落ちて来ぬ 月を敵と いふ猿の 棒を振りたる 群ぞ悲しき
*きれいなのが続いたと思ったら、これはまたきついですね。最後の七は、「ぞ」~連体形の係り結びです。
落ちてこないからと言って、月は敵(かたき)だと言って、棒を振り回している猿の群れほど、悲しいものはないなあ。
きれいなものが欲しいと、いっぱい努力して月をかき落とそうとしても、月が落ちてくるはずなどないのに、猿がどうしても欲しいと言って、棒を振りながら暴れている。まあそういうさまを、あなたがたも見たでしょう。阿呆などというものではない。
月が日よりも暗いからと言って馬鹿にするからそういうことになる。
陰徳というは、人に見えないところで善行を施すことを言いますが、自分を低めて、他人の光を立てることもそれに入る。そういう目立たないよいことを積み重ねるということを、女性はこれまでずっとやってきた。陰徳あれば陽報ありという言葉があるように、良いことをすれば必ずそれに見合うものが授かる。馬鹿な男が気付かないうちに、良い女性の心はとても高いところに登っている。それはもう、猿が長い棒を振り回したとて、とても届かないところにいってしまうのです。
良いことをしっかり勤めていくと、いずれ、嫌なことになろうとしてもできないようなものになってしまうのですよ。今まで真の愛を注いで助けてきた人たちが、その人を助けずにいられなくなるからです。それが愛の法則というものです。たとえ、陰徳にはっきりとした陽報がついてこなくとも、その人はその分とても美しくなる。その美しさを見ると、人は打たれて、痛いことができなくなってくるのです。
阿呆はこれがわからないから、きれいな女性が欲しいというだけで、あらゆる馬鹿なことをしてしまい、結局何もならなくて、悔しがって集団で棒を振り回すことくらいしかできないのだ。
こういう内容の歌は、今までにも何度か詠ってきたが、表現の仕方でいろんな歌が詠めるのが面白い。槻の太根や螻蟻の穴の歌などと読み比べてみてください。視点や切り口の工夫次第で、いくらでもおもしろいものができます。
で、わたしも詠んでみたくなりました。
月去りて 後の闇夜に 濡る猿の 荒び果てにし 尻ぞ悲しき 夢詩香
「荒ぶ」は「あらぶ」ではなく、「すさぶ」です。意味はわかりますね。
いかがですか。