まづしくも 清く生きむと はしためと なりてはたらく 月夜なるかな
*わたしたちの歌の中で、「月」「月夜」「野の月」などというときは、かのじょその人を表す場合が多いです。最初のころ「月の子」とも言っていましたが、そういうとかのじょが恥じらうような気がしたので、「野の月」などと言い変えました。奥ゆかしい人ですから、自分をよすぎるように言われると、恥じらって逃げてしまうのです。
野原にいつもいた月のような人、という意味で「野の月」などというと、それほど恥ずかしくはないようだ。ぴったりの表現なので、これからも使っていきましょう。
貧しくても清らかに生きようと、はしためとなってはたらく、あの人であることよ。
はしため修行とか、下僕修行というものは、人間の必須科目です。人の下になり、人の命を聞いて働くという修行をして、そのつらさ苦しさを味わわない限り、人はやさしくなれません。
人の下になって働くというのはつらいものだ。偉い人にしじゅう膝を折って仕えねばならない。上の人がやさしい人だったらいいが、ものごとのわからない未熟なひとだったらそれはつらい。なんでもいやなことはやらされる。それでも滅多に逆らえない。逆らうと仕事をやめさせられるだろう。そうすれば家族に迷惑をかける。
できない辛抱もして、いろいろなことを身につけながらも生きていく。その中で、世の人の苦労やつらさもわかってくるのです。人にやさしくできるようになる。
これをいやがって、ずるや盗みでいつも上の人になって生まれてくるという人もいるのですよ。霊界から操作すれば、自分の人生をある程度選ぶことができるのです。百姓なども身分の低いものに生まれて、人のために働くのがいやで、上の方の身分に生まれてくる人などいる。そういう人は、下の人の気持ちなど分かりませんから、自分のわがままばかり人に押し付けて苦しめて、何にも思うことができない。
下僕修行をしなければ、人は人の気持ちをわかることができないのです。
かのじょは、夫が失業したおりに、書店にパート勤めなどしましたが、普通天使はあんなことをしないものなのですよ。それなのにしたのは、美女の人生の見本をあなたがたに見せるためです。美しい人ほど、頭を下げて、はしための仕事なども一生懸命にやるものなのだと。
美しい人でしょう。
あなたがたも、美しくなるためには、それくらいのことができねばなりません。
自分から人の下に下がり、人に仕えて生きていきなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれをしてくれた、あの人の気持ちもわかることでしょう。