信州上田の・・・六文銭の写真帳
1月12日、ふたたびの東御市本海野「海野宿」。昨年の11月29日以来です。
江戸時代、德川幕府は1601年から7年かけて五街道を整備、続けて1625年中山道追分宿から分れて北信濃、上越、越中、加賀に向かう北国街道が整備。追分宿から分れて小諸宿、田中宿、海野宿、上田宿へと続きます・・・。
手ーマパークでもなくドラマのセットでもなく人が普通に生活している街村です。
「売らず、貸さず、取り壊さず」・・・村人たちはお先祖様から引き継いだこの土地、この村を守ってきました。
1868年明治維新、新政府は近代化に向かって進んでいきます。交通・運輸のインフラ推進・・・鉄道網の整備に手をつけます。明治5年(1872年)横浜・新橋間鉄道開業。上野・高崎間開通1884年、1985年高崎・横川間、188年直江津・軽井沢間、1893年横川・軽井沢間開通で太平洋と日本海が繋がります。東海道本線が全通したのは1889年、ほとんど同時です。既存の交通網・・・徒歩と駅馬でつなぐ街道、宿場は時代の流れで急激に衰退していきます。
このとき海野宿のとった時代変化に対応した転換策が養蚕業でした。江戸時代後期から生糸需要の伸びで各藩は蚕業を奨励、1859年開国による横浜港などの開港により生糸の輸出がはじまります(輸出商品が生糸しかなかった)。1872年富岡製糸場開設。1857年上野国佐位郡島村の田島弥平による研究で屋根に小屋根をつけて温度調節などを行う方法が発表され、上野国緑野郡鷹山村の高山長五郎によりさらに改良されていきます。海野宿では矢嶋行康(1836~1895年、小県郡本海野村の生れ、国学者、平田銭胤の門下生))らの指導の下に養蚕業、蚕種業が大いに栄えました。海抜489m、千曲川の川縁の強風が蚕の葉につく蛆を払い飛ばし蚕の病気を防いだといいます。
蚕室の温度管理、蚕種の風穴保存など、養蚕の技術革新は春蚕だけであった養蚕を夏蚕、秋蚕に広げていきました。
このとき海野宿のとった時代変化に対応した転換策が養蚕業でした。江戸時代後期から生糸需要の伸びで各藩は蚕業を奨励、1859年開国による横浜港などの開港により生糸の輸出がはじまります(輸出商品が生糸しかなかった)。1872年富岡製糸場開設。1857年上野国佐位郡島村の田島弥平による研究で屋根に小屋根をつけて温度調節などを行う方法が発表され、上野国緑野郡鷹山村の高山長五郎によりさらに改良されていきます。海野宿では矢嶋行康(1836~1895年、小県郡本海野村の生れ、国学者、平田銭胤の門下生))らの指導の下に養蚕業、蚕種業が大いに栄えました。海抜489m、千曲川の川縁の強風が蚕の葉につく蛆を払い飛ばし蚕の病気を防いだといいます。
蚕室の温度管理、蚕種の風穴保存など、養蚕の技術革新は春蚕だけであった養蚕を夏蚕、秋蚕に広げていきました。
小屋根、大壁の養蚕農家・・・養蚕業が生み出した冨の蓄積。
旅籠造りの建屋を改良して小屋根をつけた家、茅葺農家の屋根を改良して小屋根をつけた家。
旅籠造りの建屋を改良して小屋根をつけた家、茅葺農家の屋根を改良して小屋根をつけた家。
※撮影日は1月12日。
※この稿は続きます。
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