土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

高野山奥の院は凛とした雰囲気、まさに聖域。

2012年01月13日 | 和歌山の古寺巡り


(2012.01.08訪問)

奥の院は高野山信仰の中心、空海さん入定の聖地。正式参拝は御廟手前の一の橋からだそうですが、天気晴
朗快適日和でしたが、如何せん足がいうことを利きません。少々ズルをして今日は中の橋からの参拝です。

▼中の橋からの参道。
一の橋から御廟まで約2キロの参道には杉の巨木と約20万基を越す墓碑、墓石が並び信仰の厚さ、深さを偲
ばれます。




▼豊臣家墓所。
中央五輪塔が太閤さん、左右はどちらかが秀長さんと寧々さん。広い墓所で左右に、縁の人々の五輪塔が並
んでいます。




▼織田信長墓所。
豊臣墓所に比べて少し寂しい感じ。




▼御廟の手前に手水舎。
手水鉢の下方は凍り付いていました。




▼灯籠堂のつらら。




▼御廟橋。
ここから先は撮影禁止。脱帽してお参りの事。です。
正面に見えるのが御廟前殿。ボクの望遠ではコレが精一杯。




無信仰、無信心な人間でも御廟の前に立つと思わず手を合わせ空海さんと対話の体勢に入ったような感覚に
なります。おぼつかない心経をボソボソと口中で唱えつつ高野山参拝の一日が終わりました。

フロクです。
金剛峯寺の数ある塔頭の一つ、日本三大多宝塔の建つ金剛三昧院へ名塔拝観に寄ってみました。
雪の境内にスッと冬の陽光一条の中、ひっそり佇む名塔は、小さいながらも空海さん哲学が凝縮され小粒で
ピリリの清浄感が境内を引き締めているようでした。しかし建立者は北条政子、源頼朝と実朝菩提を弔うた
め建立と寺伝は語るそうです。

▼金剛三昧院多宝塔(国宝)。
本尊 五智如来(重文)。塔高14.9m、桧皮葺。貞応2年(1223年)建立。
ちなみに三大多宝塔は数説あるみたいですが、金剛三昧院多宝塔と石山寺多宝塔は必ず入っているそうです。



総本山金剛峯寺本坊で雪の播龍庭にしばし。

2012年01月13日 | 和歌山の古寺巡り


(2012.01.08訪問)

壇上伽藍残考
先に周りました壇上伽藍には、伽藍総数16の堂宇が建ち並んでいます。実際に入堂できたお堂は金堂と根本
大塔だけですが、両堂が高野山の真髄である事は誰もが認めるところでしょう。特に根本大塔は両界曼荼羅
を表現した立体曼荼羅として画され、空海さんの密教哲学がこの大塔によってシンボル化されたと云ってい
いでしょうし、日本における密教の根本道場がこの地に誕生し、第一歩が刻まれた聖域と云ってもいいでし
ょう。
高野山開創時、空海さん渾身のグランドデザイン真言密教地上曼荼羅がどの位の規模でこの地に湧出したか
は定かではありませんが、稀代の天才がやり残したものを受け継いだのが高野山二世と云われる伝灯国師真
然大徳。この真然さんが空海さんの後を継ぎ壇上伽藍整備に二代約70年の歳月を費やしたと伝わるそうです。
この真然さんが初めて僧坊を構えたのがこの本坊地だそうです。
(真言宗と密教については金剛峯寺HPをどうぞ。)

▼参道。




▼正門。
現存建造物最古、文禄2年(1593年)再建。正面見えるのは本坊大玄関。




▼本坊(重文)。
東西60m、南北70mの大きな建物。本坊、奥殿、書院などを備え、狩野派の襖絵や石庭などが設けられてい
ます。向かって左大玄関、右小玄関。高野山二世と云われる真然大徳の住房があったところだそうです。




▼本坊屋根の天水桶。
雨水を溜め、火災発生時の備え。




▼鐘楼。
立派な鐘楼です。桁行三間、梁行二間、袴腰入母屋造桧皮葺。




▼播龍庭。
国内最大級の石庭。雲海に向かって雌雄一対の龍が向かい合い奥殿を守るように表現されているそうですが、
どれが龍で奥殿はどこかサッパリ。砂利に石で雲海の龍よりも、雪に石での雲海の龍の方がリアル感がでて
ヨロシイのでは。










▼伝灯国師真然大徳廟。
真然さんの御廟。真然さんは空海さんの甥っ子。空海さんの理想を受け継ぎ高野山経営56年、かの覚鑁上人
に大師精神を伝え残したと伝わります。相当空海さんの信頼が厚かったようです。




▼東門。




▼石標。



本坊内には仏間、客間をはじめ多くの部屋が設えられていますが、柳の間と呼ばれる豊臣秀次が自害した自
刃の間といわれる部屋があります。秀吉の甥っ子と空海の甥っ子、方や叔父による切腹命令、方や大天才叔
父の跡を継ぐ第二世、同じ甥としての運命この違い。幸不幸、運不運。心したいと思います。