比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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秩父路を行く・・・矢久峠・・・合角ダム

2008-05-09 | 道をゆく 秩父路
上武国境の二子山をあとにします。

小鹿野町坂本、このあたりから魚尾道(ヨノウミチ)という街道が二子山方面に向かっていますがいまは定かではないようです。二子山の西岳の尾根続きに魚尾峠(ヨノウトウゲ)という峠があり群馬県万場町魚尾集落(現神流町)に向かっています。林道は二子山の東側を巻いて北に向かいます。このあたりにかつて茅の坂峠という峠があったようです。

林道を進んでいくと二叉路、万場町に至ると書いた道標が。ここが矢久峠。カンで右の谷に向かい、さらに進むとまた分岐があり右の谷に進みます。しばらく進むと吉田川沿いの集落に出ました。

矢久峠あたり,ムラサキケマンの花の径です。
矢久峠・・・いまから120余年前に起きた秩父騒動(話すと長くなります)、志敗れた秩父困民党の集団が秩父大宮から、吉田川をさかのぼって矢久峠を越えて万場町魚尾に、さらに十石峠を越えて信州佐久平に進出(敗走)したルートです。

合角(カッカク)ダム(読めない)に堰きとめられた人造湖、名前は西秩父桃湖
遠くに見えるのが合角漣大橋。なお合角とはいまは湖底に消えた集落名です。

『桃湖』・・・このダムの事業者は埼玉県。当時の県知事土屋義彦氏の娘さんの名前の『桃子』にちなんで名付けられたといわれますが定かではありません そのご土屋氏は公私混同を問われて辞任します。
合角漣(サザナミ)大橋・・・国土地理院の地図では連大橋になってます。どちらが正しいのでしょう。地図でよく見るとこの橋の目的がよくわかりません。
ダムの利用目的の中に水力発電が入っていませんがわたしには意味はわかりません。

合角ダムの下に見える上吉田の集落。赤い建物は吉田元気村。 

ダムの堰堤の下を行くと塚越の三叉路に出ます。塚越は秩父困民党が信州転戦のとき一夜をすごしたといわれる集落です。

秩父では南から北へ流れる荒川、その荒川の西の谷、吉田川に沿ったいくつかの村が集まって吉田町に、さらには2005年秩父市に、時は流れ行政名は変わりましたがその実はむかしと同じです(当然ですが)。日本のどこにでもある農山村風景です。
吉田川から赤平川、荒川に合流するまでのこの谷(ヤツ)の風景、山国育ちのわたし的に考えた特徴があります。それは峠、数えただけでも14あります(地図に無い峠もあるはずです)。
矢久峠、坂丸峠、杉ノ峠、土坂峠、太田部峠、奈良尾峠、風早峠、札立峠、八人峠、団子坂峠、一本杉峠、巣掛峠、牛首峠、茅ノ坂峠。
ということはその昔、川の出口を除いては全ての交流(文化、物流)は峠を介して行われていたということです。信州百峠といいますがこの武州秩父にはもっと多くの峠があるかも知れません。

わたしの好きな「道の駅」によって秩父に向かいます。


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