土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

若狭神宮寺は東大寺二月堂修二会へのお水送りのお寺。

2011年11月15日 | 福井の古寺巡り


(2011.11.12訪問)

京周山街道を走っております。季節は秋の筈ですが、期待した錦秋の気配はまる
でなし、肌に感じる風のみのようです。周山さば街道の起点小浜を目指し若狭三
名刹を訪ねようと朝七時のスタート。何の変哲もない街道をひた走りです。
さすが嶺南に近づくほどに、山は徐々に染まってまいりました。

▼神宮寺右入るスグ



[ 神宮寺 ]
●山号 霊応山(れいおうさん)
●寺号 神宮寺(じんぐうじ)
●宗派 天台宗
●開創 元正天皇
●開山 和朝臣赤麻呂
●創建 和銅7年(714年)
●本尊 薬師如来坐像

神宮寺縁起
ある時、開山和朝臣赤麻呂の前に若狭彦神社の祭神、若狭彦神(遠敷明神)が現れ、
「我鬼道に落ちその身を逃れん為に悪病を流行らせる。止めたくば仏像を安置し寺
を造り我が鬼を救え」と神託があり、赤麻呂は神願寺を創建。若狭彦神を神願寺に
迎え神仏両道の道場とした。鎌倉期に若狭彦神社の別当寺となり神宮寺と改称。

▼石標。



▼仁王門(重文)。
単層切妻造。柿葺八脚門。鎌倉時代末。正面注連縄に御幣。



▼金剛力士阿形像。
阿吽両像とも2mを越える像高。鎌倉仏師の流れを窺える堂々の作です。
目は玉眼。破損が目立ち補修の釘がいたる処打ち込まれ、痛わしや仁王さんの感じ。





▼金剛力士吽形像。





▼仁王門から参道。
山門まで約250m、気持ちいいほど一直線の参道。



▼参道。
右側に本坊大膳院や庭園、大師堂が連なっています。



▼山門。
簡素な門、ここから入山です。



▼本堂(重文)。
本尊 薬師如来坐像。平安中期。
桁行5間(15m)、梁行6間(16.5m)、檜皮葺入母屋造。向背1間付。
天文22年(1553年)越前守護朝倉義景が再興再建。
向背だけを見ると注連縄に御幣、鳥居に見えません?



▼本堂床銀杏? 堂内外陣からの床銀杏、右が内陣です。



▼内陣見取り図。
内陣奥が須弥壇、ギッシリと仏像が並んで、さながら仏像雛壇の感じ。



▼本堂外廊から境内。一本の銀杏が頑張って秋を主張してます。



▼境内からの景観。



▼本堂床下にこんな高下駄。
お水送りの時に僧侶と神人が履く下駄。しかし何で歯が一つ?



▼御茶所。
適当に苔の緑が彩りを添えた茅葺屋根。の茶室、六畳茶室、八畳囲炉裏室。



▼苔に覆われた大椎の木。
樹齢推定500年の椎、天然記念物。
根元付近の貫禄はスゴイ! 恐竜の足が絡まっているみたい。



▼閼伽井戸覆屋。



▼閼伽井戸。
この井戸がここ若狭から東大寺二月堂へ閼伽水を送る根本井戸。
お水送りの由緒。
東大寺二月堂の修二会をはじめた実忠は東大寺初代別当の良弁の弟子で、もと若
狭神宮寺に住し、後に奈良に出て良弁を助けた。そして、観音菩薩の来迎を祈念、
ついに十一面観音菩薩が閼伽の器に乗り飛来、二月堂に安置、大仏開眼の年、二
週間の行法を始めた。これが修二会と呼ばれ一度も休まない行法として1260年
も続いてきた十一面観音悔過法会。実忠がその行法中、全国の神の名を読み上げ
守護を念じたが、遠敷明神(若狭彦神)だけが漁に出て遅刻してきた。そのお詫び
として、十一面観音にお供えする閼伽水を若狭から二月堂へ送ることを約束した
ことがお水送りの起源と云われ、神宮寺の閼伽井の湧き水を上流二キロの鵜之瀬
に流し、奈良東大寺の若狭井に10日かけて到着、3月2日に若狭でお水送りをし
て3月12日の東大寺の二月堂修二会お水取りに使われるのだ云われている。



▼大師堂。
比叡山十八代の座主、天台宗の中興の祖、元三大師(良源上人)を御祀りするお堂、



▼本坊大膳院表門。
屋根は銅葺。安土桃山時代。参道から凹形に切り込んで表門が設えられています。



▼遠敷川(おにゅうがわ)。
若狭の地を知り尽くして今も流れているのでしょうね。
この上流2キロに鵜之瀬があります。



神宮寺のすべての建物には、注連縄と御幣が飾られています。近くには若狭遠敷
明神を祀る神社上下社があり、このお寺は地主神と外来神を祀る、まさに神仏習
合のお寺。でした。

さて次は、この写真を撮った遠敷川から一路東へ、明通寺を訪ねます。