われならぬ ものとなりにし われを見て 人はやうやう 人を覚えぬ
*「覚ゆ」はこの場合、「わかる」という意味です。「やうやう」は「やうやく(漸く)」のウ音便。「かろうじて」とか「やっとのことで」という意味になります。
自分ではないものになってしまった自分を見て、人はようやく、人というものがわかった。
と、こうなりますかね。人間というものは、自分を嫌がり、自分以外のものになろうとして、いろんな馬鹿な努力を続けてきましたが、この時代、とうとうその願いが叶い、本当に自分以外のものになってしまったという人が出ました。
要するに、神が創ってくださった本当の自分を壊してしまい、全然違うものになってしまったのです。あまりにも馬鹿なことをやりすぎると、人間はそういうものになってしまうのです。
永遠を失う、とわたしたちは時々言いますが、それは馬鹿なことをしすぎて本当の自分を壊してしまえば、人類の進化の正当な道をすべて失うということなのです。人間は人間としてまっとうに生き、まじめに勉強していきさえすれば、やがて天使にもなり、神にもなれるという永遠の美しい霊魂の進化の道をもとから与えられていたが、それをすべて失うのです。
そうなってから初めて、人間は人間の麗しさを知る。人間として、自分として生きることがどんなに大事なことかということを知る。しかしそれではあまりに愚かだ。何もかもがおじゃんになってからものごとがわかったとて何もなりはしない。
そうなる前に、人間はわかるべきなのです。嘘ではない本当の自分としてまっとうに生きることが一番いい道なのだと、わかることが大事なのです。
本当の自分を失ってしまった人間には、別の道が用意されます。彼らは自分が一体何になるのかを、自分で創造しなくてはならない。そういうものになったのです。それは人間ではない。まったく人間とは違うものです。
彼らは自分を嫌がり続けることで、人間ではないものになりはてたのです。