(2014.02.22訪問)
叡電一乗寺駅を降りて、曼殊院道をフラフラ歩いていると思ってください。史跡一乗寺下り松の道端に金福
寺の道しるべがあるじゃないですか。洛北はよく来るんですが、金福寺は訪ねたことがありません。早い話
詩仙堂や圓光寺のスグ近くです。と云うことで金福寺を訪ねました。なぜ曼殊院道を歩いていたかは聞かな
いでください。
▼書院と前庭。
[ 金福寺 ]
●山号 佛日山 (ぶつにちざん)
●寺号 金福寺 (こんぷくじ)
●宗派 臨済宗南禅寺派
●開基 慈覚大師円仁 (じかくだいしえんにん)
●創建 安恵僧都(あんねそうず)
●開創 貞観六年(864年)
●中興 鉄舟和尚(てっしゅうおしょう)
●本尊 聖観音菩薩立像。
▲京都市左京区一乗寺才形町20 TEL.075-791-1666
▲拝観料 400円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:30
▲叡山電車 一乗寺下車 徒歩約20~30分
市バス 一乗寺下り松町下車 徒歩約5分
金福寺縁起 (金福寺パンフレットから抄出)
安恵僧都が慈覚大師円仁の意思により貞観六年に創建。円仁さん自作の観音像を本尊として安置。元天台宗
のお寺であったがその後荒廃し、江戸中期、すぐ近くの圓光寺の沢雲和尚の法嗣鉄舟和尚が再興、臨済宗南
禅寺派となり、今日に至っている。また、松尾芭蕉と与謝蕪村ゆかりの俳句聖地の寺として知られている。
▼山門。
▼寺標。
▼吾唯足知。
▼書院。
▼書院前庭。
濡れ縁に坐っているニャンコ見えます? ここの著名人じゃなかった、著名ニャンコのミケです。山門入る
とスグ挨拶に来てくれ、拝観受付まで案内してくれ、拝観料払うとお庭に案内してくれ、撮影の合間に寄り
添ってくれ、かがむと右手で握手を求められ、顔をスリスリしてくれ、それでは書院に入ろうと濡れ縁まで
連れてくれ、出てくるまで待ってくれて、芭蕉庵への石段下まで送ってくれました。
ウソと思うでしょ、ちょっと混ざってますがホントです。
じゃれあっていてミケの顔撮るの忘れました。今日は一日いい日になりそう。
▼書院前庭。
▼白いロールカーテンの柔和な光が鋭利な冬を和らげてくれてます。
▼床の芭蕉翁像、与謝蕪村描。
▼蕪村が俳諧の先師として最も尊敬していた芭蕉のアップ。
▼蕪村筆「奥の細道画巻(重文)」
蕪村が全文を書き、十四の場面を俳画で入れた画巻の部分。これはレプリカ。
▼手水鉢。
▼高台にある芭蕉庵へ行ってみましょう。この石段下までミケは送ってくれました。
▼高台から西を見渡せば、前方一番高い山は愛宕山924m。ボクは明日あの麓まで行きます。
▼芭蕉庵。 (金福寺パンフレットから抄出)
江戸元禄期、松尾芭蕉は吟行中、金福寺の鉄舟和尚を度々訪れ親交を深めていた。和尚は自身の庵を芭蕉
庵と名付けいつまでも芭蕉の高風を偲んでいたそうです。
その頃の芭蕉が詠んだ句。憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥 芭蕉
その後与謝蕪村も俳諧遍歴の後金福寺を訪ね、敬慕していた芭蕉と芭蕉庵の荒廃を惜しみ、安永五年この
庵を再興したそうです。
そのとき蕪村が詠んだ句。耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵 蕪村
▼芭蕉庵の床。
軸の句。雪折も 遠く聞へ 夜ぞふけぬ 蕪村
▼花模様。
▼安永五年(1776年)荒廃していた庵を蕪村が再興、以来238年の刻の流れ…。
▼芭蕉庵の茅葺きの屋根。
▼芭蕉庵の西窓から。
▼芭蕉庵。
▼奥に板の間があり囲炉裏がきられています。
▼芭蕉顕彰碑。蕪村が建てたもので芭蕉の生涯を称えた文が刻されています。
この碑の建立時に詠んだ句で、望みどおり後ろの丘の墓に葬られたそうです。
我も死して 碑に辺せむ 枯尾花 蕪村
▼その与謝蕪村の墓。
▼御朱印です。ミケの手形も押して欲しかったですよご住職。
ミケのおかげで俳聖芭蕉も蕪村もかすんでしまいました。
日頃風流からはほど遠い生活に浸りきっている身にとって「俳諧」とは、「徘徊」と思ってしまう我が身が
情けない。
そこで一句。徘徊の 身になろうとも ミケがいる (ここだけの話、季語なんてクソクラエ)
また来るよミケ!!!!!
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