土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

金福寺は松尾芭蕉&与謝蕪村ゆかりのお寺です。そうそうスターニャンコもいます。

2014年02月25日 | 京都の古寺巡り


(2014.02.22訪問)

叡電一乗寺駅を降りて、曼殊院道をフラフラ歩いていると思ってください。史跡一乗寺下り松の道端に金福
寺の道しるべがあるじゃないですか。洛北はよく来るんですが、金福寺は訪ねたことがありません。早い話
詩仙堂や圓光寺のスグ近くです。と云うことで金福寺を訪ねました。なぜ曼殊院道を歩いていたかは聞かな
いでください。

▼書院と前庭。

 


[ 金福寺 ]
●山号 佛日山 (ぶつにちざん)
●寺号 金福寺 (こんぷくじ)
●宗派 臨済宗南禅寺派
●開基 慈覚大師円仁 (じかくだいしえんにん)
●創建 安恵僧都(あんねそうず)
●開創 貞観六年(864年)
●中興 鉄舟和尚(てっしゅうおしょう)
●本尊 聖観音菩薩立像。
▲京都市左京区一乗寺才形町20 TEL.075-791-1666
▲拝観料 400円 御朱印300円
▲拝観時間 9:00~16:30
▲叡山電車 一乗寺下車 徒歩約20~30分
 市バス 一乗寺下り松町下車 徒歩約5分

金福寺縁起 (金福寺パンフレットから抄出)
安恵僧都が慈覚大師円仁の意思により貞観六年に創建。円仁さん自作の観音像を本尊として安置。元天台宗
のお寺であったがその後荒廃し、江戸中期、すぐ近くの圓光寺の沢雲和尚の法嗣鉄舟和尚が再興、臨済宗南
禅寺派となり、今日に至っている。また、松尾芭蕉と与謝蕪村ゆかりの俳句聖地の寺として知られている。

▼山門。




▼寺標。




▼吾唯足知。




▼書院。




▼書院前庭。



濡れ縁に坐っているニャンコ見えます? ここの著名人じゃなかった、著名ニャンコのミケです。山門入る
とスグ挨拶に来てくれ、拝観受付まで案内してくれ、拝観料払うとお庭に案内してくれ、撮影の合間に寄り
添ってくれ、かがむと右手で握手を求められ、顔をスリスリしてくれ、それでは書院に入ろうと濡れ縁まで
連れてくれ、出てくるまで待ってくれて、芭蕉庵への石段下まで送ってくれました。
ウソと思うでしょ、ちょっと混ざってますがホントです。
じゃれあっていてミケの顔撮るの忘れました。今日は一日いい日になりそう。

▼書院前庭。




▼白いロールカーテンの柔和な光が鋭利な冬を和らげてくれてます。




▼床の芭蕉翁像、与謝蕪村描。




▼蕪村が俳諧の先師として最も尊敬していた芭蕉のアップ。




▼蕪村筆「奥の細道画巻(重文)」
 蕪村が全文を書き、十四の場面を俳画で入れた画巻の部分。これはレプリカ。




▼手水鉢。




▼高台にある芭蕉庵へ行ってみましょう。この石段下までミケは送ってくれました。




▼高台から西を見渡せば、前方一番高い山は愛宕山924m。ボクは明日あの麓まで行きます。




▼芭蕉庵。 (金福寺パンフレットから抄出)
 江戸元禄期、松尾芭蕉は吟行中、金福寺の鉄舟和尚を度々訪れ親交を深めていた。和尚は自身の庵を芭蕉
 庵と名付けいつまでも芭蕉の高風を偲んでいたそうです。
 その頃の芭蕉が詠んだ句。憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥 芭蕉
 その後与謝蕪村も俳諧遍歴の後金福寺を訪ね、敬慕していた芭蕉と芭蕉庵の荒廃を惜しみ、安永五年この
 庵を再興したそうです。
 そのとき蕪村が詠んだ句。耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵 蕪村




▼芭蕉庵の床。
 軸の句。雪折も 遠く聞へ 夜ぞふけぬ 蕪村




▼花模様。




▼安永五年(1776年)荒廃していた庵を蕪村が再興、以来238年の刻の流れ…。




▼芭蕉庵の茅葺きの屋根。




▼芭蕉庵の西窓から。




▼芭蕉庵。




▼奥に板の間があり囲炉裏がきられています。




▼芭蕉顕彰碑。蕪村が建てたもので芭蕉の生涯を称えた文が刻されています。
 この碑の建立時に詠んだ句で、望みどおり後ろの丘の墓に葬られたそうです。
 我も死して 碑に辺せむ 枯尾花 蕪村




▼その与謝蕪村の墓。




▼御朱印です。ミケの手形も押して欲しかったですよご住職。
ミケのおかげで俳聖芭蕉も蕪村もかすんでしまいました。




日頃風流からはほど遠い生活に浸りきっている身にとって「俳諧」とは、「徘徊」と思ってしまう我が身が
情けない。
そこで一句。徘徊の 身になろうとも ミケがいる (ここだけの話、季語なんてクソクラエ)
また来るよミケ!!!!!





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