明日知る 鳥を裂きては 犬に売る 馬鹿の高嶺に 見ゆる月とは
*今日のもかなり厳しい歌ですね。最近銀の香炉や鷦鷯のような美しい歌が来ません。みなの気分というもののもあるでしょうが、ちょっと寂しい気もする。かのじょのやさしい歌もいいが、あの人の心のこもった澄んだ歌も欲しいですね。だが今はここにいないのです。媒体は同じでも、歌は人の心によって違う。あの人が帰ってきたら、そのときまた香炉のような歌を請うことにして、今日は今日の歌です。
「高峰(たかね)」は文字通り高い峰のことです。
明日を知っているという、尊い鳥を捕まえては裂き、犬のようなものに売っている、馬鹿がいる高い峰からは、どんな月が見えるものだろう。
ひねってはいるが、意図は明白だ。月は真実や理想を表す。鏡のように美しい月は、まごうことなき美女の隠喩でもある。さて、馬鹿はいいものを何もわからない犬のようなやつに売りさばき、金を稼いで高嶺のようなところに住んでいるが、そこからどんなきれいな月が見えるというのか。
美人とセックスがしたくて、馬鹿みたいな派手な服を着て売名行為をし、ヘタな芸を見せて金を儲けては、いい家に住んでいる馬鹿男はいるが、そうやって見ている夢の中には、実は誰もいないのです。金の匂いに時たま寄って来る女はいるが、そういうのは鷽の屁のようなものだ。すぐにいなくなる。本当に自分を愛してくれる女は、実はそういう世界にはいない。
ああちなみに、「鷽(うそ)」というのは鳥の名です。アトリ科の小鳥で、地味だがほどほどに美しい。よい声で啼くそうです。鷽には悪いが、名前が「嘘」につながるので、使わせてもらいました。明日を知る鳥というのはどういう鳥でしょうね。鷽ではしょうしょうきつい。真鶴(まなづる)という美しい鶴には真の字が入っているが。トウゾクカモメではあるまい。ツミでもあるまい。コマドリなどはいいかもしれない。かわいらしく品のよい赤を身につけている。まあいろいろと思い描いてみましょう。洒落みたいなものだがこういう練習が、よい歌を詠む力をつける基になるのです。
コマドリというのは美しい鳥です。小さな鳥だが、気まぐれに庭先などに来てくれると、とても美しい貴人が訪れてきてくれたような気がしてうれしいものです。捕まえることなどできない。しようとすればすぐに逃げていく。ほんのつかの間だが、美しい姿を見ることができただけで、人間は何か、生きるためにとても大事なものをもらった気がするのです。
そして実際、庭にコマドリが来てくれたというだけで、悲しいことを忘れて、生きる力が出て来たりするものです。
だが、馬鹿というものは、そんなコマドリの美しさがわからない。ただの肉とだけしか思えない。だから簡単に、嫌な方法で鳥をつかまえる。そして羽をむしり、ただの肉にして売るということが、平気でできる。それで時にはしこたま金を儲ける。
だがそういう男のところには、コマドリは飛んできてくれなくなるのだ。不思議に、馬鹿な人間のところには、美しい小鳥は来てくれないものなのですよ。これは本当です。スズメやカラスは来てくれるが、人間が目を吸いつけられるような魅力的な小鳥は、なぜか来てくれないのです。
なぜスズメやカラスが来てくれるかは、教えておいてあげましょう。スズメやカラスは、人間を馬鹿にしているからです。なんとなくわかる人は、感覚がすぐれています。
人間を肉のようなものだとして、自分のエゴのために利用することしか考えていないような人間のところには、本当の人間は寄って来ません。もちろん、本当に美しい女性も寄って来ません。寄って来るのは、うそのへのような馬鹿ばかりです。
馬鹿が住んでいる高嶺から見えるのは、きれいな着物を着て、高価なものを身に着けて、月のようなものだと見せかけているだけの、本当は屁のような馬鹿ばかりなのです。