孔丘を 越えむとはして 小人が 玉皇上帝 なるをつくりき
*少々衒学的なきらいがありますが、まあたまにはいいでしょう。
「玉皇上帝(ぎょくこうじょうてい)」または玉皇大帝というのは、道教の最高神です。西遊記にも天帝として出てきています。まあ、天界で一番偉い神というところでしょう。ですがこの神の経歴は実はかなり新しい。最高神として認定されたのは宋代のことです。
一応それなりのキャラ設定はあるようですが、はっきり言ってこれは、近代の新興宗教が設定した眉唾の至高神の神格とそう変わりはありません。人間が想像した最高の権力を、形にしてみたものです。実際には、天帝などという存在はありません。
天界というものも、ありませんね。神が住んでいらっしゃる国はありますが、神はこの地球世界をも、自由に闊歩されている。人間の言う天界とはたぶん、人間が住みたい絶対権力者の国でしょう。恐ろしいほどの金持ちで、無限の力と権威を持ち、地上のすべての存在を支配できる。
そんな恐ろしいものが実在すれば、この世界は成立しません。実際、世界のすべてを支配できる権力者などというものは、赤ん坊の自己中心性が人間の想像力によって発展したものにすぎない。いつまでもなめていてはいけないおしゃぶりのようなものです。
実在の神というものは、実に美しく雄大な存在です。支配などしはしない。権力を実行するときはあるが、それはそれをしたほうがいいという場合のみです。絶対権力者という資格はありますが、それをやろうとはなさいません。真実の神は、あらゆるものの存在を認め、それが永遠の幸福に至るまでの道を保証している。愛でなければ、神になどなれません。
天帝などという恐ろしくも滑稽な権威を考える裏にはもちろん、事実上の優位者に対する対抗心もあります。実質この玉皇上帝は、孔丘という聖者の存在を意識して設定されたのです。表向きは関係のないような顔をしていますが、暗いところには拭い去れない人間の心理がある。小人(しょうじん)の心理というべきか。
真っ向から挑戦してはかなうわけがありませんから、あんなものはたいしたものではないのだとすることができるような、超越した権威をつくり、間接的に優位者を馬鹿にしようとするのです。弱者とか、敗者の心理というものだ。自分は馬鹿ではないと思いたいから、想像の中でそういうものをつくり、幻の中に自分を立てようとする。
中国ではほかに、関帝という、関羽を神格化した神があります。関羽は劉備の配下の武将ですから、中国人が上役の劉備ではなく関羽を神にするのにも、何らかの心理を読み取れますね。上よりも、下の方のものが偉いのだということにしたがるという。阿呆はよくそういうことをします。だが事実上は、劉備のほうが関羽よりずっと上なのです。
関帝は今もよく中国人に信仰されているそうです。なんとなく、中国という国がわかりますね。