10月18日、沖縄県北部・・・ヘリパッド施設予定地の出来事。
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悲しい出来事です。発言した人が警察官とかそういう以前の問題です。職業は関係ありません。
これに対して○○沖縄相は「差別と断定できぬ」、○○法相は「差別用語にあたる」、○○官房長官は「発言は許すまじ行為」といっていたが衆院決算行政監視委員会で「差別と断定できないというのは政府の一致した見解だ」と答弁した。
・・・そういう問題じゃないんだ。
言葉というのは使い方しだいで尊敬語にも謙譲語にもなるし侮蔑語にもなる。
例えば・・・「百姓」という言葉・・・わたしの生れた農村では農家の人に対して「お百姓」といった尊敬語。農家の人は自ら「百姓」という謙譲語でプライドを表していた。都会地に出てきて「百姓」という言葉は侮蔑語で使われるのを知りました。
「田舎」という言葉は憧憬を含んだ美しい意味でも使われるし[田舎者が」[田舎芝居」なんていうと侮蔑語でも使われます。
心優しい日本人はむかしから、人が嫌がる言葉は相手の心情をくみ取って言わないという美徳を持っていた。気遣い、思い遣り・・・
原発避難者の子どもに「菌」・・・先生までも。
美しい日本人の心はどこにいったのでしょう。
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