しじふしの しづのをがゆく 荒野には われを見捨てし あほうがむかふ
*わたしたちがシジフォシアと名付けた世界は、何もない世界です。神が一切の創造を行わなかった、永遠の黎明の世界なのです。
まるでファンタジーのようですが、ファンタジーではありませんよ。そこは本当にあるのです。それは死ねばわかります。人間、死ねばみんな霊的世界のことがわかるのです。
しじふしのしづのをがゆく荒野、というのは、しじふし(四十四)とシジフォスをかけているのです。葡萄式部が考えた言い回しですが、なかなかにおもしろい。シジフォスの神話についてはここでは語る必要はありませんね。徒労の代名詞ともいえる名です。
そこでは何をしても徒労に終わるのです。人々はただそこにいるだけで、何もしようとしない。何かをしてもそれはすぐに馬鹿になってしまう。何もないところだからです。
なぜ馬鹿はそこに向かうのか。それは自分というものを馬鹿にしたからです。自分というものを馬鹿にして、くだらないものにして、永遠に自分以外のものをむさぼって生きようとしたからです。それは神を馬鹿にすることに等しいのです。ひいては、神が永遠の努力をなして作ってくださった、美しい地球世界、人類世界を馬鹿にするのに等しいのです。
この世界を見てごらんなさい。あらゆるものがある。あらゆるものがいる。あまりにも美しい世界です。神はものすごい努力をなさって、営々とこの世界を創り続けていらっしゃるのです。神とは自己存在の究極の進化形です。自分というものの、すばらしい進化形なのです。自分を馬鹿にすることは、その神をも馬鹿にすることに等しいのです。
自分というもののすばらしさを認めないなら、その自分というものが何も行わなかったところへと向かうがよい。自分というものが、永遠に馬鹿になっている世界へと向かうがよい。
自分を馬鹿にすることは、その自分というものが作り上げたこの世界を馬鹿にすることに等しい。ですから、馬鹿な人間はこの世界を永遠に失わざるを得ないのです。