今日は何の日・・・今から65年前の1945年8月9日未明、満州国(現在の中国東北部)にソ連軍が進攻(侵攻ともいう)した日です。
一般的には「ソ連対日参戦」といいます(防衛省では「対ソ防衛戦」という)。
第二次世界大戦末期、ソ連は「日ソ中立条約」を破棄してすでにTKO状態の日本に対して対日参戦します。そのわけは・・・1945年2月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国の米・英・ソの三国首脳がドイツの降伏後の戦後処理を決め、併せて米・ソ首脳間(ルーズベルト・スターリン)でドイツ降伏90日後にソ連が対日参戦する秘密協定を結びます。千島・樺太の処遇つきのオイシイ話です。・・・ということになっています。世に言うヤルタ会談です。もちろん日本はそんなことは露知りません。戦争というものは条約なんて糞喰らえなんです。
5月9日降伏批准文書調印。ソ連軍はヨーロッパからソ満国境に兵力を着々と移動します。90日後が待ち遠しかったでしょうね。
8月9日、ソ連軍は150万人の兵力で満州全体に襲いかかかります。これに対して関東軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦であったという(進攻を察知して南に逃げたという人もいます・・・このためほとんどの開拓民は軍の庇護を受けられなかった)。ポツダム宣言受諾、無条件降伏が1日後の8月16日関東軍本部に伝えられ、関東軍はほとんど無傷で武装解除します。ソ連軍が拘束した日本人は80万人といいます。シベリア抑留の始まりです。広い満州です。通信網もありません。そのため敗戦を知らずなおソ連軍に抵抗を続ける武装部隊もいました。哀れをとどめたのは奥地に取り残された開拓民、老人・女・子ども(成人はほとんど現地応召)。徒歩で南に逃避行が始まります。ソ連軍ばかりか現地満州人も襲ってきます。荒地を開拓するという満蒙開拓は実は現地満州人の農地を略奪(強制買上げ)して開拓民に与えることだったようです。恨みに思わないほうが不思議です。戦争中の関東軍の現地住民に対する行為(一部の行為と思いますが)も恨みに思われた原因になったでしょう。加害が被害になって返ってきたのです。守ってくれる軍隊はいません。徹底抗戦して全滅した開拓団もあります。乳飲み子を抱えた母親は共倒れになります。中国残留孤児が生まれます。襲撃してきたのは一部の人たちでしょう。ぜんぶが襲撃してきたら逃避行の全員が死んでいます。食べ物をくれた現地の人もいたといいます。
歴史に・・If・・が許されるなら・・・ポツダム宣言(ギブアップしなさいという共同声明)が日本に示された7月26日・・・ハイ・ヤーメタと返事したら原爆もソ連参戦もなかったのでしょうか。
さて話しは、もっと身近なことに飛びます。
NHK BSで「証言記録 兵士たちの戦争」というドキュメントが放送されています。
4月24日「王道楽土を信じた少年たち 満蒙開拓青少年義勇軍」という番組が放映されました。
信州の中信部と佐久方面の15歳前後の子どもたちの義勇軍の敗戦前後の行動をを元隊員へのインタビューの形で追っています。
上の地図の興安は少年たちが8月9日時点にいた訓練所の場所です。
このことは信州松本市のMさんから知らせがあったのですがBSの契約などないので収録をお願いしておいて、やがて届いたDVDを繰り返し見て、これはブログに入れなければと思ったのです。
満蒙開拓青少年義勇軍・・・どういう組織であるか知ってる人はほとんどいないでしょう。わたしもよく知りません。妻の母の弟2人がここで亡くなったらしいということ・・・小さなときの記憶で村の松林の中に日輪兵舎という小屋があったことを覚えていること・・・ですね。
DVDと関連する本を見て、おぼろげながらわかったことを次回は綴ってみようと思います。
歴史の流れや数字はWikipediaなどを参考にしました。Wikipediaは複数の執筆者が書き込んでいますから項目ごとに考え方が違うことがあります(たとえば進攻か侵攻か)。どう捉えるかはわたしの勝手にしました。Wikipediaで8月11日新京から38000人が日本に向けて脱出したとあります。敗戦前です。その内訳は軍・官・満鉄関係の家族だったといいます。わたしにはどう解釈していいかわかりません。
一般的には「ソ連対日参戦」といいます(防衛省では「対ソ防衛戦」という)。
第二次世界大戦末期、ソ連は「日ソ中立条約」を破棄してすでにTKO状態の日本に対して対日参戦します。そのわけは・・・1945年2月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国の米・英・ソの三国首脳がドイツの降伏後の戦後処理を決め、併せて米・ソ首脳間(ルーズベルト・スターリン)でドイツ降伏90日後にソ連が対日参戦する秘密協定を結びます。千島・樺太の処遇つきのオイシイ話です。・・・ということになっています。世に言うヤルタ会談です。もちろん日本はそんなことは露知りません。戦争というものは条約なんて糞喰らえなんです。
5月9日降伏批准文書調印。ソ連軍はヨーロッパからソ満国境に兵力を着々と移動します。90日後が待ち遠しかったでしょうね。
8月9日、ソ連軍は150万人の兵力で満州全体に襲いかかかります。これに対して関東軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦であったという(進攻を察知して南に逃げたという人もいます・・・このためほとんどの開拓民は軍の庇護を受けられなかった)。ポツダム宣言受諾、無条件降伏が1日後の8月16日関東軍本部に伝えられ、関東軍はほとんど無傷で武装解除します。ソ連軍が拘束した日本人は80万人といいます。シベリア抑留の始まりです。広い満州です。通信網もありません。そのため敗戦を知らずなおソ連軍に抵抗を続ける武装部隊もいました。哀れをとどめたのは奥地に取り残された開拓民、老人・女・子ども(成人はほとんど現地応召)。徒歩で南に逃避行が始まります。ソ連軍ばかりか現地満州人も襲ってきます。荒地を開拓するという満蒙開拓は実は現地満州人の農地を略奪(強制買上げ)して開拓民に与えることだったようです。恨みに思わないほうが不思議です。戦争中の関東軍の現地住民に対する行為(一部の行為と思いますが)も恨みに思われた原因になったでしょう。加害が被害になって返ってきたのです。守ってくれる軍隊はいません。徹底抗戦して全滅した開拓団もあります。乳飲み子を抱えた母親は共倒れになります。中国残留孤児が生まれます。襲撃してきたのは一部の人たちでしょう。ぜんぶが襲撃してきたら逃避行の全員が死んでいます。食べ物をくれた現地の人もいたといいます。
歴史に・・If・・が許されるなら・・・ポツダム宣言(ギブアップしなさいという共同声明)が日本に示された7月26日・・・ハイ・ヤーメタと返事したら原爆もソ連参戦もなかったのでしょうか。
さて話しは、もっと身近なことに飛びます。
NHK BSで「証言記録 兵士たちの戦争」というドキュメントが放送されています。
4月24日「王道楽土を信じた少年たち 満蒙開拓青少年義勇軍」という番組が放映されました。
信州の中信部と佐久方面の15歳前後の子どもたちの義勇軍の敗戦前後の行動をを元隊員へのインタビューの形で追っています。
上の地図の興安は少年たちが8月9日時点にいた訓練所の場所です。
このことは信州松本市のMさんから知らせがあったのですがBSの契約などないので収録をお願いしておいて、やがて届いたDVDを繰り返し見て、これはブログに入れなければと思ったのです。
満蒙開拓青少年義勇軍・・・どういう組織であるか知ってる人はほとんどいないでしょう。わたしもよく知りません。妻の母の弟2人がここで亡くなったらしいということ・・・小さなときの記憶で村の松林の中に日輪兵舎という小屋があったことを覚えていること・・・ですね。
DVDと関連する本を見て、おぼろげながらわかったことを次回は綴ってみようと思います。
歴史の流れや数字はWikipediaなどを参考にしました。Wikipediaは複数の執筆者が書き込んでいますから項目ごとに考え方が違うことがあります(たとえば進攻か侵攻か)。どう捉えるかはわたしの勝手にしました。Wikipediaで8月11日新京から38000人が日本に向けて脱出したとあります。敗戦前です。その内訳は軍・官・満鉄関係の家族だったといいます。わたしにはどう解釈していいかわかりません。
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