憂き世とて 紅なをしみそ 色見草 山に栄えて 人を諫めよ
*古語辞典を見ると、「色見草(いろみぐさ)」とは「紅葉(もみぢ)」の別称だとあります。魅力的な言葉を見つけるとすぐに使いたくなる。五文字ですから歌にも詠みやすい。同じようなのに「夢見草(ゆめみぐさ)」がありますね。こちらは桜の別称です。
魅力的な言葉を見つけたら、積極的に使っていきましょう。昔の人はこんな言い回しをしなかったのではなどと、悩む必要はありません。古語を使っていても今は現代なのですから、現代の感覚で使っても支障はない。
美しい言葉を見つけたら、それを使っていろいろと詠んでみましょう。
秋の紅葉をなぜ色見草といい、春の桜をなぜ夢見草というか、わけをしりたいところだが、残念ながら詳しい説明は辞書にはない。なんとなく仏教的な厭世観でかんぐりたくはなってしまいますが、それはまた後のことにしておいて、表題の歌に行きましょう。
憂き世だとて、その紅を惜しまないでおくれ、紅葉よ。山に栄えて人を諫めておくれ。
今年の秋の紅葉は、例年になくすさまじく美しかったように思います。まるで山が燃え上がり、人を責めているようだった。何をしてどうなったかが、やっと人間にわかりかけてきたからです。
後ろ暗いところがある人は、燃えるような秋の紅葉を見ると、何かに責められているかのように感じるでしょう。実際、紅葉する木々は人を責めているのです。あまりに愚かだと。いやなことばかりしておいて、責任をとることすらしないのかと。
秋は、夏に人間がやったことの結果が見える季節だ。それなりによいことをした人には、紅葉は目も覚めるような美しさに見えるだろうが。馬鹿なことをしたり、何もしなかった人には、目につきささるように痛く見えるのです。
人間は知らない。秋に山が紅葉するのは、自然にそうなるのではなく、植物の霊魂がやっている活動なのだということを。木々には確かに麗しい霊魂がいて、毎年その生の活動をし、丹精こめて葉を織り色をそめあげているのだと。光を浴び風を吸い、時に苦しみ喜びながら、恐ろしく美しく生きているのだということを。
彼らは高い生き方をしている。だから人間の未熟さが、時にたまらないのです。
この項を発表するのはもう冬の真っ盛りですから、紅葉の葉もすっかりおちて山にも裸の木々が多いだろうが、これを書いている今はまだ、ちらほらと葉が残っています。南国ですから冬はやわらかい。とはいえ寒さは厳しい。
盛りの季節になした愚かなことが、身にかえってきた人たちには、この冬はことのほか厳しいものとなったでしょう。