比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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信州佐久の浅科から・・・浅間山と五郎兵衛新田の黄金の稲穂

2011-10-02 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
9月18日、秩父の志賀坂峠、群馬上野村の慰霊の園、信州佐久の東馬流の秩父事件の戦死者の墓・・・経由で佐久市浅科にやってきました。

国道142号線・・・道の駅「ほっとぱーく浅科」でボンヤリタイム。
雲が流れる浅間山と前に広がる黄金の稲穂の海がみごとです。
このあたりいったいの水田は江戸時代初期の1626年、上州南牧村の市川五郎兵衛が開発したといわれる五郎兵衛新田といいます。


※浅間山のズームアップ。


この道の駅・・・なぜか初めてです。つい最近できたのかなあ?
浅科・・・という名前は昭和の大合併で浅間山と蓼科山にちなんでつけられた村名とか。
いい名前です。すぐ近くの旧中仙道に当時の面影を残した23番目の塩名田宿があります。



道の駅のいまの目玉商品は新米「五郎兵衛米」です。この新田を開削したといわれる市川五郎兵衛については過去ログ
2007年8月6日・・・南牧村を行く・・・市川五郎兵衛・・・をご覧ください。
道の駅のすぐ西の方向、山の中腹に「五郎兵衛記念館」と五郎兵衛を祀った真親神社があります。
五郎兵衛新田・・・いまから380年くらい前の大公共事業です。山の奥の川から取水、山を掘り抜き川を渡る水路を引いて不毛の地に新田を開きます。五郎兵衛は上州南牧村の人、市川という姓から武田武士の系譜と思われますがいまの考えかたでは山間僻地の人です。その人が大事業を請け負ったということ、土木事業、設計技術の確かさは驚くばかりです。新田開発は封建時代の為政者の収益のためという見方もありますが大勢の民の命を支えたことは間違いありません。
豊かに頭をたれる五郎兵衛新田を見ながら、いまの公共事業のあり方を考えています。

さて、道の駅「ほっとぱーく浅科」で買ったお焼きです。
お焼きは100軒で買ったら100軒とも味が違います・・・どれも美味しいと思います。

近くの旧中山道の間の宿「茂田井宿」によって行こうと思います。


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