比企の丘

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日本のいちばん長い日・・・1945年8月15日前夜と・・・戦争を終わらせた・・・鈴木貫太郎首相

2018-08-14 | 語り継ぐ責任 あの戦争
8月はいまから73年前「8月6日広島原爆の日」、「8月9日長崎原爆の日」、「8月9日ソ連参戦の日」、そして「8月15日ポツダム宣言受諾・無条件降伏、天皇が終戦の詔勅を放送した日」と、日本という国の存続の岐路に立った月です。
もう70年以上のむかしのこと、昭和、平成の時代を経ていま新しい時代に変わっていくとき、次の世代に・・・日本が戦争に負けた・・・という事実を認識してもらいたくて、8月14から15日・・・「日本でいちばん長い日」という半藤一利の本を読んでみました。

 「日本でいちばん長い日」という本・・・は終戦後間もなく文芸春秋社入りした半藤一利(編集者、編集長、専務取締役、相談役)が社内で太平洋戦争と昭和史の勉強をはじめ「太平洋戦争を勉強する会」という勉強会を立ち上げ、元軍人、戦争体験者を呼んで話を聞く会を続けたことかきっかけで生まれた本です。そこで1963年8月の雑誌「文芸春秋」に「日本でいちばん長い日」という大座談会の記事を掲載しました。そこで一冊の本にして見ようということになり、みんなで取材を重ねて半藤さんが書いたのだそうです。敗戦から20年後の1965年のことです。初版本が大宅壮一編となっているのは諸般の事情があったものと思われます(半藤さんが一社員であった、営業上の理由・・・大宅壮一が当時の著名のジャーナリストであった)。それから30年後の1995年の再販では大宅壮一の序文ではじまり著者は半藤一利となっています。

プロローグ・・・7月27日の「ポツダム宣言」受諾を要求された日ではじまり、8月9日零時を過ぎたときソ連軍が満州国の国境を破って参戦。8月9日10時30分からの最高戦争指導会議(総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍大臣、海軍軍令部総長からなる6人)がはじまります。鈴木総理は冒頭「広島原爆といい、ソ連参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾して、戦争を終結させるほかはない。みなさんの意見を承りたい」と軍部の前で宣言します(天皇の意を受けていきなりの発言で、これで徹底抗戦の案は潰れ、ポツダム宣言受諾の方法論がはじまります)。会議中に長崎原爆の情報が入ってきます。ポツダム宣言受諾条件を巡って意見は東郷外相、米内海相、平沼枢密院議長の意見(国体の護持を付帯条件に付けるのみ)と阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令総長の意見(4か条の条件を付ける)とが分れ平行線になり結論が出ません。午後11時50分宮中御文庫(地下10mの防空設備)で最高戦争指導会議のほか枢密院議長、陸海軍の軍務総長、迫水内閣書記官長が陪席して御前会議、会議は依然として平行線。内閣総理大臣鈴木貫太郎昭和天皇に判断を仰ぎ天皇はほとんど無条件のポツダム宣言受諾の聖断を下します(御前会議では天皇は意見をいわないのが原則だそうで異例のことだそうです)。8月10日午前2時を過ぎていました。翌10日に連合国側にポツダム宣言受諾を伝え終戦への段取りを進めます。8月13日早朝に連合国側より回答、午前12時最高戦争指導会議が開かれまたしても平行線上の会議が続きます。
8月14日10時から天皇の召集により最高戦争指導会議、全閣僚、平沼枢密院議長、梅津、豊田両総長、陸軍・海軍軍務局長、迫水書記官長ら23名を集めて御前会議、会議は紛糾、午前12時鈴木首相は二度目の天皇の聖断を仰ぎます。天皇は涙を浮かべて無条件降伏を宣言します。速記録がないようですがおおむね終戦の詔勅と同じだったことが出席者のメモに記されています。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」は天皇の陸軍首脳部に対する必死の説得の言葉といわれます。午後1時連合国側に無条件降伏を通告。
8月15日未明、阿南陸相自決、終戦に反対する青年将校の宮城乗っ取り計画(宮城事件)、鈴木首相、平沼枢密院議長私邸襲撃、近衛師団長惨殺、放送会館乗っ取り計画、正午・・・録音盤による天皇の玉音放送がはじまりすべてが終わります。

※画・中村一郎・・・文春文庫「日本でいちばん長い日」の文中から。


敗戦間際の日本を収束させる大役を担った主役・・・1945年4月、昭和天皇のたって要請で内閣総理大臣に就任した鈴木貫太郎を追ってみました。

鈴木貫太郎(1868~1948年)・・・1868年(慶応4年)下総国関宿藩の飛び地の和泉国伏尾(現大阪府堺市)で関宿藩代官の子として生まれ、1871年千葉県関宿(現野田市)に戻り、1877年父の勤め先の群馬県前橋に、前橋中学、東京市の攻玉社中学、海軍兵学校、日清戦争従軍、海軍大学校、ドイツ駐在武官、日露戦争従軍、海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍司令部長、退役、1929年昭和天皇の侍従長に。即位して間もない天皇と親子以上に年の違う退役海軍軍人、よき話し相手になり天皇は人生の師として敬愛。1936年「二・二六事件」で「君側の奸」として襲撃され四発の銃弾を浴び瀕死の重傷を負うが奇跡的に「九死に一生」を。このとき天皇は「わが最も信頼する老臣を倒すは・・・」と激怒したといわれます。
1945年4月7日、昭和天皇の要請(天皇の母昭憲皇太后の陰の要請もあったという)で内閣総理大臣に。3月10日東京大空襲、3月26日硫黄島玉砕、4月1日沖縄に米軍上陸、4月7日戦艦「大和」撃沈、このとき鈴木は満77歳。「軍人は政治に関わるべからず」が信条の鈴木がこの大役を引き受けたのは昭和天皇の意を慮り「戦を終わらせること」を使命と考えたのでしょうか。8月9日の御前会議、8月14日の御前会議、天皇とのアウンの呼吸のような役割りを演じます。大役を終えた8月15日早朝、文京区千石の鈴木の私邸は終戦に反対する青年将校らに国賊として狙われて焼き討ちされたが連絡を受けていたため間一髪で脱出、暗殺を免れました。8月17日辞職。1946年先祖代々の地野田市関宿に移住、農業にいそしみ終焉を迎えました。

1948年4月死去。死の間際に「永遠の平和・・・永遠の平和」とくり返し呟いたといわれます。

生前、こう語っていたそうです。
日本の再建に必要なことは、平和の大切さを知ること、嘘をつかない国民になること・・・
戦前の日本の指導者がウソをつきに亡国に導いたことを軍人として悔いていたのだろうか。
鈴木はいまの日本を動かす政治家、官僚、各界のトップが嘘をつかないことを、遠いところから願っている・・・と思う。

※コメント欄オープン。


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2 コメント

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有難うございます。 (こきおばさん)
2018-08-15 07:00:24
書いていただき、また教えて頂きました。

8月は祈りの月、今日も平和を願って黙とうを捧げたいと思います。
有難うございました。
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8月は祈りの月 (こきおばさんへ・・・)
2018-08-17 09:15:49
せめてこの日は喪に服して黙祷をささげたい。
私は天皇制肯定者ではありませんが、天皇と鈴木貫太郎の終戦工作は「知っておきたい事実」です。
長い天皇制の歴史で天皇が意見をいえたたった一回のことかも知れません。
「歴史に学べ」といいますが、語り継ぎたいことです。
コメントありがとうございました。
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