細月の ごときゑまひを 風に彫り 楠の夢野に 月は去りぬる
*この世界から、あのくすのきは消えてしまったが、しかし夢の中ではまだ会うことができる。かのじょも眠りの中であの野辺のくすのきにたびたびあっていることでしょう。
帰らぬ日々も、夢の中ではしばし許される。それは生きていたあの頃の悲しみをある程度癒してくれるには違いない。
あの人はいつも寂しげに笑っていた。何をどう努力しても結局だれにも心は通じないだろう。それでもやらねばならない。そう思う時、かのじょはさびしく笑っていた。月が細い時は、まるでほほえみの口元の形のようだと言ったのはかのじょだったが。
そんなほほえみを、風に彫るようにこの世に残して、あの人は、今もあのくすのきが立っている夢の中の野に、去ってしまった。
もうだれも邪魔することはできない。いいえ、させはしない。
生きている間は決して伝わらなかった心も、今になってようやく、人々にもわかってきたようです。あの人は不器用などというものではない。裏という心がないのだと。影がなさすぎるのだと。
そしていつも人間は、愛していたものの本当の姿がわかってから、激しく後悔するのだ。
失ってからでは遅すぎるというのに、いつも、何もかもを失ってから、愛を歌い始める。
凡庸というのはきついものですよ。愛があるときには何もわからず愛を壊し続ける。食いたいという暗い欲望に勝てず、なにもかもをだいなしにしようとする。そしてすべてをひとのせいにして逃げるつもりでいるのだ。
だが逃げられはしない。
これから、何万年の月日を費やして、彼らは月を消したことの罪をつぐなっていかねばならないのです。愚かしい悪口を言い募っただけで、彼らは世界を滅ぼした罪を稼いだのです。
世界中の人間がそれを知っている。逃げられるわけがない。
あの人は消えてしまったが、しかしあのほほえみは、人々の記憶から消えることはないでしょう。
さびしげな微笑みだった。いつでも。人はそれを見て頭から嘘だと思いたがった。
あんなものは馬鹿なのだと。
それでなければ、激しく自分がつらかったのです。