武州・羽生の散策です。利根川の川べり「道の駅」まで来ました。向こう岸は群馬県明和町。
徳川家康が江戸入府(1590年)の際に、まずはじめたのは関東平野の川を治めることでした。関東郡代伊奈忠次に命じて利根川を太平洋岸に、荒川を西に流す利根川の東遷、荒川の西遷という大プロジェクトが始まります。
利根川はこのあたりで合野川という小さな河川で江戸に向かっていたようです。それを締切って東の川に付け替えていきます。
この工事を「川俣の締切」といい、徳川幕府は忍城(おしじょう、現在の行田市)の城主松平忠吉に命じ家臣の小笠原三郎左衛門が総責任者になって進められたといいます。1654年利根川は銚子に達します。伊奈家三代忠克のときです。
「〆切神社」の石碑、明治28年(1895年)の刻みが。1594年の川俣の締切工事は難儀を極め僧侶が人柱になったといわれる・・・伝説・・・その魂を鎮めるためとか。
川俣の関所址(旧跡指定)。江戸時代初期に作られ、明治2年(1869年)撤去。現在の国道122号線、日光脇街道(王子、岩槻、羽生、館林。桐生から渡良瀬沿いで日光に)の渡船場に設けられました。後に見えるのが昭和橋、1929年架橋してそのご付け替え。現在の石碑は昭和32年(1957年)橋の改修で移されたとき作ったもの。
「お定め書」の立て札があるが読んでみるとと面白い。
《オマケ》行田市の忍城に寄ってみました。
桜はすでに見ごろを過ぎています。
城は1988年造られた鉄筋コンクリート製の擬城。
石田三成が攻め倦んだという湿原の上の浮き城。
和田竜著「忍ぶの城」(小学館2007年刊)で知られる。
「のぼうの城」として映画化予定。
羽生の散策はここれにて終了。
徳川家康が江戸入府(1590年)の際に、まずはじめたのは関東平野の川を治めることでした。関東郡代伊奈忠次に命じて利根川を太平洋岸に、荒川を西に流す利根川の東遷、荒川の西遷という大プロジェクトが始まります。
利根川はこのあたりで合野川という小さな河川で江戸に向かっていたようです。それを締切って東の川に付け替えていきます。
この工事を「川俣の締切」といい、徳川幕府は忍城(おしじょう、現在の行田市)の城主松平忠吉に命じ家臣の小笠原三郎左衛門が総責任者になって進められたといいます。1654年利根川は銚子に達します。伊奈家三代忠克のときです。
「〆切神社」の石碑、明治28年(1895年)の刻みが。1594年の川俣の締切工事は難儀を極め僧侶が人柱になったといわれる・・・伝説・・・その魂を鎮めるためとか。
「川俣締切阯」の碑のある羽生「道の駅」あたりから利根川の広大な眺め。遠くに東武鉄道伊勢崎線の鉄橋が見えます。
川俣の関所址(旧跡指定)。江戸時代初期に作られ、明治2年(1869年)撤去。現在の国道122号線、日光脇街道(王子、岩槻、羽生、館林。桐生から渡良瀬沿いで日光に)の渡船場に設けられました。後に見えるのが昭和橋、1929年架橋してそのご付け替え。現在の石碑は昭和32年(1957年)橋の改修で移されたとき作ったもの。
「お定め書」の立て札があるが読んでみるとと面白い。
《オマケ》行田市の忍城に寄ってみました。
桜はすでに見ごろを過ぎています。
城は1988年造られた鉄筋コンクリート製の擬城。
石田三成が攻め倦んだという湿原の上の浮き城。
和田竜著「忍ぶの城」(小学館2007年刊)で知られる。
「のぼうの城」として映画化予定。
羽生の散策はここれにて終了。
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