修復修理が進
められています。
●多宝塔。
この塔も修復修理されます。周囲が囲まれていて 近付くことは出来ません。
●五仏堂。
平安期の創建、江戸初期に大幅な修理が行われたそうです。
小さいお堂ですが、仮本堂になっています。仮本尊は多宝塔本尊の大日如来が祀
られています。
●御影堂。
弘法大師空海さんの御影を祀っています。
●観月亭。
御影堂東側に張り出すように造られています。南朝帝、北朝帝どんな気持ちで月
を眺めていたのでしょうか。
●求聞持堂。
虚空蔵菩薩を修する行堂。やや離れた高台に建てられています。
求聞持堂からの境内。
●護摩堂。
●北朝光厳天皇陵。
●境内です。遠く見えている門は北門です。
●北門。
●摩尼院書院。
北門横にある南朝後村上天皇の行宮。残念ながらこの日は拝観出来ませんでした。
●摩尼院から本坊へ向います。天野川の清流は南北朝の動乱を見つめ、670有余
年後の今も静かに流れています。
●本坊。
●本坊庭園。
室町期の作庭で枯山水の庭。杉苔がきれいなお庭です。このお庭の南側に北朝御
座所、奥殿があります。
●奥殿御座所。
北朝三帝が過ごされた御座所。人質の身でありながらも優雅な待遇は尊氏の影が
ちらついたのでしょうか。
御座所手前の大広間。中央に見えるのが白洲正子さんが盛んに誉めてました重文
の日月山水図のレプリカです。
●総門。
かなり離れた位置にポツンと建っています。くぐることは出来ません。車での参
拝はここから駐車場へ。
付録です。総門の前にいました。
南北朝の動乱は、このお寺の形をすっかり変え、動乱の戦火は七十余坊を焼きつ
くしたと伝えています。繁栄と衰亡のドラマの歴史に彩られ、今に残る古刹の姿
を往時の帝たちはどんな思いで彼岸から見ているのでしょうか。
それでは南朝の思い色濃く残る観心寺に向かいます。