秩父路を道の駅「龍勢会館」です。
道の駅といえばJAの農産物産直売り場があって食堂があってというのがパターンですが、延喜式にも記されている椋神社の神事「龍勢祭り」の龍勢会館、秩父困民党事件を描いた映画「草の乱」のオープンセット、秩父困民党のリーダーの一人井上伝蔵の蔵造り店舗(秩父事件資料館)があります。
秩父事件って何だったのでしょうか。江戸時代の一揆、強訴? 江戸時代から明治の御世に、年貢が金納に、支払い先が大名から日本国に変わりました。米作の地域は米を換金できますが米作のできない地域はどうしてたでしょうか。日本は80%が山ですからとうぜん山や谷に住む民がむかしからいます。V字谷の秩父の谷は米作に適した沖積地はホンのわずか。「耕して天に至る」ような段々畑にできる緩やかな傾斜地もわずかです。江戸時代は榑木(クレギ・・板屋根などの材料)、薪炭、蚕糸、煙草、蒟蒻、干し柿などを換金したりしていたと思います。農間期の手内職、出稼ぎも貴重な収入源だったでしょう。そういう土地は幕府も天領にしたり譜代大名領にして面倒見てきました。年貢も米が取れないところは別のモノを定めたりしています。不作の時は救済策もとります。江戸時代って一揆もありましたがけっこう民あっての御政道だったのです。
これが明治の御世になるとキビシクなります。おりしも松方大蔵卿の時、政府は明治維新の経済的なツケや軍事力の増強とかで、デフレ政策(通貨抑制)、増税政策をとります。当時の秩父の農民の収入は生糸中心だったようで、養蚕の準備資金を高利貸(消費者金融)から借金して生糸の売り上げで借金を返す、そんな繰り返しです。それがデフレによる商品価格の暴落と欧州生糸市場の暴落が重なり(生糸相場は半値といわれます)、金利の暴騰(10円が1年で26円に)でニッチもサッチもいかなくなったのが1884年。「身代限り(破産)」、小作農への転落、一家離散、夜逃げなどです。担保流れを買った不在地主層が増えていきます。
秩父困民党事件。最初は請願のつもりだったのでしょうか。要求4項目です。
生きるか死ぬかですから当然の請願です。要求はすべてハネラレマス。高利貸(マチ金)や地主豪農の打ちこわしという最悪の方向に進んでいきます。
1884年秩父困民党事件勃発。政府は軍を派遣します。
「戦い」と書かずに「衝突」と書きました。村田銃と火縄銃の戦いです。勝負になりません。ですが意外に死者が少ないのです。農民側の死者は全部で30人。官側の死者は5人。憎しみあっての戦いではなかったと思います。官側の兵隊、警官も農民出身だったでしょう。略奪、女犯、飲酒、放火、命令違反を禁じた軍律もありました。
首謀者のうち12人が死罪(2人行方不明、2人病死、死刑執行は8人)、そのほか懲役刑が140人余、罰金などが3600人余。
勇ましくも悲しい物語です。帝国憲法も帝国議会も参政権も無い時代です。
民のための、民による、民の政治・・・そんなものはどこにもありません。お上にたてつく逆賊、暴徒として片付けられました。今ならアカとでもいうのでしょうか。
井上伝蔵・・・インテリです。会計長をつとめます。ナンバー3ぐらいでしょうか。事件後、欠席裁判のまま死罪の判決を受けますが下吉田村関の知人宅の土蔵に2年のあいだ身を潜めたのち北海道に渡り、野付牛(現北見市)で流亡の旅を終わります。享年65歳。
ふるさと秩父の夏の魂祭りをしのんだ句でしょうか。
秩父困民党事件は秩父人の誇りです。
《参考リンク》(龍勢会館)(龍勢まつり)
秩父事件・・Wikipedia、 井上伝蔵・・Wikipedia
上武国境二子山の上から秩父の谷を眺めているうちに120年前におこった秩父事件って何だったのだろうと思い、たずねてみました。これから秩父市街に向かいます。
道の駅といえばJAの農産物産直売り場があって食堂があってというのがパターンですが、延喜式にも記されている椋神社の神事「龍勢祭り」の龍勢会館、秩父困民党事件を描いた映画「草の乱」のオープンセット、秩父困民党のリーダーの一人井上伝蔵の蔵造り店舗(秩父事件資料館)があります。
そうです。この町は明治17年(1884年)日本を震撼させた秩父事件の震源地なのです。
映画「草の乱」に使われたオープンセット。「珈琲」の暖簾がオカシイ。
映画「草の乱」のポスター。
映画「草の乱」に使われたオープンセット。「珈琲」の暖簾がオカシイ。
映画「草の乱」のポスター。
「草の乱」の撮影にも使われた井上伝蔵邸(2003年復元)。
井上伝蔵・・丸井商店六代目当主、寛永年間(1800年ごろ)から幕府御用達の鑑札を拝領している商家。米、衣類、雑貨、農具を扱うスーパーでもあり生糸の輸出も手がける貿易業もしていました。1852年建てられた土蔵造り店舗で1947年解体していたようです。壁にマル井の商標が見えます。図書館の本で少し勉強しました。左の2冊はむかし読んだ本です。
※井出孫六著「峠の軍談師」(社会思想社1986年刊、初出は河出書房新社1976年刊)
※井出孫六著「秩父困民党群像」(新人物往来社2005年新装版、初版は1973年)
※秩父事件研究顕彰協議会編「秩父事件」(新日本出版会 2004年刊)
※井出孫六著「峠の軍談師」(社会思想社1986年刊、初出は河出書房新社1976年刊)
※井出孫六著「秩父困民党群像」(新人物往来社2005年新装版、初版は1973年)
※秩父事件研究顕彰協議会編「秩父事件」(新日本出版会 2004年刊)
秩父事件って何だったのでしょうか。江戸時代の一揆、強訴? 江戸時代から明治の御世に、年貢が金納に、支払い先が大名から日本国に変わりました。米作の地域は米を換金できますが米作のできない地域はどうしてたでしょうか。日本は80%が山ですからとうぜん山や谷に住む民がむかしからいます。V字谷の秩父の谷は米作に適した沖積地はホンのわずか。「耕して天に至る」ような段々畑にできる緩やかな傾斜地もわずかです。江戸時代は榑木(クレギ・・板屋根などの材料)、薪炭、蚕糸、煙草、蒟蒻、干し柿などを換金したりしていたと思います。農間期の手内職、出稼ぎも貴重な収入源だったでしょう。そういう土地は幕府も天領にしたり譜代大名領にして面倒見てきました。年貢も米が取れないところは別のモノを定めたりしています。不作の時は救済策もとります。江戸時代って一揆もありましたがけっこう民あっての御政道だったのです。
これが明治の御世になるとキビシクなります。おりしも松方大蔵卿の時、政府は明治維新の経済的なツケや軍事力の増強とかで、デフレ政策(通貨抑制)、増税政策をとります。当時の秩父の農民の収入は生糸中心だったようで、養蚕の準備資金を高利貸(消費者金融)から借金して生糸の売り上げで借金を返す、そんな繰り返しです。それがデフレによる商品価格の暴落と欧州生糸市場の暴落が重なり(生糸相場は半値といわれます)、金利の暴騰(10円が1年で26円に)でニッチもサッチもいかなくなったのが1884年。「身代限り(破産)」、小作農への転落、一家離散、夜逃げなどです。担保流れを買った不在地主層が増えていきます。
秩父困民党事件。最初は請願のつもりだったのでしょうか。要求4項目です。
①債権者に迫り10年据え置き40年賦に延期を乞うこと
②学校費削減のため3年間休校を県に迫ること
③雑収税の軽減を内務省に迫ること
④村費の軽減を村に迫ること
②学校費削減のため3年間休校を県に迫ること
③雑収税の軽減を内務省に迫ること
④村費の軽減を村に迫ること
生きるか死ぬかですから当然の請願です。要求はすべてハネラレマス。高利貸(マチ金)や地主豪農の打ちこわしという最悪の方向に進んでいきます。
1884年秩父困民党事件勃発。政府は軍を派遣します。
10月31日 風布村で農民蜂起、130人
11月1日 下吉田村椋神社で決起集会、3000人
11月2日 大宮郷(現秩父市街)郡役所に本部、10000人
11月4日 金屋村の衝突、800人、12人死亡
11月5日 粥新田峠の衝突、100人
11月9日 信州東馬流(現小海町)300人、野辺山原200人の衝突で終了 14人死亡
11月1日 下吉田村椋神社で決起集会、3000人
11月2日 大宮郷(現秩父市街)郡役所に本部、10000人
11月4日 金屋村の衝突、800人、12人死亡
11月5日 粥新田峠の衝突、100人
11月9日 信州東馬流(現小海町)300人、野辺山原200人の衝突で終了 14人死亡
「戦い」と書かずに「衝突」と書きました。村田銃と火縄銃の戦いです。勝負になりません。ですが意外に死者が少ないのです。農民側の死者は全部で30人。官側の死者は5人。憎しみあっての戦いではなかったと思います。官側の兵隊、警官も農民出身だったでしょう。略奪、女犯、飲酒、放火、命令違反を禁じた軍律もありました。
首謀者のうち12人が死罪(2人行方不明、2人病死、死刑執行は8人)、そのほか懲役刑が140人余、罰金などが3600人余。
勇ましくも悲しい物語です。帝国憲法も帝国議会も参政権も無い時代です。
民のための、民による、民の政治・・・そんなものはどこにもありません。お上にたてつく逆賊、暴徒として片付けられました。今ならアカとでもいうのでしょうか。
井上伝蔵・・・インテリです。会計長をつとめます。ナンバー3ぐらいでしょうか。事件後、欠席裁判のまま死罪の判決を受けますが下吉田村関の知人宅の土蔵に2年のあいだ身を潜めたのち北海道に渡り、野付牛(現北見市)で流亡の旅を終わります。享年65歳。
おもかげの 眼にちらつくや たま祭り 柳蛙
ふるさと秩父の夏の魂祭りをしのんだ句でしょうか。
秩父困民党事件は秩父人の誇りです。
《参考リンク》(龍勢会館)(龍勢まつり)
秩父事件・・Wikipedia、 井上伝蔵・・Wikipedia
上武国境二子山の上から秩父の谷を眺めているうちに120年前におこった秩父事件って何だったのだろうと思い、たずねてみました。これから秩父市街に向かいます。
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勉強になりました。
お蕎麦はオニギリとパンを腹いっぱい食べ過ぎて残念ながらどこにも寄れませんでした(まぁぴいさんのグルメ情報を頭に入れておいたのですがね)。