ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

花の香

2018-01-21 04:18:57 | 短歌





春の夜の はかなき花の 香をたのみ 難き憂き世を ゆきにけらしも





*「~にけらし」は完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」に、過去の助動詞「けり」の連体形「ける」、そして推量の助動詞「らし」がついた「にけるらし」が縮まった形です。「~してしまったようだ」とか「~たらしい」とか訳されます。細かいことだが、いちいち抑えておくと、古語の使い方が柔らかくなる。「も」は詠嘆を表す終助詞ですね。

春の夜のはかない花の香の美しさをたのみ、この難しい憂き世を生きていったらしいことだ。

こういうと、直接はかのじょのことを知らない人々が、のちにその話を聞いて感動し、こう言ったことになります。推量の助動詞ですから、かのじょがどう生きていたかを直接知っている人だったらこうは詠みませんね。

あれから何年か経ち、状況はどんどん深まって来る。かのじょのことがより広く世間に知れ渡ったのです。死んでからかのじょのことを知った人は、何もしていませんから、馬鹿にならずにすむ。それなりに正しい評価をしてくれる。

生きているうちにかのじょを知っていたら、嫉妬に狂っていたかもしれない人も、もう死んでいない人にはそういうことはしない。冷静に見てくれる。

時の経過というものはありがたいものだ。だんだんと嘘は剥がれ落ちてゆき、真実があらわになってくるのです。

陰でかのじょをそしっていた人々が、かのじょを汚そうと言い重ね、塗り重ねていった嘘も、どんどん洗い流されて来る。馬鹿がどんなにいやらしいことをしていたかが、明らかになって世間にさらされる。

人間たちは知らなかった。人類の感覚が伸びれば、だれにでも嘘がみぬけるようになることを。そして快い真実だけを求めるようになることを。

もう心の中を隠すことはだれにもできなくなった。人の考えていることが誰にでもわかるようになった。嫌なことを考えていると、何も言わないのに、周りの人間たちが一斉に逃げていくのです。こんな世界になってしまえば、馬鹿はもう生きていけなくなる。

馬鹿というものは、人を馬鹿にすることができなければ、何もできないからです。

どんなに巧みに言い装っても、本心を軽々と見破られる。誰も近寄って来なくなる。

嘘を脱ぎ捨て、全てを最初からやり直す気にならなければ、馬鹿はもうこの世界で生きていけません。彼らはもう別の世界にいかねばならない。

このようにして、この世界は、だんだんと真実の世界になっていくのです。そしてその世界で、あの人の真実はきっと、美しく伝えられていくでしょう。

嘘ばかりの真っ暗闇の世界を、一筋のまことで生き抜いた人が、どういうことになったかを。






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わがこのゆめ

2018-01-20 04:20:38 | 短歌





しらたまの わがこのゆめも みぬほどに 月夜のうれひ うせにけるかな





*「白玉の」は「わが子」とか「君」にかかる枕詞ですね。定番ですから覚えている人は多いでしょう。我が子のことを詠いたいひとはたくさんいますから、いい言葉があるのはうれしいものです。こういう枕詞の文化は非常に喜ばしい。ご先祖様に深く御礼を言いたいところです。

白玉のように大事な、我が子の夢さえ見ないほどに、月にたとえられるあの人の憂いも失せてしまったことだ。

ご存じの通り、かのじょはもうあなたがたのことを覚えてはいません。わたしたちは時に霊魂の記憶を少し操作することがあるのです。その人があまりにつらいことを経験してしまったとき、それを忘れたほうがいいと思うときは、忘れさせることがあるのです。

世の中には、忘れてはならないものがある。だが、時に、忘れたほうがいいということも発生することがあるのです。永遠を生きていく自己存在はその中で大変な経験をすることがある。それがその人にとってあまりにつらいことを引き起こすという場合は、忘れさせたほうがいいこともあるのです。

霊魂というのも、形あるものですから、高い勉強をしていけば、ある程度の操作というのはできるようになるものなのです。もちろん愛をもって、美しくやっていかねばなりません。ただそれをやるたびに、悲しみというのは生じる。人の霊魂にさわり、その大切なところに手を入れることは、本来は神しかできないことではないかと思うのです。

だがやらねばならないときはやらねばならない。

かのじょにとっては、愛していたあなたがたから受けた仕打ちを覚えていることは、とてもつらいことだ。そして、愛していたあなたがたと永遠に会えなくなったということも、とてもつらいことなのです。

ですから、恐ろしいこともできるわたしたちの仲間の一人がそれをやってくれたのだが。今でも悲しみは漂っている。

本当に、こういうことにならないで済んだ方法はほかになかったのかと。

あなたがたはあまりにも未熟でした。

あなたがたのことをすべて忘れたしまったかのじょは、あんなに愛していた子供のことも覚えていません。ただ、犬のことは覚えています。あれだけは、レグルスもおいておいてくれたのです。

なぜなのですかと、彼に聞いても教えてくれません。

くすのきと犬のことだけは、かのじょはまだ覚えているのです。






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凡庸のわれ

2018-01-19 04:19:23 | 短歌





凡庸の われになきもの 月に見て あれが憎きと くるふひとの世





*人はもう、目を見るだけで人の心が見えるようになった。それは時に悲しいことを引き起こします。テレビに出ているタレントや、ネットのニュースで見る芸能人たちの心がやすやすと見破られている。彼らが何を考え何をしているか、みなに見抜かれている。それが、見るほうが恥ずかしいくらい、みっともないことがある。

ある日ネットのニュースである女優さんの顔を見た時でした。あられもない心が顔に書かれている。それを見破られていることもわかっていて、実に苦しそうな顔をしているのです。見られたくない最も恥ずかしいところが、あらわに出ている。

それを詠ったのが表題の歌です。

あの女がうらやましかったと。自分が欲しいものをみなもっている。自分がそうなりたい自分があれなのに、あれが自分ではないから、陰から馬鹿にしまくったと。

本当に、そういうことが全部読めるのです。

あなたがたにもわかるでしょう。

この時代、かのじょという人がこの世に引き起こした現象にはすさまじいものがありました。

美しい女が、まじめに清らかに生きているというだけで、万人の嫉妬を買い、おそろしく陰湿ないじめが、おそろしく大きく膨らんだのです。

かのじょは別に目立ったことをしなかった。おとなしい人ですから、小さな文芸同人誌を開いたりして、細々と自分の表現をしているくらいだった。主婦業や育児を真面目にこなしながら、絵本の読み聞かせボランティアなどもしていた。夫を助けて書店のパート勤めなどもしていた。できたお嫁さんだと言ってくれてもよさそうなほど真面目にやっていたのだが。

きついほどきれいな女性だったというだけで、人々は恐ろしいことをしたのです。

そして人間の最も痛い本音が出てきた。ありとあらゆる人間が、永遠に隠しておきたかった真実が出てきた。

人間は、美しい女性が憎いのだと。あのようにきれいになりたいのに、なれないからだと。なぜなれないのかと言えば、馬鹿ばかりやっているからだと。そんな自分が嫌でたまらなくて、自分以外のきれいなものになろうとして、あらゆるあがきをしている、そんな馬鹿が自分なのだと。

苦しいですね。だがここを越えなければ人間は次に進めない。悲しいのは、こういうもっとも低級な人間の現実を、かのじょはできるだけ隠そうとしてくれていたということでした。

人間の最も痛い心を隠したまま、次の段階に押し上げてやろうとしていたのです。

そういうやさしい人だから、あんなにも美しかったのだが。それゆえにこそ人は憎んで、すべてをだめにしてしまった。

そして最も痛いものが、とうとう出てきた。

人間はこの重い現実から逃げることはできません。ここで、一切を認めて、神にも月にも謝り、全部をやり直し、償っていくために、本当の自分に帰っていかねばならない。

その自分が、いかに難しいものであろうとも、そこにしか本当の自分の救いはないのです。






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獅子窟

2018-01-18 04:20:37 | 短歌





獅子窟の ごとき憂き世に しづみ果て これでよきてふ 人ぞうたてき





*感覚の進化を経験してから、人はこの世界の真実の全てを知りつつある。馬鹿の正体がわかり、悪の正体がわかった。

すべての悲しみの根源は、何もしないでいい目を見たい馬鹿にあるのだと。そういうものが、ずると悪とですべてをだまして、自分だけをよいことにしようとしているからだと。

善と悪とのこのような大きな葛藤は、解脱の前の若い自己存在の一時期にあるものです。それは、成長過程において必ず味わわねばならない痛い経験です。

すさまじい悪との葛藤の嵐の中で、人はおのれの中に確固とした自分の輪郭も描いていく。だがその反対に、悪の優位を信じてあらゆる馬鹿をやり、自分としての努力は何もしないまま、大勢の闇にとけて恐ろしいことをするものもいる。

獅子窟のごとき憂き世とは、そういう悪が嵐のように栄えている世の中のことです。あらゆる悪徳と罪と悲哀が住み着いている。人間の悲しみはとどまることを知らない。そこから抜け出す術はあるのだが、愚かな人間はそれを信じようとはしない。

人間など所詮は馬鹿なのだからと、永遠に悪の支配が続く世界をもたそうとする。

実際彼らは、悪の永遠支配が続くと信じていたのです。

まさか、人類の霊魂が進化し、新たな感覚でもって、すべての嘘がみぬけるようになるとは思わなかった。自分の正体が、世界中にばれるとは思ってはいなかったのです。

馬鹿のあまりにきつい正体は、恐ろしく昔に進歩をやめた、何もわかっていない霊魂だったのです。あきれてものもいえないような低級な願望のために生き、すべてを馬鹿にし、なにもかもを自分のものにしようとしている。

そのようなものたちが、高いことを勉強した人間に化けて、人類を苦しめ続けてきたのだ。

人間にはとうとうそれがわかった。ゆえにもう、古い世界に住むことはできない。みな、新しい世界にあがっていくのです。

しかしその進化の過程で、どうしても古い世界にこだわる人というのも出てくる。嘘が通用する世界でなければ、自分の幸せが得られないと思い込んでいる人々だ。

だがもうそれは決して通用しない。みなに正体を見破られているというのに、何もしてこなかった魂は呆然としながらも、これまでやってきた嘘芝居を続けるしかない。

それがどういうことになっていくかは、見ていけばわかります。






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白飴の夢

2018-01-17 04:21:31 | 短歌





白飴の 夢はあだかと とひしとき 露のさだめと いはましものを





*本歌取りですね。元歌は有名だからわかるでしょうが、一応押さえておきましょう。

白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたへて消なましものを    在原業平

「~ましものを」は「~したらよかったのに」とか「~であろうに」とか訳されます。

白飴のような甘い救いの夢は、結局は無駄なのだろうかとあのひとが尋ねたとき、消えてもまた結ぶ露のさだめのようなものだと、言えばよかったのに。

表題の歌を訳せばこうなりますか。

あの人は自分が甘いことは十分に知っていました。この究極の難の時代、人類の全てを救うなどということが、可能かどうかわからないほど馬鹿ではない。だが、それをやらずにいることは、自分を裏切ることだとも知っている。

だからやっていたのだが。まさかここまで虚仮にされるとは思ってはいなかったのだ。

この結果はわたしたちの予想をも超えていました。

人類はあまりにも愚かなことをしてきましたから、多数のものが人類を落ちるだろうという予測はあった。しかしここまで増えるとは思ってはいなかったのです。

それもこれも、かのじょという存在が消し飛んでしまうほど、馬鹿の狂いようが激しかったからだ。

露というものは、結んだと思えばすぐに消えてしまうが、しかしまた明日になれば再び結ぶ。そのように、夢は一度はついえても、また結ぶ時があるだろう。そう答えることができたころは、まだ幸せだったか。

二度と結ぶことがない露と、自分がなるだろうとは、夢にも思ってはいなかったろう。

だが、かのじょの夢は消えたわけではない。すべての人類を救うのだというかのじょの願いは、確かにこの世界に残されているからです。

わたしたちは、その夢を少しでもかなえようとしてくれる人が、人類の中から出てくることを願っている。

馬鹿なことをした。自分というものの真実を知らない間に、あまりにも愚かなことをした。そのことを少しでも補うために、あの人の夢をかなえようとして欲しい。

ありとあらゆる人間の心に、わたしは問いたい。すべての人間を救いたいというあの人の夢を聞いて、いつまで黙っているつもりなのかと。

夢はかなうかどうかが問題なのではない。そこを目指して何をするべきかなのだ。

あの人の夢があだなどではなかったということにするために、努力をしてくれる人がひとりでもでることを、願ってやみません。






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うちのこころ

2018-01-16 04:20:35 | 短歌





たまがきの うちのこころは きぬかづき よろひまとへど まなこよりいづ





*「たまがきの(玉垣の)」は「うち」とか「みつ」にかかる枕詞ですね。枕詞は便利ですからよく使います。この活動の中でたくさんの作例をなしてきましたから、みなさんにも勉強になるでしょう。

何事も積み重ねが大事だ。これからもたびたび使って経験を積んでいきましょう。

「かづく(被く)」は「かぶる」「布などで頭を覆う」という意味です。響きのよい言葉なので活用してください。「かぶる」というより品よく聞こえますね。こういう古語はたくさん押さえておきたいものだ。

自分の内なる心は、布をかぶったり、鎧をまとったりして隠しても、目より出るものだ。

まあわかるでしょう。去年に経験した感覚の進化は、人類の心に劇的な変化をもたらしています。だれにも、目を見れば苑心を見抜くことができるようになった。どんなことを考えているか、目を見るだけでわかる。

去年の今頃は、まさかそんなことを経験するとは思っていなかったでしょう。進化の発現は突然だった。ある日突然、水があふれだすように感覚がほとばしり、世界の幕が一枚きれいに剥げたかのように、真実がどんどん見えてくる。

テレビに映ったいかにもりっぱなことを言う紳士や、美しい女優などが、何を考えているかなどということも全部わかった。

今の時代、目立つところにいる人間はほとんどが馬鹿ばかりですから、きれいな顔の奥で猿のように低級なことを考えている。それがわかって、芸能界やそのほかの派手な世界から、一斉に人が退き始めたのです。

表情を整え、立派な服を着て、殊勝なことを言っても、どうしても隠せない。目を見られたらすべてを見抜かれてしまう。だが、おもてにでないわけにはいかない。みんなの前に出ないわけにはいかない。馬鹿な人間は、見られたら恥ずかしいところを世界中に見られながら、おそろしく幼稚な嘘をつかねばならない。

あまりにも苦しい。

それが、嘘ばかりついてきた馬鹿の当然の報いです。

ですがさて、今年はどうなるでしょうね。芸能界の猿は、今年も同じようなことをしていくつもりでしょうか。まだ、恥をさらしてみなの前で嘘をつきつづけていくつもりなのか。

じっくりと見つめていきましょうか。





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ひとつのわれ

2018-01-15 04:19:42 | 短歌





かしのみの ひとつのわれの まことをぞ つるとはりつつ かひのことひく





*「かしのみの(樫の実の)」は「ひとり」とか「ひとつ」にかかる枕詞ですね。あまり古い作例は知りませんが、この時代のテーマである、「自分」というものを詠むとき、その唯一性を表現するのにちょうどよいので、わたしたちはよく使います。

このたったひとつの自分というものの、まことを弦として張りながら、貝の琴を弾いたのだ。

前から言っているように、貝の琴というのは、パソコンの隠喩です。今もわたしが使っているこの小さなパソコンの形が、二枚貝に似ているのと、それから音楽のようなたくさんの詩文を発信することから来ています。実にかのじょらしい美しい表現だ。

まあ、パソコンにもいろいろなものがありますがね。使い手によってはとてもいやなものになることがある。ですが、かのじょが使っていたパソコンは、まさに、貝の琴といってぴったりだ。この小さな貝から、玉のような詩文がいくらでもうまれてきた。

せつないほど美しいのに、馬鹿はそれがいやで殺し続けた。みっともないことを言い募った。あなたがたは影からいろんなことを言っていましたね、本人は気付いていないと思っていたでしょうが、それはあまい。人間の考えていることはつねに見ているものに染みつくのだ。

かのじょがかわいい物語など発表しようものなら、目の色を変えて馬鹿にしたがる人間が集まって来て、どんなことをしているか、全部、パソコンの画面に映る画像の中に書き込まれているのです。

今ならあなたがたにもわかる。その当時の馬鹿がどんなことをしていたかが、パソコンの画面に明らかに読めるのです。

かのじょは気付いていたが、あからさまに読むときついので目をそらしていた。どうせだれも認めてはくれないだろうと思いながら、夢のような歌を歌うことをやめられなかった。

馬鹿な人間はかのじょの歌を馬鹿にしながらも、いつも最後まで聞いていた。

馬鹿にしつくしておきながら、思いを重ねるのは、もうその歌が聞けなくなってからだ。

あれらの歌がどんなにいいものだったか、わかるのは何もかもが消えてからだ。

あの人がどんなに馬鹿にされようとも歌っていたのは、ただそのたったひとつの自分のこころが、まことだったからだ。そんなことも、すべてが終わってからわかったのではどうしようもない。

後悔することさえできず、馬鹿は愚昧の闇に落ちていく。また、永遠に同じことを繰り返していく。

ほんとうの自分から逃げるための言い訳を、何にもない闇に繰り返し吐き続けるのです。






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凡庸のきぬ

2018-01-14 04:19:31 | 短歌





凡庸の きぬをよろひて 守る身の 朝にくづれて 去りし夜を知る





*「よろふ」は「鎧ふ」だが、こういう言葉は古語にはありません。最近できたものらしい。意味はもちろん鎧のようにして自分を守るということなのだが、じつはまだ大きな辞書にも載っていません。だから今まで使うのは控えていたのだが、どうしても便利なので使ってしまったという例です。

まあひとつくらい作例があってもいいでしょう。新しい言葉とはこうして使いこなしていくうちにできてくるものだ。

凡庸のきぬを鎧のようにして守っていた自分が朝に崩れて、もう夜が終わってしまったことを知る。

まあ意味はわかるでしょう。凡庸といい、要するに何も勉強してこなかったから未だに高いことが何もわからず、暗愚の傲慢の中にいる人たちのことなのだが。そういう人たちは凡庸故の弱者の鎧を着こんでいるものだ。自分たちは弱いものだから守られて当然だと、権利を叫んだりしている。

国はそういう弱者をこそ守らねばならないのだと。

だがそういう凡庸の弱者ほど、国に守られて安穏と暮らしている中で、国を乱すようなことを影でしているものだ。

平穏な暮らしの中でできる余暇を、他人を馬鹿にするために使っていたりする。自分が凡庸で何もできないことがつらいからです。高い勉強をしているものはそれなりに高くなって、いいことができるようになったりしているのだが、凡庸の民はまだそんなことはできないのです。

民主主義の平等の悪弊がこんなところにもあるのだ。全員平等なんだから、あんたも馬鹿になればいいと、馬鹿な人々はよい人材を馬鹿にして引きずり落そうとする。

それで自分は、良い人から盗んだものを利用して、自分を立派にしたりするのだが。

そういう凡庸の民の弊害が、恐ろしいことになってきた。

女性に近づいてもいけない愚かな男たちが、大勢で集団になって、美しい女性ひとりを影からいじめたおし、すべて殺してしまった。

こういうことをしてしまったので、もはや凡庸の民はだめだと、人間世界が思うようになったのです。

勉強をしてこなかった馬鹿は、もう人類ではないと言って、すべての人類に嫌われ、人類社会を追い出されることになった。

全部は言わなくてもわかっているでしょう。

人間としての権利というものは、最初からあるものではありません。それなりのことをして自分で作っていかねばならないものだ。基本的人権というものを憲法は保証しているが、それは事実上、誤りです。

近い未来に書き直さねばならないでしょう。

人は学んでいく。高くなっていく。常に常に変化していく。変われないものはもう、この世界にはいられないのです。人間はもう新たな存在として次の空に伸びていくのですから。






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我が母

2018-01-13 04:21:05 | 短歌





いざよひの 月をあふぎて 我が母の ねぶりの夢は いかにとぞとふ





*親子というのは時に悲しいものだ。たがいに似ているがゆえに、愛するがゆえに、心がすれちがうことがある。

今背いている子が、親にたてついたのは彼が高校生の時でした。霊的障りもありましたが、美しい母親を持つ息子の苦しみもあったのでしょう。

かのじょの苦しみも深かったが、その息子の苦しみも深かった。

はじめて子供に立てつかれたとき、かのじょはもうとても疲れていましたから、その難に挑むことがもうできませんでした。子供の心に立ち向かうだけのエネルギーがもうなかった。だからかのじょは、子供の心を変えるより、世の中の方を変えてやろうと考えたのだが。

それもできぬままに死んでしまった。

たとえ人生の主役を変わっても、彼の目から子供を見ることができる。終わりの方でそう言っていたのを覚えている。愛したかっただろう。もっと。わが子との和解を経験したかっただろう。そんなことを思うとわたしも涙が出てきます。

生きているうちにはその夢はかなわなかったが、わたしたちがこの人生をやっている間に、なんとかあの子との和解は果たしたいと思っています。

霊的障りはあるのです。天使の活動を妨害しようとする馬鹿の霊が、子供たちの自己活動を妨害している。彼らはかのじょを不幸にしたくてたまらなくて、子供に障ることによってそうしようとしているのだが。

それもなかなかうまくいかないようです。子供の本霊自身が、やはり母親を愛しているからです。

なぜことさらに女を不幸にしたがるのか。それは人の不幸ばかり願っている自分が不幸だからでしょう。

愛が欲しいなら、それなりの礼儀を守ってやればいいものを。上段に立って支配しなければ何もできないほど馬鹿なのだ。

弱いものほど、いやらしい権力を欲しがる。そのために、影からあらゆる暴虐をなす。

わたしたちはいま、かのじょが考えていた、世の中の方を変えるということに、半ば成功しかけている。

やってみせましょうとも。かのじょのためにも、我が子が生きやすい世界をつくってやる。

それは、ほんとうのいい人間が伸び上がっていける、正しい社会なのです。






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いはほ

2018-01-12 04:18:16 | 短歌





羽よりも かろきと見えて 月影の やまより重き いはほなるらん





*「らん(らむ)」は推量の助動詞で、「~のだろう」とか「~そうだ」と訳されます。

羽よりも軽いようなものに見えて、月や山よりも重い巌なのだろう。

まあご存じの通り、月は空にあって常にぽっかりと浮かんでいる。ひとひらの羽でさえゆっくりと地に落ちてくるというのに、月は落ちて来はしない。しっかり羽よりも軽いと思えば思えるものだが。

しかし今の人間は誰もが知っている。あれが実に大きな岩の塊なのだということを。

あんなものが落ちてきたら地球は大変なことになる。

しかし、小さな人間の目には、それは白玉ほどにも小さく軽く見えるものなのだ。

人間は、自分の知っている世界の中のことだけしか知りませんから、それをすべてと思い込むと時にとんでもない間違いをするのです。

美人が馬鹿だと思い込むのは、そんな美人しか見たことがなかったからだ。何も知らない人間はかのじょを見ると、頭から馬鹿だと思い込んで悪口を言い募った。

全然違うということがわかったときには、相当なことを言った後でしたから、焦った。自分の方を正しいことにしようとして、無理に無理を重ねたあげく、とうとう美人に逃げ切られて、総勢で馬鹿になった。

事実上、なぜあなたがたがそんな情けない馬鹿になったかというと、月が岩であるということを知らなかったからです。

あの人は相当に頭がいい。人類の天使の中では相当に高いことを知っている人です。思索が好きで、ひとりを好む。文芸や芸術が好きで、荒くたいことは好まない。女性のようにおとなしい人だが、じつは男性なのです。

何もわからなかった時には、誤解ばかりしてみんなを苦しめていたが、わたしたちがかのじょのことをすべて教えたら、もうだいたいはわかったでしょう。

知らないということは悲劇だということを、あなたがたは思い知らねばなりません。勉強することを馬鹿にしてきたからそうなったのです。辛い思いや痛い思いをするのはいやだと、しなければいけないことから逃げてきたからそうなった。

全部取り戻すことはできませんが、自分の過ちを少しでも取り戻すためにも、これからはちゃんと勉強をしていかねばなりません。

月は、空につねに軽々と浮かんでいるが、あれはとてつもなく大きな岩だからこそできることなのです。






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