比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

秩父困民党の足跡を追って・・・秩父事件はここ琴平神社で第一歩が踏み出された

2013-05-15 | 秩父事件を追って
5月12日、北武蔵の山波の北のはずれ、風布(ふうぷ)にやってきました。
風布は釜伏川に沿ったV字谷の谷底から上がった急峻な傾斜でみかん栽培を生業としている「風布みかん山」と呼ばれている村(今は寄居町大字風布です)。
東に向かったミカン山の斜面の坂を登りきると峠の頂上、塞神様、弁財天の石碑、秩父事件碑がありました。

明治17年(1884年)、秩父の谷で起きた民衆運動「秩父困民党事件」の事件後110年の秩父事件顕彰碑が建てられていました。

その上に、1984年建立の事件後100年追念碑が建てられていました。

その脇に聖観世音菩薩像。1984年建立の追念碑によれば、追念碑建造のとき有志の浄財で建てられたようです。


ここは琴平山(標高311m)、琴平神社が祀られています。
秩父事件は1884年10月31日、ここ琴平神社で風布組150名が集合して、運動の第一歩がスタートします。






秩父困民党事件」・・・1884年(明治17年)11月1日、明治新政府のデフレ政策で借金苦にあえぐ秩父の谷の農民が救済を求めて下吉田村(現秩父市)椋神社に集まり蜂起、その数3000人・・・翌11月2日、下吉田村を出発した農民の集団は荒川を渡り大宮郷(現秩父市街)に進出、その数は10000人に膨れ上がったといいます。

11月1日の椋神社の決起集会に参加した農民の中でいち早くその前日の10月31日にここ琴平神社で決起集会を開いたのが風布組といわれる風布、金尾、折原、男衾、鉢形など近在の共鳴者、その数150名、中でも風布村のからの参加者は80戸の内で70名といわれます。一行は夕刻に外秩父の山を降り、金崎村(現皆野町)の高利貸永保社を襲撃して地券、借用証文などを破却して下吉田の椋神社の総決起集会に向かいました。

なぜこの静かな山の中の山の民が暴動(と呼ばれるが)に参加したのか。ここから他村に通じる道は荒川の支流である昼なお暗い深いV字谷の風布川に沿った道かいくつかの峠以外にはありません。1枚の水田すらない急峻な山の中腹に人々は桑を植えお蚕を育てせることを生業にしていたと思います。秩父事件の起きた背景は生糸相場暴落とデフレ・・・蚕以外に生産のない山の民に生きていく道がなかったのでしょう。地域共同体は運命共同体・・・山の上から地形を見ているだけで秩父事件がわかってくるような気がします。

事件は10日後の11月10日長野県佐久の野辺山高原方面で困民党壊滅の結末を迎えます。江戸時代の強訴、一揆が明治時代にそのまま持ち込まれたような体制側と非体制側との衝突、体制側に刃向った暴動としてこの事件は終わりました。この事件は日本が近世から近代に生まれ変わる時代、民が国に対して声をあげ民政とは何かを問いかけた事件です。

帝国憲法、帝国議会が成立したのはそれからあとのことです。

コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿