塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

正GKとリザーブの問題

2014-12-19 01:52:33 | 日記
 リザーブが合って良かったと思いましたね。

 昨日、自宅の眼鏡洗浄機から眼鏡を取りだした際、左のつるが蝶番から外れてしまい、戸棚にしまってある予備を取り出し、仕事に向かいました。

 僕は車と引き出しに予備の眼鏡を保管していますが、改めて眼鏡の持つ大きさ、そして危急に備える大切さを感じました。

 サッカーでも、代表GKの選出がそうですね。

 例えばドイツは誰が監督になろうとも、正GKはマヌエル・ノイアーを指名するに決まっています。

 だからといって、第2、第3GKの選出を蔑ろにできませんし、バイデンフェラーのような優れたGKが控えであることが、他国からすれば羨望の眼差しだとは思います。

 でも、レーブが親善試合でもノイアーだけを起用し、控えのGKに出場機会を与えないようでは、やはりリスク・マネージメントとは言えないと感じます。

 1998年ワールドカップの前に、ベルティ・フォックツは

 「フランスに行くことが確定しているのは、私とケプケの二人だけだ」

 と宣言し、GKの序列をメディアに宣言します。

 つまり、この声明の段階でオリバー・カーンはアメリカ大会に引き続き、選出されてもベンチが定位置という事がかくていしたわけですが、だからこそ2002年にはあれだけの活躍ができたのでしょう。

 言い換えれば

 「溜めたエナジーを発散」

 と言う形でした。

 だからこそ2006年の際、クリンスマンが本大会直前までイエンス・レーマンと自分を競わせたことが嫌だったのは当たり前かと思います。

 カーンには彼なりの自負があり、その自負が軽んじられていると判断したためでした。
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僕が思う代表監督の今

2014-12-19 01:45:09 | 日記
 僕は後任の代表監督選定に入るべきかと思います。

 確かに有罪では無い人物に解雇を告げる事は、サッカーに限らず一般社会でも避けるべきかと言えます。

 では何故選定に入るかと言えば

 1・代表監督はその国の顔であり、そんな簡単に指名は出来ない
 2・選手の気概

 という2点にあります。

 僕が大切だと思うのは、「2」の方ですが。

 例えばオシム政権を思い出してみましょう。

 羽生、阿部、そして巻といった彼の薫陶を受けた選手たちは

 「オシムさんに恥をかかすことは出来ない」
 「監督に成長した姿を見せたい」

 という心意気が、代表の屋台骨となる意思の強さに繋がりました。

 脳梗塞とおう病魔が無ければ、2010年ワールドカップは全く違う陣容で臨んでいたでしょうね。

 今夏の日本代表も同様です。

 僕は話題の「通訳日記」を読んでいませんが、長谷部を軸にザッケローニの要望に応えたい、この監督と共に勝ちたいという強い意欲は、ほとんどの選手が抱いていたはずです。

 それはこの両監督が

 「日本と言う国に対しての敬意」

 を忘れなかった為です。

 もしアギレ監督が有罪にならなかったとしても、選手たちは

 「この監督と共に進もう」

 とは思えないのではないでしょうか?

 アジアカップは現在の形で挑むことになりそうですが、選手たちが束の間のオフを過ごす間、日本代表は新しい指揮官になっている可能性もありますし、同時に選手の入れ替えもありえる。

 そんな気がします。
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